ハガネの牙は折れない

 その部屋には大げさなほど大きく、時計の針が刻む音が響いていた。秒針。深夜十一時五十分。清潔感のある白いベッドには女が一人横たわっている。

 そばにあるパイプ椅子には、男がうなだれたまま手を組み、座り込んでいた。もう何日そうしているのだろう。

 秒針の音。心電図の音。規則正しい呼吸の音。男は隈の入った自らの目を擦る。分針が動く。女が目を開く。十一時五十一分。


「少佐」


 男の声に反応してか、少佐と呼ばれた女は虚ろな目で空を見つめた。そっけないコンクリートの天井が回転し、女の脳に血液が回り始める。

 生きている。

 女はゆっくりと身を起こした。目の前には、やせっぽちの金髪。深い隈に、唇と耳にピアスの青年。唯一の部下。


「何日寝ていた。答えろ、ミッターマイヤー」


「三日であります」


「実験部隊はろくな手術をさせてもらえんらしいな」


 ミリィ・ハーネ少佐はけだるい体に違和感を覚えながら、状態を起こし部下のミッターマイヤーに笑いかけた。彼は涙を拭いながら、ミリィの右手を握った。女性のものとも思われぬ、ごつごつとした軍人の手を。


「左腕はどうなった。……聞くまでもないか」


「はい」


 ミッターマイヤーが既に無い左腕を通り過ぎ、背中を持ち上げ女を起こした。乱暴な手術だ。強化外骨格。実験部隊として、試作兵器を自らの体で試すのが、女の仕事であった。そして彼女は負けた。おそらく、この『帝国』から漏れ出した技術に。強化外骨格は左手ごとひしゃげて、骨はおろか肉と機械部分の境界線が無くなった。まるで不格好な、機械と人肉のあいびきハンバーグ。激痛により女は気絶。それでも女は──ミリィ・ハーネ特任少佐は自分の今後の運命を感じ取っていた。すなわち、このようなことになることを。

 第四帝国。南米に逃げたかつての『総統閣下』が作った、地下帝国。現在は既存の組織の奥深くに食い込んでいるといわれている。もはや組織ははた目からは組織には見えない。見えないネットワーク、カットアウトを使ったどこから伝わるか不明瞭な命令系統。それでも、全人類に優越する優良人種による実効支配というスローガンは共通している。『忠誠こそわが誇り』。組織とスローガンに命を捧げる彼女に迷いはない。


「上からの指示は受けているのか」


 針が進む。五十二分。ミッターマイヤーは言い淀む。鋼鉄の精神。鋼鉄の誇り。それが第四帝国のモットー。しかしことこの速成コース出身の若き准尉には、どうにも当てはまらぬようであった。


「何を押し黙っている。言え」


「左腕ごと、切り落としたんですよ」


「それがどうした。軍人(われわれ)にとって必要なのは折れない心と上官からの指示、そして生きているという事実だ」


 ベッドのそばで、ミッターマイヤーはまっすぐ立っていたが、顔だけは下を向いていた。


「気に病むのはお門違いだ、ミッターマイヤー。指示が来ていないわけがない。言え」


「オールドハイト実験部隊を一時解散し、我々は南米地区へ移送されると」


 さすがの鋼鉄の精神も揺らぎかけた。それはこの組織において『墓場』に送られることを意味する。お払い箱。それが上の決定であるというのか。


「試作兵器は大破。流用兵器の破壊も失敗、そのルーツも探れなかった。当然だろうな」


 少佐は乾いた笑みを浮かべて、ベッドから足を下ろした。緑色の手術着であることに気付く。これでは何もできない。


「部屋から出ろ。着替える」





 鉄狼パンツァーヴォルフシャンツェ

 オールドハイトの地下鉄(サブウェイ)奥、隠し通路を経た先に、その基地は存在する。世界中の都市に、こうした前線基地が存在し、第四帝国による秘密工作が行われている。いずれ全世界に対する戦争が起きた時のための備えを、こうして半世紀以上続けているのだ。それはある種の狂気であった。その狂気の出どころは既に死して久しい。今この狂気を支えているのがいったい誰で、その指令を出しているのが誰なのか、構成員は誰も知らぬ。むろん、左腕を無くした少佐も、その部下も。


「少佐。逃げましょう」


 ミッターマイヤーは部屋を出たミリィにそう言った。


「南米支部は機密保持のための『処分場』だってもっぱらの噂ですよ。殺されます」


「貴様に落ち度は無かった。作戦ログにもそれはきちんと記されているはずだ。不安なら監察官に弁明くらいしてやる。まあ当分閑職は免れんだろうがな」


 モスグリーンの軍服。コンバットブーツ。ミリィ・ハーネの服装に微塵も乱れはない。ただ一つ、左腕のあったはずの袖は空中に揺れている事を除けば。


「自分が心配しているのは、少佐のことです」


「私のか」


「自分は少佐に拾われました。少佐以外の下で働こうとは思いません」


「貴様も組織人なら受け入れることだ」


 かつて自分がそういわれたように、ミリィはできるだけ冷徹に部下に述べた。この組織に『失敗作』は不要だ。兵器に人材、どんなものでもケチがつけば不要とみなされる。オールドハイトという犯罪都市は、第四帝国の実験場として隠れ蓑にちょうど良い。そして、南米地区に次ぐ『ごみ溜め』でもある。行き場のない『失敗作』の集まり、それがオールドハイト支部。ここでも失敗するような人材に用などない。南米地区での終わりなき強制労働か、秘密裏での『処分』が下されるだろう。


「少佐、あの『鉄腕』は一体」


「わからん。医療用の代替義肢はすでに実用化している。第四帝国の系列で民間向けに発売すらしている。それはいい。あれは明らかに戦闘用だ。五本指の義手、重機並みのハイパワー……あんなものは『ゼウス』のデータベース上でも見たことが無い」


 彼らは誰もいない、暗く寒い廊下を歩き、超コンピュータ・ゼウスとの通信施設へと向かった。この基地に、彼ら以外の人間はいない。この通信施設以外には、チャートめいた診断装置しか持たないオート・手術システムと、二人の居住区くらいしかない。この支部に専任として配属されているのは、二人だけなのだ。

 たった二人の『帝国』。ミッターマイヤーは考える。コンピュータの先の指令はいったい誰が出しているのか。いやそもそも、帝国など存在するのか?


『君たちの浅慮には心底呆れさせられる』


「それは総統閣下の言葉か、ゼウス」


 巨大ディスプレイには、あらゆる情報データが無表示だ。ドイツ語で『雄弁は銀、沈黙は金』とのみ、低ドット文字で書かれている。無機質な合成音声から発せられる機械的な指令が、この場でのすべてだ。


『もちろんそうだともいえるし、そうではないともいえる。君たちにそれを確かめる術はない。僕はただの伝達者であり、この場での指令権限があるのみだ。総統閣下と同一かどうかという質問に答えることはできない』


「ゼウス。私の左腕は無くなった。南米支部への移送命令が出ていることも知っている。……しかし任務は果たせる。心が折れなければ、軍人は死なない」


『忠誠心は必要だが、それによって死ぬようでは軍人として意味はないと思わないのかね』


「任務を果たせるのに、果たせないと断じることがお前の仕事ではあるまい。限られたリソースを最大限活用するために割り振りを考えるのが、お前の仕事だろう」


 ゼウスは巨大ディスプレイにしばらく進捗バーを表示させてから、再び自らの格言を表示させてから言った。


『移送命令については一時凍結。付近にある支部から君に最適な特殊装備を支給する』


 勝利の笑み。機械には正論を超える正論でしか、勝ちを拾うことはできない。ミッターマイヤーも、ほっと胸をなでおろしたようであった。しかしすぐにそれは、ぬか喜びへと変わった。


『君は僕に最適なリソースの配分を考えろと言った。君が次の任務に失敗するようなことがあれば、君は南米支部へ移送される。もちろん、ミッターマイヤー准尉も同じだ』


「ミッターマイヤーに落ち度は無かった。やる前から失敗することを考えるつもりはないが、私はともかく彼は──」


『なんのために速成コースがあると思っているんだい? 確かに今いるリソースは大事だが、人材が本当の意味で「限りあるもの」だと思わないことだ。特殊装備の運用訓練のために「人狩り」の標的を準備しておく』


 反論は許さない。その意志の表れかのように、黒いディスプレイから格言が消える。沈黙を美徳とする彼らしい返答。ミリィは小さくため息をついた。振り返る。青ざめた顔の部下。


「どうやら地獄に付き合わせることになったな、ミッターマイヤー」


「少佐……」


「心配するな」


 ミリィ・ハーネは笑う。この理不尽が、この危機感が、嵐に翻弄されうる小さな人間が、軍人だ。そうなったことに、彼女は感謝してこそいた。奇妙なことだが、彼女は理不尽を愛していた。理不尽なうちに死すことを愛していた。すなわち、彼女の信じる戦場での死だ。それは、移送された後の獄死とは違う。誇りある死。


「地獄の淵を歩くだけだ。突き落とさせはしない。お前も、私自身も。……さあ、足を踏み出そうじゃないか」


「手を取ってくれるんでしょうね、少佐」


「さあな。私は歩くだけだ。ついてこい、ミッターマイヤー」


 二人は笑った。地獄の淵を一人で歩くのは、辛いことだ。だが二人なら、地獄の底に落ちてもなんとかやっていけるだろう。もちろん、落ちる気などさらさら無いが。






 セントラルパークからさらに南、南東にある倉庫街。霧が立ち込める不気味な場所。人の姿はなく、気配も少ない。悪党どもの隠れ場所でもある。余計な詮索は死を招く。ここで何が起ころうと互いに詮索はしないのがルールだ。

 よってここでは、なんでも起こり、何も起こらなかったことになる。オールドハイトの闇そのもの。そして、ミリィとミッターマイヤーの二人にとって、大変紛れやすい闇の一つだ。


「運用試験はどうですか、少佐」


「悪くない」


 三つ指のカギ爪めいた鉄の腕。ミリィ・ハーネの左腕、肩の部分には、鈍く輝く十字が刻印されていた。それを回転させると、プラズマのごとき腕からの放電が止み、轟音と共に『空中に浮いていた』鉄のコンテナが地面に落下する。コンテナの底には、べったりと血痕がついていた。十字の意匠は変形し、カギ十字となった。第四帝国の誇りを端的に表す、素晴らしいデザインだ。


「狩りは上々だ。これならば、力負けもしないだろう。あの鉄腕にもな」


「宣戦布告をしたことになりますね」


 人狩りの標的。失踪中の弁護士。借金だらけのクズ。借金取りのチンピラに囚われていたところを、チンピラをまるごと始末し助け出した。その後、まるでハンティングのごとく自然公園で解放し──そして新型義腕で殺したのだ。無慈悲に。あそこに住まう『狂人』に見せつけるために。

 鉄腕は弁護士を探す依頼を受けているという。ならば、いずれ自分にたどり着く。


「自分の有利な場面におびき寄せられれば上々だ。地獄の淵を歩くのは我々だけでいい。やつは落ちる。地獄の底へな」


 二人は笑う。不安を押し殺して獰猛に笑う。それが軍人であり、それが生き残るために必要だからだ。



 続く

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