SOHKS
「どうするのさ。追ってきてる」
雨はやみ、夜に立ち込める深い霧がオールドハイトを覆い始める。盗品バンのハンドルを握っていた鉄腕は、静かにバンを止めた。
「逃げるのも飽きたな」
「どうせ無駄だから?」
フェイもまた、クリスと一緒にバンのリアウインドウから、オンボロの白いカマロを見ていた。ちかちかと頼りなく点滅するハザード・ランプ。霧の中で揺らめく人影が、まるで巨人の影のように大きく映る。
「ああ、無駄だろうな。アタシが降りていくのも、猟犬がトリガーを引くのも、結局は無駄なのさ」
ビルとビルの間。ヘッドランプに照らされる影と影。鉄腕は追跡者に声をかける。
「ハロー、懐かしのスーパースター。ペンなら持ってる。サインくれよ……」
四十四口径オートマグが鉄腕を捉える。当たれば文句なしに死ぬ大口径銃。霧が頬を撫ぜる。汗か、霧か分からない液体が頬を伝う。
「物騒な話だな。あんたも、アタシも誰かに迷惑をかけなきゃ生きていけない」
ハザード・ランプが点滅する。アーモンド色の瞳が渦を巻く。美しいながら、疲れた女の顔。刻まれた皺から見ても、四十代は過ぎてしまっているだろう。くすんだ金髪。素っ気のないノーネクタイの黒スーツ。そこから覗く枯れ枝の集合体のような鎖骨──かつてのスーパースター。過去の遺物。時代遅れのディアナ。
「いずれは我が身ってわけだ。アタシもこの街から忘れ去られる時がくるんだろうよ。……だがそれは今じゃない」
ディアナがトリガーを絞る。鋭い銃声。マズルフラッシュと共に、四十四口径のマグナム弾が、鉄腕の特殊繊維性防弾コートにめり込む。鉄腕はもろともせず進む。再び銃声。鉄腕がバレルを掴み斜線をずらした。結果的に、オートマグのマグナム弾はあさっての方向に跳ねた。
「同窓会はおしまいだ、懐かしスター」
鉄腕は決着をつけようとした。バレルを掴んだ右手を使って、裏拳で殴り飛ばし、それで勝敗を決しようとしたのだ。
手応えがなかった。ディアナは消えていた。まるで黒い霧に溶けるように、鉄腕が抑えたオートマグを残して姿を消したのだ。裏拳は彼女がいたはずのところを通過し空振りする。家にいた時と同じ。
──すべてが終わっても、泣いてはいけない──
突如、カマロのカーステレオから、古い歌が流れる。インク・スポッツ。鉄腕はその意味を知っている。時代遅れのディアナのルール、その最後のひとつを。
その歌が流れた時、相手は間違いなく死ぬ。曰くそれはディアナからの花向け、鎮魂歌であると──。
GRRRR──獣が喉を鳴らす。ハザード・ランプが壁に張り付く獣の影を映し出す。人間ではない。時代遅れのディアナだったはずの、黒スーツの疲れた女殺し屋は、今や鉄腕より明らかに大きな獣──いや
『私は時代遅れなんかじゃない』
ざりざり、とノイズ混じりの声。ぎょろりとした大きな丸い目が、鉄腕を見下ろす。よく見ると手には、小さなテープレコーダ。
『私の──キュルキュル──名前は──ブツブツ──猟犬ディアナです』
犬歯を剥き、長い耳と毛を振り乱しながら、ディアナは伸びた爪で鉄腕のいた地面をまるでバターをすくい取るように斬り付けた。いかな防刃コートといえど、こんなものをまともに受ければひとたまりもない!
「こんな芸をいつ身に着けたんだ! あんたらしくもない!」
バンの扉を蹴り飛ばし、フェイが助太刀に現れる。槍を突き刺すかのごとく鋭い蹴りが、鉄腕を致命的に切り裂いたであろう爪をわずかにそらす。鉄腕の長いポニーテールが、ざんばらとわずかに切り裂かれ霧の中を舞う。
フェイは体をねじり、そのまま回転し左足を突き刺すがやはり手応えなし。その時、ようやく二人は異常に気づく。ディアナは本当に消えている。反射神経や、体捌きで超えられるような動きはとうに超えている。まるでオールドハイトの霧そのものに溶けるように、黒い粒子に分解し、体が再構成されている。雨や霧で気付かなかったのは、偶然かディアナの策略か。
「なんてこと、これじゃ打つ手なし!」
再構成されたディアナが、空間をも切り裂くような爪を振り抜き雨を断ち切った。フェイは鋼鉄パンプスの靴底で裂拍一閃、爪を踏み折り跳躍、そのままビル壁を蹴り三角蹴りを繰り出す。
しかし再びディアナは黒い霧に溶け、三度完全に消滅した。
「どこ行った」
息を整えながら、鉄腕もフェイもあたりを警戒する。インク・スポッツはまだ歌っている。すべてが終わった。なにもかもすべてが──。歌詞のとおりだとは思わない。ディアナはまだこちらを伺っている。獲物を狩るために息を潜める猟犬のごとく。
「わからないわ」
『我々の挑戦者はいかがですか、鉄腕さん』
何者かの声が響く。機械音声のような白々しさに、鉄腕は苛立つ。
「誰だ」
雨でシケった葉巻から、雫が落ちる。姿なき監視者への苛立ちがつのる。
『私はヘルブラウ教授。
ディアナ一人で、このような能力を身につけられるはずがない。しかし、ソークス? 聞いたことのない名前の組織だ。
「カマロをぶっ壊したらアンタの声を聞かなくて済むのか?」
ヘルブラウは芝居がかった様子でわざとらしく笑った。
『あなたに理解できるとは思いませんが、その時は別のカーステレオから声を出せば良いだけです。なんだったら、バンに乗ってるお嬢さんや、あなたの携帯電話からも音を出してもいいですよ』
「はーん。なら結構だ。こっちだって考えってもんがあるぜ。音楽鑑賞の趣味はやめる。聞かずに取っといたイエロー・サブマリンのレコードも捨てる。これでアンタと会わずに済む」
ひび割れた笑い声。鉄腕は平静を装っていたが、内心は苛立っていた。自分の手を汚さず遠方から上から目線。気に食わない。
『猟犬の弾丸は尽きましたが、彼女の牙は、爪は残っている。今回はこれまで、痛み分けとしましょう。しかしSOHKSは、あなたという脅威についてよく思っていない。我々にとってあなたはこのオールドハイトから消えなくてはならない不純物だ』
「ラジオDJからディスられたのは初めてだよ。いいぜ、いつでもやってやる」
虚しいファックサインであることくらい、鉄腕は理解していた。上等だ。そっちがその気なら、どちらか死ぬまでやってやる。
『威勢がよろしいことで。我々は必ず目的を達する──次会うときは、あなたが死ぬ時だ』
雨が止む。相変わらず、霧は漂ったままだ。カーステレオから、自動的にテープが飛び出していた。すべてが終わった。
わたしは濡れそぼっている。
わたしはかろうじてボロボロのまま残ったスーツの上着を羽織り、霧の街を歩く。わたしはバチバチと霧に散る火花を見る。古い電灯が、放置されたまま割れた鏡を映し出す。
元から特異体質だった。キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルの虚像を、まるで幽霊離脱のように歩かせ、その目から世界を見ることができた。
その代償かどうかは分からなかったが、鏡に映っているのはいつも自分ではなかった。
今のわたしは、疲れた顔の殺し屋でも、愛らしい犬でもない。裂けた口、長い犬歯。くすんだ金髪と左手は人間に戻り、右手は長い爪のついた獣のままだ。
わたしはNukePurpleを取り出そうとしたが、もはやボロ布と化したスーツの上着の中には見当たらないことにまたもや絶望していた。
身体はだんだんと人間に戻っていく。ただ、顔だけが戻らない。獣の口。獣の瞳。わたしは毛で覆われたままの顔に手を触れる。戻らない。全く。
わたしは人間か、獣か? 決まっている。
わたしはほんとうの姿を失ったただの『猟犬』。
名前と二つ名だけが残ったばけもの。
わたしの名前はディアナ。『姿なき猟犬』──。アーモンド色の瞳からは、もう涙は出なかった。
終
アイアンナックル Re:run 高柳 総一郎 @takayanagi1609
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