屍の国から愛を込めて
ルーレット・ガール
その女は突然、バーに現れた。寒い夜だった。吐く息が白く凍り付きそうな、とても寒い夜。オールドハイトは霧の街。白く漂う空気がまとわりつき、女の肌にへばりつく。
酒が欲しい。喉を焼き切るような、強い酒が。
「ウォートカをくれ」
ロシア訛りの英語。水滴を帯びたグレイの瞳。黒いマフラー、フライトジャケット。女の目元はティアドロップのサングラスで覆われており、うかがい知れない。右手には使い込まれた白杖が握られており、彼女の目が見えない事がわかる。
細い女だ。ふらついている。高い鼻筋のまわりだけ赤みが差している。酔っている、二軒目なのか。
バー「グッド・スモッグ」の年食ったバーテンが思ったのはそんな程度の事だった。
「瓶ごと」
「おいおい、どこで飲んできやがった」
「私は、客。ここ、酒屋。瓶ごと」
女はたどたどしい英語で、カウンターを指でこつこつ叩く。重低音のロックサウンドにも負けぬ、美しい声なのだろう。酒にさえ焼けていなければ。
「ふらついてる。強い酒飲まれてゲロって掃除する身にもなって欲しいね」
「ウォートカ」
「分かったよ。好きに飲んでろ」
バーテンが乱雑に置いたか置かないかぐらいで、女は瓶を奪い取った。見えているのか、いないのか分からない。そもそもここは地下だ。細く狭い階段を降りなければならない。初めて見る客が、頭やらなにやらぶつけずに降りただけでも、賞賛に値するというものだ。
「ありがとう《スパシーバ》」
女は瓶を開けると、なんとそのまま口をつけてラッパ飲みし始める。さびれたバーでも、数人は客がたむろっている。そこらから口笛やあおるような声。女はそれを半分ほど飲み干した後、酒臭い息を吐いた。
「……バーテン。私、探している、人を」
「人を?」
「そう。東地区(イーストサイド)の、ウェルズ。ミッキー・ウェルズ」
バーテンはちらりと奥に座っている数少ない客を見た。突然自分の名前を呼ばれて驚く、ミッキー・ウェルズとその仲間達を。最近の彼らの羽振りは良い。噂によれば、どこかの金持ちの家に強盗に入ったのではないのかという根っからの噂だ。
噂。バーには噂が集う。同じだけ、危険も集う。女はどちらだろう。噂をたどりに来たのか。噂を殺しに来たのか。
いずれにしろろくでもないことだ。バーテンはカウンター裏のショットガンの位置を目線で確かめた。
「俺になにか用か? ロシアの姉ちゃん」
先に仕掛けたのはミッキーだった。ヤバイ野郎だ。イーストサイドで積極的に仲良くなろうというやつはいない。甘いマスクで女受けが良い不良だが、十三歳で二人撃ち殺したと、根っからの噂だ。
「あなたですか、ミッキー」
「ああ、俺がミッキー・ウェルズだ」
ミッキーは不意に、女のサングラスを取った。女の瞳は、熱を通した魚卵みたいに白かった。失明している。
「目が見えないのか?」
「見えない。全く」
「そうかい、ベイビー。……気にするな、なかなかイケてる」
ミッキーは一緒に飲んでいた三人の仲間にアピールするように言った。そしてなれなれしく女の腰に手を回す。
「どうだい、ベイビー。ここじゃムードに欠ける。どこか、静かなところで飲みなおさねえか」
女はしばらく押し黙っていたが、やがて口角を上げて言った。
「返してくれたら、サングラス」
「ああ、悪かったなベイビー。見とれていたのさ」
ミッキーから受け取ったサングラスを、女は触って確認すると、たどたどしく顔にかけた。そして、即座にウォッカの瓶を取り、残りの酒を飲み干す。女の身体がぶると震える。
「静かなところ」
「ああ、もちろんさ」
ミッキーは下卑た笑みを浮かべた。一晩遊んでやろう。連れと一緒に遊んでもいいが、ロシア女を抱くのは初めてだ。どう料理してやろうか──そんなことを考えていたミッキーは、見下ろしていた女が、白杖を握るところを見ていた。女が白杖を捻じると、キャップが抜けるように白杖の持ち手が取れ、中から長い針が抜きだされた。次の瞬間には、ミッキーの脇腹にその針が突き刺ささっていた。彼以外に誰も、何が起こったのか分からなかった。
ミッキーがうめき声をあげても、彼の友達にも何が起こったのかはまだ分かっていなかった。女はまるで見えているかのようにすっくと立ち上がり、フライトジャケットをめくり、肩に吊ったホルスターから、古臭いリボルバー──ナガンM1895を抜く。7・62ミリナガン弾を四つ、ポケットから取り出すと、ローティング・ゲートを開き、時でも止めたようにゆっくりとした動きで押入れると、ぴたりと頭に照星を合わせた。
そこでミッキーの友人たちは、ミッキーや自分たちに何が起こっているのか分かった。今ミッキーは腹を刺された。女がやった。女は銃を抜き、弾を装填した。まるでみせつけるように、ゆっくりと。
そうだ。女は、自分たちを殺しに来た。
「助け」
銃声。銃声。銃声。友達は脳漿と血をまき散らして全員死んだ。血のにじむ脇腹を抱えて、ミッキーはそれをうずくまって見ていた。助けを求めようとバーテンのいた方向を見たが、すでに姿はなかった。殺される。神様。畜生。
「ロシアにはある。こういうことわざが。『猫にいつまでもカーニバルが続くとは限らない、太齋もまたやってくる』。分かる?」
きりきりきり、と軽やかにシリンダーを回転させた。お世辞にも美しいとは言えぬが、バーの情緒あるランプがその銃を輝かせているように見えた。
「カーニバルか?
女はシリンダーを止めて、銃口を自らのこめかみに向け、躊躇なく引き金を引いた。弾は出なかった。ミッキーは自分の事のようにほっとした。狂気は終わったのだ。そう勘違いした。
その通り、勘違いだったのだ。
「残念」
今度の銃口は、ミッキーの顔に向いた。
「ベイビー、ベイビー、やめてくれよ、お願いだ。俺が何を……」
ミッキーは明らかな死の香りから逃げたい一心で、あえぐように言った。その言葉に意味はなかった。身にならぬ行為だった。
「私、お金好き。お金奪いました、あなたたち。だから、あなたたちのお金もらう。オーケイ?」
「金……金なんかもう、ねえ! 使っちまったんだ。本当さ、ベイビー!」
女はその言葉にショックを受けたのか、ぐらりと頭を抱えてたたらを踏んだ。実際は違う。酒が切れた。酒は女にとっての光だった。酒が切れれば、光は失われる。
女は病で光を失ったあと、そう作り直されたのだ。だが片目だけ見えればいい。酒で酔っていても、引き金を引ければ銃は使える。酒で酔った時だけ見える片目と、『もう一つの能力』が彼女に与えられた餞別だった。その目で、殺すべきものを殺す。女は──ヴィガはそうやって生きてきた。祖国を追われたその日から、そうやって、ずっと。
「カーニバルか、太齋か」
ヴィガはシリンダーを再び回転させた。ナガンのシリンダーには七発の弾が入る。入っているのは一発。ヴィガは再び暗闇に落ちた視界に舌打つと、ミッキーの顔に手を這わせる。口に指を突っ込んで確認すると──今度はバレルを咥えさせた。
「見えなくても、これなら外さない……」
ヴィガは引き金を引いた。高らかに銃声。まき散らされる血。ドアベル。バーテンの気配は既に無かった。逃げていようがいまいが、ヴィガには関係がない。彼女には酒と金、そしてこのナガン・リボルバーしか残されていないのだから。
カーニバルか、太齋か。
ヴィガは祖国を追われた日から、太齋が来る日を待っている。
続く
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