五章 1

 この十日間ほど、新と一緒に過ごした時間は、今まで無為に生きてきた人生と比べれば、信じられない程に充実していたと言える。それほどまでに、穂乃果にとってかけがえのない時間だった。

 しかし、終わりは必ずやって来る。辺りはもう暗く、一ヶ月の時間となる十二時まで一時間を切ろうとしていた。

「もう、一か月が経っちゃったんだ……」


 穂乃果は、この世界での出来事を振り返り感慨にふけっていた。そして、祖母の仏壇に向けて語り掛けた。

「わたし……戻っても、絶対に忘れないよ。少しだけだけど、変われたってこと。おばあちゃんがいなくなって辛かったけど、もう大丈夫だから心配しないで! 一歩を踏み出す勇気を貰ったし、わたしの側には、わたしが忘れてるだけで、誰かがいるんだよね?」

 涙は流さない。前のように、感情を殺したせいで流れないわけではない。これが、強くなったという証明なのだと、強く自分に言い聞かせながら、亡き祖母に語り続ける。


「あの公園で、新君に出会えて本当に良かった。今を生きる、っていう目標を見つけられたから。おかしいよね、今まで会ったことも無い、夢の中の人なのに、本気でわたしを心配してくれてね。それで、一緒に絵本を作り始めて……完成までは見届けられなかったけど、楽しかったなぁ。新君は、わたしと違っていつも一生懸命だった。多分、それが羨ましくて……ずっと一緒にいたいって、そう思ったの……」

 穂乃果は言葉にして初めて、自分が思っているよりも、ずっと強い感情に気が付いた。


(そっか……もう、会えないんだ)

 現実に戻れば、ここはただの夢。泡となって消えゆくもの。いつまでも、ありはしない過去の時間を振り返っていてはいけないとは分かっている。

「帰ったら、ちゃんとお墓参りするからね、おばあちゃん。それから……うん、友達にも久し振りに会いたいな。あとは、ちゃんと働いて……あ、実家に帰って、家族にも顔を見せないとね」

 現実でやるべき事を考えて意識を逸らそうとしても、繰り返し頭をよぎってしまう。無邪気に笑う声、筆を走らせて真剣に見つめる顔、ちょっと頼りないけれど、いつも前を導いてくれた人。


(あれ……? 何だろう?)

 考えるよりも先に体が動き、気が付けば誰もいない夜の町を走り始めていた。

(――もう一回だけでいい!)

 会えるはずがないのは分かっている。それでも、衝動に任せて目指す場所へ決して立ち止まる事なく走り続ける。

(今、分かった気がする。この気持ちは……)

 そして辿り着いたのは、初めて言葉を交わして最後に別れたあの橋だった。

「ハァ…ハァ……」

 息は尽き果て、足も思うように動かない。それでも、橋を途中まで渡り欄干に手を掛けて空を仰ぐ。


「わたしも、キミみたいになれるかな……? 誰かのために、一生懸命になれるかな……?」

 息を整え、ここには居ない思い人に向けて、届かぬ声を語り掛ける。悲しみに立ち尽くしてしまった自分を救ってくれた言葉を、忘れはしない。もう誰にも奪う事の出来ないこの思いが、穂乃果に決意をさせた。

「ううん。なってみせるよ。それが、わたしにとっての過去の清算って事だから」

 そう言いながら、穂乃果はポケットに入っていた、文具屋で買っていたペンで、手すりの部分に小さく落書きを残すと、

「馬鹿みたいだね」

 それを見て、自分で笑ってしまった。まるで子どものいたずらのように、迷惑を掛けているかもしれないけれど、誰かに見つけてほしいという願いを込めた。


「……じゃあね。新君」

 そして、落書きをそっと撫でる。その感触を指先へ残し、ついに最後の時を迎える。

(ありがとう、絶対に忘れない……ここにあった、誰も知らない、わたしの時間を!)

 再び目を覚ました時、世界がどうなっているのかは分からない。でも、どんな場所でもきっと大丈夫だと思うと、不思議と不安はなかった。

 そして、穂乃果は静かに意識を手放した。





 夕方になり、学校も放課後の時間になろうとしていた頃、新は描きかけの絵本を見つめていた。

「どうしたんだよ、新。もうすぐ完成なんだろ、それ」

 一日中ぼんやりとしていたのを見かねて、竜司が声を掛けてきた。

「……完成しないかもしれない」

 はぁ? と、不思議そうに思っている竜司に対し、続けざまに話す。

「電話もつながらない……連絡が取れなくなったんだ、それも急に」

「どういうことだよ?」

「……分かんない」


 昨日、最後に穂乃果と会ってから一切の連絡がつかない。今まで使われていたはずの電話番号も、使われていない事になっていた。まるで、存在そのものが消えてしまったかのように、彼女は姿を消した。

(ここは現実の世界じゃないから、何が起こっても不思議じゃないのは分かってるけど……)

 それでも、納得がいかなかった。


「さては、お前。また何か変なことでもしたんじゃないだろうな?」

「そうかもしれない……」

 笑いながら、茶化すように竜司が言う。冗談だというのは分かっているのに、言葉が見つからず、適当な返事をしてしまう。いやもしかしたら、本当に余計な事をしてしまったのかもしれないと、自責の念に駆られる。

「――ったく、おまえって奴は……」

「……え?」

「じゃあ、俺が手伝ってやろうか? って言っても、どうせ断るんだろ?」

 竜司が、何時になく真剣な顔で聞いてきた。手伝ってくれるという言葉はありがたいものだが、新の心は決まっていた。


「……うん。ごめん」

「じゃあ、やるべきことは一つじゃねぇか!」

 そう言って、今度は表情を変えいつもの笑顔で新の背中を思いきり叩く。きっと、竜司なりの激励なのだろうと、新は背中の痛みを噛み締めた。


「そうだよね。よし……やってみる!」

「おう! 頑張れよ!」

 竜司が友達で良かったと、改めて思う。いつだって、諦めるなと、前を向く力をくれる。少し強引で無理矢理な時もあるが、それが新の原動力となる。

「前に言った事、忘れちゃいねぇよな?」

 前とは、あの文化祭の後で竜司が語ってくれた言葉の事だと分かると、新は強く頷いてから耳を傾ける。


「お前に会ってなかったら……俺は、とっくに役者なんて諦めてたよ。今までは、どれだけ周りの人たちに褒められても、自分自身に納得がいってなかったから、これからも続けるのか、そもそも何がしたいのか、それさえも分かんなくなってた。だから、他の道を選ぶのが正しい、それが幸せな道だろって、何度もそう思ったよ……でも、同じように夢を持ってて、しかもそれを一点の曇りも無く、楽しそうにその夢の景色を語れるお前と話しててさ、気付かされたんだ。正しい事が幸せとは限らない。出来る事をやるんじゃない、これしか無いんだって信じられるモノが夢なんだってさ」


 それは、新が気付いていなかった、竜司を支えていて、先にチャンスを与えてくれたという、あの時語ってくれた言葉のもう一つの意味なのだろう。


「それを教えてくれたから俺は、役者って夢を、諦めたくなるような下らない理屈とか言い訳なんかに負けず、本当の意味で叶えてやろうって思えたんだ……だから、何度でも言ってやるよ! もしお前が本当に道に迷っちまったなら、今度は俺が支えてみせる。でも、その役目はまだ必要無いだろ? だったら――目を逸らすな! 前を向け! 間違ってもいい、お前の道を真っ直ぐに進み続けろよ」


 竜司のこの言葉はもしかしたら、夢の中の妄想かもしれない。それでも、現実世界では本当に夢を叶えてみせたという事実を思い出すと、本当にそうなのかもしれないと思えた。都合のいい解釈だけれど、こうまで言われて、新は嬉しくないわけがなかった。

「ありがと、竜司! そうだよ、これがオレの夢の一つなんだ!」

 新は、去り際に言い残すと急いで自宅へと走り出した。そして、新はこの世界での最後の時間のすべてを懸けて、たとえ一人であっても、絵本を完成させる事を誓った。



 それからの四日間は、あっという間に過ぎていった。学校には行かずに、一人で家にこもって黙々と作業をしていた。そんな様子を母親は、心配そうにしながらも、咎めることはしなかった。

(……駄目だ。何かが違う)

 何度描き直しても、納得のいくものが出来ない。


(もう、時間が無いのに……)

 刻々と迫り来る、一ヶ月という期間に苛立つ。


(昔もこれくらい必死に頑張ってたら、少しは違う人生だったのかな?)

 新の悪い癖。すぐに後ろを振り返って、後悔ばかりしてしまう。


(――いや、違う! 悩んだり、苦しんだりしたけど……)

 それでも、もう諦めることはしない。


(それさえも、自分の人生なんだって、今はそう思えるから)

 過去を無かったことにするのではなく、正面から向き合い直す。それが、新なりに考えた過去の清算という言葉への答えだった。



 そして、最後の日の夜。

「出来た……!」

 新は、手作りの一冊の絵本を抱えていた。ギリギリだったが、何とか形に出来たのであった。誰にも読まれることのないその本を読み返し、この一か月での出来事を思い返す。

(ほんとに、いろんなことがあったな……)

 下らない誤解で喧嘩をして、もう会うことのなかったはずの親友。情けない自分の弱さを見せられずに、拒絶してしまった母親。拙かったけれど、創作の劇を楽しんでくれた人たち。

 そして、一緒に笑いながら絵本を作ったあの子。都合のいい夢の中の住人だとしても、そのすべてに感謝をせずにはいられない。現実では、一度諦めてしまった夢だけれど、この世界では充分にやり切ってみせたのだと、新は清々しい気持ちになっていた。


「……でも、やっぱり読んでほしかったな」

 心残りが無いわけではなかった。十日間という短い時間しか一緒にいなかったはずなのに、いざ会えなくなると寂しさを感じてしまう。こうして夢を叶えられたのは、間違いなく穂乃果のおかげであったからだ。

(それでも、もしかしたら……)


 この喜びを伝えたい、会って話をしたいという気持ちは新に行動を起こさせ、衝動のまま絵本を手に持ち、新はあてもなく夜の町へと飛び出していった。

「誰も、いない……?」

 しかし、外に出てすぐに違和感が襲った。夜の町には人が一人として歩いておらず、家々の灯りは暗いままだった。


『夜の外出は控えた方がよい』


 今まで気にした事も無かったが、一人きりの町は閑散としており、ここが現実ではないということを思い知らされる。忘れ去っていたはずの孤独感が積み重なり、新は不安を覚えた。

(ここは、夢の世界だ。現実に戻ったら、また一人……?)

 今さら母親に顔向けは出来ない。忙しい竜司には会えるのかどうかさえ分からない。何より、夢の結晶であり穂乃果との記憶でもある、この絵本も消えてしまう。

「でも、これが無駄になるわけじゃない……自分で覚えている限りは、絶対に」

 以前ならば、この状況で前向きにはなれなかっただろう。この世界での出会った人たちが、自分を成長させてくれたのだと、新は思っていた。だからこそ、どんなに孤独が怖くても、その歩みが止まる事はなかった。



「ここって……」

 一時間ほど歩いただろうか、新が周りの景色に気が付いくと、穂乃果と最後に別れた橋に来ていた。橋の下を流れる川には、ぼんやりと雲が架かった月が浮かび幻想的な雰囲気を醸し出していた。しかし、その光景を一緒に見たいと思った人の姿は、どこにもなかった。

「分かってる……こんな場所に、居るわけないよね」

 自分でも、馬鹿みたいだなと思ってしまう。少し頭を冷やそうと、ゆっくり橋を渡り始めた。その途中、欄干の手すりに残されていた、見落としてしまいそうな程の小さな落書きに目を止める。



つかのまの 闇のうつつも まだ知らぬ 夢より夢に まよひぬるかな



「なんで、こんなところに……?」

 新は、その句の意味は分からなかったが、誰が書いたのかは確信があった。そして、驚きのあまりに震えている指で、残されていたものを確かめる。


(最後にちゃんと、会って伝えたかったな……)

 夢の中の存在。でも、彼女は確かにここにいて、同じ時を過ごしていた。初めは、自分への言い訳にするつもりだった。この世界で、これ以上自分の夢に引きずられてはいけない、彼女の為になる事をして、自分という人間が変われた証明にしようと。一方的な押しつけがましい親切。それは、自分が嫌っていたはずの自己満足にすぎない。

 だというのに、彼女はそれを受け入れてくれた。それどころか、もう一度夢を叶える後押しまでしてくれた。どうしてなのかは分からないけれど、いつの間にか絵本を作る時間そのものが嬉しくて楽しくて、絶対に完成させたいと思っていた。


 だからこそ、新はここまで頑張ってきたつもりだった。しかし、再び心の奥底に植え付けられた、ここが現実ではないという焦りが、今になって後悔の念を呼び起こした。

「穂乃果さん……ごめん」

 そして、穂乃果が手伝ってくれた絵本のページを開くと、新の口から自然にその言葉が飛び出してきた。

(この絵本は、完成なんてしてない……するはずがないじゃないか。一人じゃ駄目なんだ)


 これは未完の物語。誰にも知られる事のない、一時の夢。最後の最後で、新は変えようもないその事実を思い知る。この夢だけは、二度と叶えられない。醒めてしまえば、いつかは忘れてしまうだろう。

 ありもしない過去は未来に繋がっていない、起きてしまった過去だけが変わらずに未来へと続いている。だとするならば、せめて過去の自分が逃げ出してしまった事だけは、今度こそ正面から向き合おう。その決意は、新の心に強く残っていた。

「……さよなら」

 終わりの時間がやって来る。薄れていく意識の中、新はこの世界のすべてに別れを告げた。

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