フォックス・ハウンド


 夜から朝にかけて、オールドハイトという街には霧が漂い始める。霧はあらゆる悪徳と恐るべき秘密を覆い隠す。中央区のど真ん中に位置する、セントラルパーク。普段は家族連れがピクニックに訪れるようなのどかな自然公園だが、こと深夜になると静かだ。木の葉が揺れる音。虫の鳴き声──その中を走るあえぐような息の男。空気を掻いて走る。木を避け、転び、それでも立ち上がる。男は走る。助けを求めて。


「ん〜ん〜……」

 

 鼻歌交じりだった。

 男の頭にぴったりと十字架が合わさる。十字架はリング状にかたどられていて、軍用のスナイパー・スコープの中に入っている。照準が十字架なのだ。L96A1。英国製スナイパー・ライフル。悪趣味なトリコロール・カラーでペイントされたそれは、女が好き放題なカスタマイズを繰り返したものだった。


「キツネ、キツネ──どこまで走る」


 ぴたりと合わせた男の頭に向けて、女はトリガーを絞った。弾は出ない。当たり前だ。このライフルには弾など一発も入っていない。


「バアン」


 森の中の小高い丘に、トリコロールカラーのパラソルが刺さっていた。女はその下に寝そべり、スナイパー・ライフルを構えていたのだ。ハンチング帽に、古式ゆかしいフィールド・コート。ハンティングのトラディショナルスタイルといえるだろう。


「最近は迷い込む狐が多いな」


 女はやおら立ち上がると、パラソルの下に誂えた折りたたみ式の小さなロウ・テーブルから、既に冷めて久しい紅茶の入ったカップを取った。もはや、香りも失せ切った何の意味もない色水を、女はうまそうに飲み干した。

 女はいつもこの時間にこの服装でここに陣を構え、趣味でチューンナップしたスナイパー・ライフルを携えて、スコープを覗いているのだ。ロイヤル・ファミリーを自称する女にとって、『狐狩り』はもっとも愉快なレクリエーションだった。

 なぜこのような場所で?

 誰しもが疑問に思うだろう。理由は簡単だ。彼女はこの公園──わずか1キロ平米であるが、ここを実効支配しているのだ。スナイパーライフルは、彼女がここの支配者たる証──抑止力にして軍事力の源である。


「ま……弾もタダではないからな」


 彼女はすでに興味を無くしていた。ハンティングは終わりだ。なぜなら弾がでていたら女はあの『狐』を仕留めていたからだ。

 女はぞっとするくらい正確な動きでパラソルを美しく畳み、ロウ・テーブルを折りたたみ、背負った。こんなことを、もう何年も続けている。狐を追って、幾度となく夜を過ごしている。女の姿が霧の夜に溶ける。溶ける。やがて溶けた。

 






 安く買い叩いたサイドカーの調子が良い。

 ファイアパターンのペイントを施した、ハーレー・ダビッドソンが、オールドハイトの霧を裂いて疾走する。セントラルパーク近くの駐車場に止め、またがっていた女が颯爽と降りた。コート、ノーネクタイのシャツ、スマートなスラックス。スニーカー。ラフな格好だ。


「今日は仕事なの?」


「ああ。仕事だ」


 女は茶色のロングコートの裏ポケットから、銀色のシガレット・ケースを取り出す。中身の葉巻──ヘンリエッタ・Y・チャーチルズを取り出し咥え、イラついた様子で先をかみちぎる。長いマッチで火を点けると、落ち着いたポートワインのようなかぐわしい香り。『鉄腕』、アンナ・マイヤーの仕事はトラブルシューターだ。トラブルならなんでも引き受けて、カネにする。


「クリス、お前にも話したろ。弁護士を探してくれって依頼」


「聞いた」


 ぶっきらぼうにそう答えるのは、ラフな格好のアンナと異なり、サスペンダー付きの半ズボンにドレスシャツというフォーマルな衣装に身を包んだクリスだ。彼女はすっかり鉄腕の相棒気取りで、何かと外へとついてきたがるのだった。


「今日、そいつが見つかった」


「ピクニックでもしてたの」


「知らね。分かんのはそいつから答えは聞けないだろうってことさ」


 ブルーシート。ブルーの国家権力者たち。霧に漂う死の香り。古臭いレイン・コートに大柄な白髪男。会いたくなかった男。しかし、鉄腕にとっては強力な協力者だ。


「よう、警部。調子はどうだい」


「死体の前で言うセリフか?」


 舌打ち。本来ならば、このランス警部に、鉄腕を招き入れる正当な理由などない。しかし今回の彼女には理由がある。


「参ったね、警部。アタシは死体の情報を欲しがったわけじゃないんだぜ」


 ブルーシートが『彼』にかけられていた。死んでいる。弁護士。恋人からの依頼。連絡が取れなくなった『彼』を探してほしい。恋人のために流した涙。鉄腕は女の涙に弱い。


「死んでる」


 クリスは臆せずブルーシートをめくり、彼の素顔を見た。恐怖にゆがんだ顔。ひしゃげた腕。つぶれた内臓。まるで押しつぶされたような死体。恋人にこの死に様だけは伝えられないだろう。


「いつからガキを連れ込むようになった」


 ランス警部は構わずたばこをコートの裏ポケットから取り出し咥えた。捜査は大体済んだ。あとは犯人を挙げることを考えねばならない。もちろんノーヒントだ。彼はカネにならない事件ヤマは踏まない。早々に誰かに押し付けることだろう。


「女を連れて歩くのはアタシの趣味でね」


「死体は見世物小屋の出し物じゃねえんだ」


「どんな映画よりリアルだぜ」


「ならチケット代を払え」


 へらへら笑う鉄腕に、警部はいい加減うんざりしている様子だった。下らぬ話にカロリーを使っていられない。


「しかし警部。あんたついてるぜ」


「何がだ」


「ここはどこだ?」


「セントラルパークだよ。……そんな自慢げな顔すんじゃねえや。考えたくもなかっただけだ」


 クリスが不思議そうに立ち上がり、二人を見上げた。


「ここに何かあるの」


「別に。ここはいつだって目があるのさ」


 警部はぼりぼりとこめかみを掻くと、あたりを見回す。男が死んでいるのは、林の中。と言っても、この自然公園は『不自然に』人の手が入っている。木と木の間は一定に保たれており、上からならば見通しは良いだろう。北の方角に小高い丘。


「あのイカレ野郎に何か期待してどうする? 大体話通じんのか」


「女同士ならやりようがある。どうだい警部、アタシに任せてみちゃあ? もちろん手柄はあんたに立てさせてやるぜ」


 警部は無精ひげの混じった顎をさすってから、任せる、と一言。いかに楽をするか、人をこき使うかは彼の永遠のテーマだ。


「ま、うまくやれや」


「アタシはいつだって上手さ」


 小高い丘の上。クリスを連れて、ピクニックだ。まだ風は寒い。当分春は先だろう。トリコロールカラーのパラソル。寒空の下の優雅なティータイム。トリコロールカラーのフォールディングチェアに身を預け、湯気はとうの昔に失ったティー・カップを口に運ぶ。


「伯爵。久々じゃないか」


「ティータイムだぜ、『鉄腕』。見てわからないかい? 僕のティータイムは誰にも邪魔されちゃいけないんだ」


 サンジェルマン伯爵。かつてフランスの社交界にいたという、怪人物。不老不死の体現者。イギリスかぶれの年齢不詳の女のことを、誰がそう呼んだのかはわからなかったが、この公園の一部を支配する女の事を、勝手にそう呼ぶものも少なくなかった。彼女がそれを受け入れるのも、早かったのだ。


「誰だい、その女の子」


「クリスだ。まあ相棒ってとこか」


 頷くクリスに、伯爵はふうん、と興味もなさげな風である。クリスもまた同じらしく、折りたたみ式のサイドテーブルに載せられたクッキーと冷めた紅茶を見つけ、それに手を伸ばした。


「なんだ、欲しいのか? 紅茶は飲まないでくれよ」


 伯爵はにかりと笑みを見せた。鉄腕はなおも手を伸ばそうとするクリスの手首をつかんだ。


「食うな」


 伯爵には聞こえない小さな声で、真剣な瞳で。クリスは眉をひそめたが、静止を拒んでまでクッキーを食べようとは思わなかったのか、手をひっこめた。


「ところで伯爵。あんた、昨日狐を見なかったかい。あそこのビニールシートのあたりだ」


 伯爵は首に下げている十字架をあしらった悪趣味な望遠鏡で、ビニールシートの張られた方向を見る。目から離して、鼻を鳴らす。


「自然の摂理さ、鉄腕。弱きは淘汰され、強きのみが生き残る」


「この公園はあんたの領土だ、伯爵。『狐を狩ったのは誰だ?』」


 伯爵は口に紅茶を運び、ハーブ・クッキーをかじった。楽しそうに。ハンターたちがまだ見ぬ獲物を夢想するように。


「昨日、狐は二匹いた。僕は一匹仕留めた。もう一匹は逃した。雌狐さ」


「雌か」


「金色の雌だ。さぞかし毛皮にしたら美しいだろうよ」


 彼女は漏らすように、不気味な笑いを浮かべた。キマっている。自前のハーブクッキーが、さぞかし愉快な幻覚を見せているのだろう。


「大丈夫なの、この人」


 たまらずクリスがひそひそと鉄腕に耳打ちした。


「何の情報も貰えそうにないよ」


「貰ってるだろ、金髪の女だ。だいぶ絞れる」


「オールドハイトに何万人いると思ってんの」


「じゃあお得意のパソコンで調べてみるか? 『昨日の夜、自然公園で弁護士殺したやつ知ってる?』ってよ」


 あまりの物言いにあきれたクリスが何か言おうとしたその時、伯爵が大きな声を出した。何かを思い出したように、チェアから立ち上がる。


「重要なことを思い出したよ、鉄腕。狐は君と同じだ。左腕が、機械になっていた」


 左腕が機械。そういえば、先週くらいに朝っぱらから変な女が訪ねてきたのを思い出す。第四帝国。麗しき少佐殿。


「アタシもそれ聞いてあたりがついたよ、伯爵」


「それは良かった。……狩りに行くのか?」


「いずれはそうなるな。アタシも女狐狩りは得意でね」


 そうか、と伯爵は短くつぶやいた。そしてこれまた思い出したように、付け加えた。


「なら、この僕も呼べ。確実に仕留めてやる」


 そういうと、伯爵はまるで棺桶のようなガン・ケースを指さしながら、再びチェアへと身を沈めた。


「さしずめアタシは猟犬かい、伯爵?」


「そういうことさ」


 そういうと、伯爵はハーブ・クッキーを口に運びながら、だらしない笑みを浮かべた。相変わらずよくわからない女だ。

 しかし分かったことが一つある。狩るべきキツネは、この街のどこかにいる。横取りした報いを受けてもらわねばなるまい。



続く

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