屍の国から愛を込めて(後編)
「ま、予想をしなかったわけじゃねえさ」
鉄腕はタフな笑みを浮かべながら言った。GRUの依頼で動いていたジェイミー・ボンド。そしてそのGRUから逃げ出してきたというヴィガ。導き出される結論は一つ。
この大騒動の大元は、GRUの狂言だった。
「ネタが割れればなんてことはねえ。しかしアタシも人気になったもんだ。何が目的だ?」
ジェイミーがトリガーを絞る。マズルフラッシュ。鉄腕の足元が爆ぜる。鉄腕はへたくそなタップダンス。乾いた音を立てて、空薬莢とマガジンが短い旋律。
「全ては実験よ。オールドハイトのスーパースターさん。ヴィガは祖国を捨てた。アメリカに渡って、ごみ溜めの中で銃弾を撒いて、クズから金を巻き上げて生きてきたの。ただ生きるためにね。……でも、祖国はそんなこと許さなかった。私の任務は、彼女の有用性を証明し、彼女を本国へ連れ帰ること」
そう述べると、ジェイミー・ボンドはワルサーを投げ捨て、クリスを離し、地面へ転がした。不機嫌そうにクリスは地面を転がり、ゆっくりと立ち上がりながら埃を払う。
「殺し屋気取りのクズども、どこぞの資本家お抱えの傭兵団。どんな困難にも、彼女はナガン・リボルバーだけで立ち向かって勝ち残った。彼女の研究と、彼女自身の有用性は証明された。偉大なる祖国ロシアは『彼女を量産する』。来るべき戦争に備えて、ロシアが生き残るために」
「第三次大戦か? おめでたいね。核弾頭の撃ち合いなら、墓の下の書記長にでもお願いするんだな」
鉄腕はヴィガを見る。彼女の手にはすでに酒はない。握られたナガン・リボルバーの銃口が、まっすぐに鉄腕へと向けられている。残弾数は五発。孤立無援。おまけに、ヴィガはたとえ狙いを外しても銃弾を当てられる。
「私の仕事は『お願い』なんかじゃない。そうあるべき結果へ導くためのお膳立てをしているに過ぎない。私の仕事は、これでおしまい」
ジェイミーは踵を返し、スーツのポケットから天高くスマートキーを掲げ、ボタンを操作した。電磁的に空気が震え、傷だらけのヴァンキッシュが姿を現す。
「勝った方を助手席に乗せるわ」
鉄腕はゆっくりと両手を下げた。ヴィガはまだ動かない。彼女は見えていない。見えていれば、アンナ・マイヤーの右腕がいかに危険な兵器であるか理解しているならば、手が自由になる前に少なくとも一発撃っているはずだ。
「アタシもひとつことわざを知ってる」
「ことわざ。なんですかそれは」
「卵が孵らないうちにヒヨコの数を数えるな、だ。アンタやアンタの友達は、どうやらアンタが引き金を引いたら決着すると思ってるらしいが、どうだかな。物事は終わってみないと何も分からない。アタシの眉間にぶち込むまでな。違うか?」
ヴィガは笑う。サングラスの下で、魚卵の如く白い眼をゆがませながら。金。ナガン・リボルバー。自らの研究で光を失った女は、今ここに『死と生の狭間にあるスリル』を見出していた。彼女は確定させてきた。自分をとりまく運命を、すべて。それは、人が見れば羨ましい状況だったのやもしれない。しかし他ならぬヴィガから見れば、ネタバレの映画批評を見てから映画館へ足を運ぶようなものだ。何が起こるかはもう分かっている。そこに不明点はあっても、自らが生き残るという結果はわかっている。ドラム・ロールのように、きりきりとシリンダーを回転させて、こめかみに押し付けトリガーを引く──ロシアン・ルーレットも、彼女が真の意味で生きていることを証明するための行為だ。
彼女は二度トリガーを引く。百二十分の一の低確率でさえも、彼女の命を奪うことはない。
人は何かを失えば、何かを一つ得るようにできている。光を失った代わりに、彼女は永遠の闇を彷徨う権利を手に入れたのだ。
「ないですね、数える必要。ヒヨコ、卵壊せばでません」
「そうかい。……なら、撃ってみなよ」
トリガーに指がかかる。マズルフラッシュ。銃声。四発。ランウェイを照らすスポット・ライトのように、街灯が激しく明滅する。遠くからサイレンの音。喧噪の音。オールドハイトの音。
血は流れなかった。ヴィガは偶然を再び引き寄せ、四発の銃弾を鉄腕に命中させていた。間違いなく致命傷となる銃弾を。
「やっぱりな。……残念だが、種は割れたぜ」
鉄腕は顔の目の前で、握りしめていた右手を開いた。偶然の弾頭を。『眉間を狙った致命的な一撃を』。彼女は鉄の右手で、弾頭を全てつかみ取っていた。まるでそれが来ることを間違いなくわかっていたかのように。
「生きているのですか、あなた」
「ああ、生きてるぜ」
祝福するように弾丸が甲高い金属音を立てた。ヴィガの手から再びナガン・リボルバーを優しく奪うと、それをそっとコートの裏ポケットにしまった。
「賭けだったがね。ただやみくもに撃っても確実に当たるなら、避けるだけ無駄だ。めちゃくちゃに撃たれた銃弾は怖え。どこに当たるか分からないからな。……だが、絶対に確実にどこに当たるのが分かるんなら、アタシは防げる。わかるか?」
鈍く輝く鉄の掌を、彼女は天高く掲げた。左手は彼女の胸倉をつかんでいる。もはや逃げられぬ。ヴィガは自らに何が起こり、そして起ころうとしているのか分かっていない。困惑と恐怖の表情をカクテルさせるばかりだ。
「眉間を狙って当たるなら、相手を確実に殺せる。それがわかってるなら、そりゃあんた狙うよな。単純な話さ。マクドナルドの話をしてたら、ポテトとコーラが食いたくなるようなもんだ。人間ってのは言葉に左右されるもんなんだぜ。よく覚えておきなよ」
鉄腕はそういうと、彼女に向かって平手打ちをカマした。あまりの力に、ヴィガは二・三回転しながら宙を舞い、ダスト・カーゴへ叩き入れられた。
当然動かなくなる。当分動けまい。それに、銃も、酒も奪われた彼女に、もはや何ができるというのだろう。
鉄腕は、すかさずスマートフォンを左手で操作し、ランス警部へメッセージを送った。直接逮捕させたほうが、彼の株も上がることだろう。もっとも、報酬はまるで期待できないが。
「……ミスタ・フェイスレスはどうする?」
クリスがまず述べたのは、怪人への心配であった。ビルの壁に寄りかかり、寝息を立てている。起こすのは簡単だが、おそらくこの状況下で起こすのは得策ではあるまい。すぐそばにいるジェイミー・ボンドを殴打しかねないからだ。
「ほっとこう。なあに、奴さ刺激しようなんて物好きはサウスパークにはいねえよ」
ヴァンキッシュのドアを開けて、クリスと鉄腕は中へと滑り込んだ。ハンドルを握るジェイミー・ボンドに焦りはない。無言のままアクセルを踏んで、車は発進していった。
高速道路を降り、オールドハイト湾に流れ込む川そばへ、ヴァンキッシュを乗り付ける。ハーバーに停泊しているクルーザーが、ぷかぷかと揺れているのが視界に入った。
人気はない。別れを惜しむには、ちょうど良かった。
「ドライヴデートは楽しかったぜ、ミス・ボンド」
鉄腕はにやにやと笑みを浮かべながら言った。ジェイミーはため息交じりに苦笑する。任務はすべて失敗した。瞳に仕込まれたカメラ──コンタクトレンズ型で、ナノ・レベルの薄さを誇る──で、リアルタイムにGRUはそのことを知ったはずだ。ヴィガの研究はもはや、二度と顧みられることはないだろう。確実な未来を逆手に取られるようでは、何も意味はないのだから。
彼女の脳裏に、様々な考えが浮かび、川の水面の輝きの中へ消えて行った。
そんな彼女を、鉄腕はわずかに抱き寄せ口づけた。
数十秒にも満たぬ短い間。星の瞬く間。永遠に近い長さの夜──。
「ボンド・ガールの役は上手くできたか? 君の演技には敵わなかったがね。アカデミー賞ものだ」
鉄腕は笑って、彼女の腰から手を離す。葉巻を咥える。困惑した表情を浮かべながらも、ジェイミーは後ろに下がりながら、少しだけ笑った。
「悪い冗談よ」
「……また君に会えるかい?」
「私、あなたを殺そうとしたのよ」
「そういわれるのは慣れてる。行動に移されるのも二度や三度じゃ収まらないさ。で、また会えるかい?」
ジェイミーはゆっくりと船着き場の上を歩き、とあるクルーザーに乗り込む。キーが刺さったままのエンジンをかける。別れの時だ。そしてその別れは、おそらくは今生のものとなるだろう。ほんの一晩だけの共闘の結果がこれだなんて。彼女は鉄腕に振り向いて言った。
「二度とないわ。こんな街、もう御免だもの」
鉄腕は別れ際に手を振る代わりに、ひときわ強く紫煙を吐き出した。夜闇に紛れ、白く濁ってゆく空を見上げる。オールドハイトの夜は、未だ深いままだった。
クルーザーが泊まった先、オールドハイト市の隣にある、寂れたヨットハーバーの駐車場に、車が一台だけ停まっていた。もはや誰も使っていない、過疎ったヨットハーバーには似合わぬ高級車。BMWi8。GRUの人間が、失敗した諜報員に迎えをよこすとも考えられない。
ジェイミーはワルサーPPKを構え、マガジンを装填した。銃口を鋭く車に向ける。ゆっくりと近づくが中には誰も乗っていない。
「
銀色のバレル。スタームルガーⅢ。ダーク・スーツの女。こげ茶色の髪にゆるくパーマをあてた、青く美しい瞳の女──。
返事も待たずに、女はトリガーを引く。マズルフラッシュ。銃声。脳漿をまき散らし、体が地面を転がる。ジェイミーは見た。同じ顔の女を。同じ姿の女を。女スパイのパブリックドメイン。誰もが彼女で、誰もが彼女でない──。
女の名前は、ルビー・チューズデイ。
「始末したわ。
BMWi8が、土煙と共に去る。『何者か』の死体が遺され、誰にも顧みられることはないだろう。死者の国へ渡った魂が愛を囁く対象は、もはや遠く離れ過ぎていた。
それでも彼女は望むかもしれない。自らが生きた証のメッセージを。届かぬと分かっていながら、それでもなお。
屍の国から、愛をこめて。
終
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