姿なき猟犬ディアナ

たぶん──

 カセットテープを古めかしいカーステレオに押し込む。ぶつ、ぶつと小さく途切れながら、聞き慣れたイントロ。

 Maybeたぶん、わたしの周りには誰にもいない。

 それは自分で望んだことだから、当然のことだ。『たぶん戻るよ』と言ってくれるような人もいない。

 私は白いオンボロのカマロの中で、いつもの歌を聞く。古い歌を。取り残されて久しい歌を。世の中は携帯端末から音楽が聞ける世界だというのに、わたしはそれをしない。

 紫色の細いタバコ。『NukePurple』。核の落ちた光景が描かれた悪趣味なタバコ。緩やかな自殺をやめて、天国へ急ぐためのチケット。

 わたしはカマロからアパートの入り口を見ている。サイドミラーには、べろべろと舌を垂らしたキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルが映っている。

 これは『わたし』じゃない。

 わたしはタバコのフィルターを噛む。サイドミラーのキャバリアが、紫色のイミテーションの骨を齧り、舐め回す。

 わたしは構わずアパートの入り口を見つめる。ターゲットを待つ。

 テープが止まる。わたしは、またテープを巻き戻す。いつまでだってそうする。わたしは、いつでもそうしてきたのだ。




「世間は平和なものね」


 ミス・フェイスレスはそう言って、新聞紙──オールドハイトタイムズから目を離した。背の高い女である。顔には分厚いヴェール。ピンク色のフリル付きドレス。長く美しい足を組み直しながら、コーヒーを口に運ぶ。わずかに覗いた口元からは、焼け爛れた肌が見える。


「平和なのは歓迎するがね、フェイ。アタシにとっちゃおまんまの食い上げだ」


「あら物騒だこと。ケンカでもしたいの?」


「まさか。保育士が幼稚園児に本気になるか? お遊戯会はうんざりだ」


 テーブルを挟んで目の前に座る女──ポニーテールに、サングラス。茶色のロングコートの女はへらへら笑いながら言った。

 懐から取り出した葉巻を咥えると、長いマッチで火を点ける。『鉄腕』アンナ・マイヤーにとって、友人と語らうことも時には必要である。ことこの目の前にいるフェイとは、そうした穏やかな語らいの場を度々設けている。

 彼女らが住むオールドハイトという街は、息つく暇もないほどスリルとトラブルに満ちた街だ。そうした中に身を投じたとしても、暴力に溺れて服を着ただけの原始人になっては意味はない。


「今日は、小さな相棒はどうしたの?」


「デートに子連れはいただけないだろ。アンタだって、旦那はどうした?」


 フェイスレス。オールドハイトでも屈指の怪人にして『殴打探偵』の異名を取る男こそ、この夫人の旦那だ。あれよあれよという間に籍を入れてしまい、ハネムーンまで済ませてしまった。なんとも勢いというのは恐ろしいものだ。


「彼は最近、事件の捜査で忙しいらしくて。ほら、今わたし特に仕事もやってないから」


「そりゃ悠々自適だことで。なんなら、今度アタシのとこの仕事に噛んでみるか? ろくでもない仕事ばっかりだが、退屈はしない」


「殺し屋バトルロワイアルみたいな仕事? 楽しそうだけれど、ダーリンが心配するから」


 そう言うと、フェイは口元に手を当て笑った。顔を失った女、ヘヴィレイン。尊敬に餓えていた彼女が、愛という名の絶対の尊敬を得てからと言うもの、随分と雰囲気が変わったものだ。結婚というのも、悪くないものなのだろう。

 鉄腕が葉巻を灰皿に置いてから、コーヒーを口に運んだ時、テーブルの傍をとことことなにやら小さい影が通り過ぎたことに気がついた。

 犬だ。ぎょろりとした目、ブロンドと白を貴重とした長い毛、左の目元だけ黒い毛に覆われている。どこか愛嬌ある風貌の犬だが、首輪をしていない。


「あら。キャバリア」


「カフェに犬か? その割には、飼い主がいないみたいだが」


 鉄腕がいるはずの飼い主を探そうと顔をあげてすぐ。フェイがあっと声を挙げた。犬は既にいなくなっていた。


「……消えた? 変ね、テーブルの下に入っちゃったのかしら」


 視線の先には、ウェーブがかったブロンドの女──黒いスーツに、ノーネクタイのそっけない姿──が、新聞を広げ、イヤホンで何か聞きながら紫色のタバコを吸っている。疲れた風貌ではあるが、未だその輝きは残っている。かつて、行き交う誰もが振り向いたのだろう。そんな女だった。


「いい女だ」


 鉄腕はすかさずそう言った。彼女は女でありながら女に見境がない。そして、彼女はフェイにそっと耳打ちをするのだった。


「……なあ、いつからいたんだ? あれだけの女だ。気づかないはずないんだがな──」




 Maybeたぶん、チャンスがあるとしたら、それは一度きりなのだろう。

 わたしはフィルターを噛む。鉄腕アイアンナックルと呼ばれた女を見つめる。チャンスを伺う。

 賢い猟犬のように。息を潜める狩人のように。事実わたしはそうなのだから。

 わたしは新聞を畳む。懐に潜めたオートマグに手を触れる。今はまだその時じゃない。

 わたしはいつだってそうしてきた。たぶん、二度目はないだろうから。NukePurpleのパッケージのように、世界が核の炎に包まれる前に、わたしは命を落としかねない世界にいる。

 だから、わたしは他人の命を奪う。狩人が食うために鳥を撃つように。猟犬が主人の言うままに狐を仕留めるように。

 たぶん、わたしの世界には今度とか二度目とか、次回なんてものはないのだ。わたしはそれをよく知っている。

 ぶつ。テープが途切れる。わたしはテープを巻き戻す──。

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