雨に唄えば
遠くからサイレンの音が鳴り響く。赤と青のパトランプが回転し、その異様さを周囲に伝える。
鉄腕とクリスは、そんな現場を背に店を抜け出し、アジアンストリートの喧騒に紛れていた。香辛料の香り。雨の香り。それを感じ取った直後に、見計らっていたように降り出した。
「参ったな。降ってきた」
「雨宿りしようよ」
「そりゃ名案だ」
二人は突然の雨に騒ぐ人混みを避け、トタン屋根で形成されたアーケードへ足を運んだ。怪しげな占いの館、アクセサリー・ショップ、漢方薬局が軒を連ねている。赤を基調とした中華テイストの通り。雨の香りが遠のく。漢方の香り。油の匂い。
ついさっき、中華料理店で虐殺があったんだ、と言われても誰も信じないだろう。このエキゾチックな喧騒の中に、全て紛れていく。雨が加速させる。強い雨が。
「濡れちゃった」
クリスが濡れそぼった黒髪をかきあげ、雫を飛ばした。鉄腕はというと、コートの下からハンカチを取り出し、水滴を払う。
「警察を呼ばれるとはな。ヤクザの根城を聞きそびれた」
三合会の力は予想外に弱まっている。タケガワが手を回したと考えたほうが良いだろう。というより、警察もこの機に乗じてアジアンストリートの勢力図を見極めようとしているのだ。この閉鎖的な黒社会において、普段ならば、何が起ころうとも三合会が一言添えれば捜査自体が行われないこともざらだろう。それ故に、この戦いでアジアンストリートの顔役が誰になるかを気にしているのだ。警察も組織だ。敗戦濃厚な組織を相手にはしないだろう。
すべては他ならぬストリートの治安のために。彼らに正義があるとすれば、そうした直接的な利益のために他ならない。
「……誰もいないね」
「歩きやすくていい」
トタンを穿つ雨の音。スニーカーの音、遠くからの喧騒も掻き消え、まるで音が奪われていっているようだ。
雨の匂いが強くなる。ビルの合間に現れた開けた裏路地。雨がコンクリートに染みつく音が響く。
黒いフリル付きの傘。ガーリーなパステルピンクのミニ・ワンピース。顔は傘で隠れて窺い知れない。ただ女がそこに立っていた。
咥えていた葉巻の火が、雨にあたり消える。ポートワインの香りが消える。鉄腕は異常を感じ取る。この女は変だ。危険が胸からせり上がってくる。
「
女が少しだけ傘を持ち上げる。口元が歪む。歪な唇。ただれた肌が覗く──。
「クリス」
言うまでもなく、クリスは後ずさりした。この広場に足を踏み入れれば、何かが起こる。不知名であればそうなる。何かシェンから説明があったわけではない。まして、相手からそう言われたわけでもない。だが鉄腕には、異常から生じる危険がどのようなものかある程度わかる。
「アタシはアンタに会うために、アンタのお友達に会いに行くとこだったのさ」
「筋を通しに行ったわけ?」
女は朗らかに、穏やかに言った。
「デートに誘う時は、段階を踏むことにしてるんでね」
「そう」
女は傘を地面に転がした。ヘヴィ・レイン。ロックバンドの高速ドラムのように、雨足が傘を叩く。
「敬意を払える人は好きよ」
黒いヴェールに覆われた、背の高い女。手足は長く浅黒い肌。英語は少し訛っている──。
「アンナ・マイヤー。残念だがアンタはやり過ぎてる。だからアタシが呼ばれた」
「……皮肉なものね。ここの連中は人に敬意を払えないクズばかり。ようやくあなたみたいな人が現れたと思ったら──殺さなくちゃならないなんて」
不知名はゆっくりと右足を持ち上げた。両手拳を握る。鉄腕もゆっくりコートの右袖をまくり上げて、雨の中に鉄の腕をさらした。
鋼鉄の右腕と、高速の右足が交差した。鉄腕の見立てどおりならば、生身の足がへし折れ終わりになるはずだった。だが事実は違う。彼女の足はそのままだ。それどころか、まるで蛇が巻き付くように関節に絡め取られ、鉄腕はくるりとその場で体を一回転させた。
そのまま立っていれば、足の力だけで鋼鉄の右腕をねじ切る気だったのだ。理屈はわからぬが、不知名にはそれだけのことをやってのける凄みがあった。
「アンナさん。あなたは人に敬意を払える人。だから教えるわ。……あなたは、私には勝てない」
鉄腕の顔めがけ、槍を連続で突き刺すような鋭い蹴り。雨が円形に消滅し、頬の肉が裂け、雨に血が混じり消えてゆく。息もつかせずローキックが鉄腕の左足にめり込む。腹、そして頬を打つ。あまりの衝撃に、鉄腕は吹っ飛ばされ、荒いアスファルトの上を転がった。
──強い。
生身の喧嘩でこれほど押されたことは、そうない。殺されそうになったことは、両手両足で数えても足りないが、こと素手での喧嘩で遅れを取ることはまずなかった。
「……参ったな。アンタの顔も名前も知らないのに死ねないよ」
不思議と追撃は無かった。これほどの実力ならば、そのまま鉄腕の頭を踏み抜いてもおかしくはないはずだ。
「あなた、その右腕は?」
「いつの間にかついてたのさ。サンタからのプレゼントかもな。毎年いい子にしてるんでね」
「おかしな人」
彼女は穏やかにそう述べ、まっすぐに指をさした。鉄腕がやってきたアーケード。クリスが隠れている場所。様子がおかしい。姿が見えない。
「アンナさん。あなたの連れていた子が、たった今攫われていったわ」
ごろりと転がったまま、上下逆の景色を見つめる。クリスの姿はたしかにない。
また攫われたのだ。自己申告こそしていたが、こんなに攫われるとは聞いていない。
「勘弁してくれよ」
「タケガワ組の連中ね。敬意をまるで払えない連中。あなたと違って」
おかしな女だった。このストリートに騒動を持ち込んだ張本人のくせに、先程のヤクザ連中よりよほど好感が持てる。それがこの女のやり方なのかもしれないが、それにしたって拍子抜けだ。
「ねえ、アンナさん。私、あなたが気に入ったわ。クソみたいなクソヤクザどもと違って、あなたは私に敬意を払ってくれた」
そういうと、彼女はゆっくりとヴェールを持ち上げた。彼女の顔があらわになる。鉄腕は少しだけ眉根を寄せた。
「友達にアンタよりはマシだが、同じように苦労してる探偵を知ってる。尤も、アンタと苦労のベクトルが別だろうがね」
「……驚かないのね」
「アタシにだって好みはあるが、顔で優劣を決めてるわけじゃない」
女はフリル付きの傘を拾い、鉄腕の上に差した。手足も長く背も高い。鉄腕が少し見上げるほどだ。
彼女は口元を歪め笑みを作った。心からの笑みだろう。敬意を払う。口で言うのは容易いが、それを実行するのは難しい。ましてや、人にそう仕向けるのはどれほどのことか。
彼女は狂っている。顔のない探偵と同じ、あってしかるべきものを無くしたことで、受けて然るべき尊敬を求めているのだ。
「この街のこのストリートなら、ひっそり暮らして行けると思ったの」
彼女は雨音を一滴落とすようにそう言った。
「アジアン達の集落なら、同国人に紛れて暮らせると思った。でも、ダメね。クソどもを蹴り飛ばしてやったら、次から次へと湧いて出てくるんだから」
「……まさかあんた、売られた喧嘩の復讐まで全部買ったんじゃないだろうな」
鉄腕は呆れたように言った。彼女は再び口元だけで笑う。
「欲張りなのよ」
ともあれ、この女が三合会やらタケガワ組やらに対して、戦争行為を一人で売りつけたのは確かだ。
鉄腕は金で動く。殺すと啖呵を切った以上、殺せませんとホールドアップはできない。
しかし、それよりも、だ。
「クリスは相棒なんだ。なんでまた攫ったのか理解できんが、放っておくとヘソを曲げられる」
「助けに行けばいいじゃない」
「面倒なのがいる。魔法なんとかってやつだ。あんた、一回手ひどくやられたんだって?」
不知名は不気味に笑う。何か楽しいイベントを思いついたように、クスクスと少女のように。
「なら二人で行けばいいのよ。それなら、負けない」
「とんだデートだな。聞いたことないぜ、殺しのターゲットとヤクザの事務所に殴り込むなんて」
雨が強くなる。鉄腕のコートが、不知名のフリル付きの傘が、強いビートを刻む。すべてを押し流してしまうような、ヘヴィレインが二人の女を打つ──。
「なら、あなたに敬意を払って、対等なビズをしましょう。アンナさん、もし私を殺したことにしてくれるなら、タケガワ組を二人でぶっ潰しに行って、クソヤクザ共を根こそぎ殺してあげる。そして、死んだことにしてここから離れるわ」
「アンタが約束を守る保証は?」
「信じてもらえないなら、それこそあの小さな女の子の命は保証されないんじゃない?」
鉄腕は金のことを考え、ビズの信用を考えた。それからクリスのことを考えて──答えを出した。
彼女は右手を差し出した。
「グッド・ディールにしよう。……ところであんたの名前は? 不知名なんて、呼びづらくて敵わん」
雨の中で女は握手に応じ、笑う。不気味に、ヴェールで覆った顔の下で笑う。まるで見計らったかのように、雨が止む。それが彼女の名前だと示すかのように。
「ヘヴィレインでいいわ。よろしくね」
続く
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