三章 3
その日の夜は、楽しみという事もあり落ち着いて眠ることが出来なかった。だというのに、翌日は本来起きるはずだった時間の一時間も前に起きてしまう。しかし、寝不足の気だるさは感じられず、ゆっくりと準備が出来る余裕があってよかったとさえ思った。早起きは三文の得という言葉があるが、今まさにそれを実感している。
三文の価値を現代に直すと、一体いくらになるかは知らないが、このワクワク感には三文以上の価値があるだろう。新が部屋の扉を開け、小気味良いリズムで階段を駆け下りていると、
「ずいぶんご機嫌みたいね。もしかして……昨日言ってた、さては女の子と会うの?」
図星であった。いや、女性である事は言ってなかったはずなのだが、女の勘は侮れないという事なのだろう。朝食を済ませ、スケッチブックなど一通りの支度を整えて、いざ玄関の扉に手をかけたところで、またもや母親に声を掛けられた。
「気を付けてねー。それとアンタ、あんまりがっつきすぎない方が上手くいくと思うよ」
「……余計なお世話。じゃあ、いってきます」
母の茶化しを受けてから押し開けた扉は、いつもより軽かった。家でゆっくりと時間を潰したつもりだったが、それでも予定より三十分は家を早く出てしまった。
後ろから吹く風に背中を押され、ゆっくりだった歩調は次第に速度が上がり、気が付けば駆け足になっている。呼吸の苦しさ、大きくなった心臓の動き。
それが、今はどうしようもなく心地良かった。そして、約束をしていた駅前の待ち合わせ場所に着くと、約束の時間よりもだいぶ早い時間であるというのに、既に穂乃果が待っていた。
「おそーい。遅刻だよ!」
「えっ⁉ いや、あれ? 集合って――」
「嘘、嘘。キミが慌てて走ってるのが見えたから、ちょっとからかってみただけ」
怒ったようなフリから一転、急に笑顔を見せられ呆気に取られていると、
「ほら、早く! 電車来ちゃうよ」
そう言いながら、穂乃果は新の手を引いて行った。昨日、電話で話している時から感じていたが、彼女には意外と積極的な一面があるようだ。そんな可愛らしい様子を見て、少しだけ安心した。新は顔を合わせて歯を見せて笑い、手を握り返して改札へと向かった。
海がある場所の最寄駅は、ここから五駅で時間は十五分程。電車に乗っている人は少なかったので、二人並んで席に座った。ちなみに、少々名残惜しくもその手はとっくに離されていた。
「……三文の得。まぁ、こんなもんだよね」
「えっ? あぁ、そうだね。席、空いててよかったね」
微妙に意図は違うのだが、穂乃果の方が邪な自分の考えよりもよっぽど健全だった。
「でも、早起きは三文の徳って言うより、同じ徳でも……徳孤ならず、必ず隣ありって感じがするけどなー、わたしは」
「なに、それ……」
新は、自分の浅学さが悲しくなり頭を抱えた。すると、すかさずフォローが入る。
「あ、いやいや! 元々知ってたってわけじゃなくて……ほら、わたしっておばあちゃん子だったから、昔から色んな事教わってて。それで、ちょっと詳しくなっちゃっただけだから! 他にもね、百人一首とか好きだったんだよ。小さい時から、趣味が古臭いせいで友達と話が合わなくて大変だったんだから」
「それは、ちょっと分かるかも。オレも絵の事しか興味なくて、苦労したなぁ、友達作るの」
笑い話をしながら車窓の景色を眺めていると、いつの間にか目的の駅に着いていた。二人は慌てて座席から立ち上がり、小走りで下車した。電車を降りると、風がちょうど目の前を走り抜けていった。
磯の匂いが二人の鼻をくすぐり、潮風が海の近くに来たことを教えてくれた。十月中旬の風は少しだけ肌寒さを感じさせる。しかし、車内の暖房が少しだけ暑かった電車内から降りた二人にはちょうど良い心地だった。
「いい匂いだね……」
穂乃果は、一度深く深呼吸をして一伸びする。そして、満足げな顔でぽつりと言った。
「いや、まだ駅だからね。そんな満足そうな笑顔は困るよ」
「うん。それもそうだね、じゃあ行こっか」
新が冗談めかすように笑いながら言うと、穂乃果も新の笑顔に応えるようにはにかむような笑顔を向けた。
駅から歩いて五分。海に近づくにつれて、鼻には少しずつ濃くなる海の匂いが、耳にはリズムを刻む波の音が。開けた場所に出て、最初に目に入ったのは晴れた空の下に広がる水平線。道路に面しているガードレールのすぐ傍に砂浜があり、隣を歩いていた穂乃果の方に目線を向けると、表情が少し緩み、心なしか海を見つめる目は少し輝いていた。
「わたし、海に来たのなんてすごい久し振り」
「海に来るにしては、ちょっと季節がズレちゃってるけどね」
夏とは趣の少し違う、この静かな海を見ていると時間を忘れてしまいそうになる。波の音が時間という感覚の無い世界にこちらを引きずり込む。人のいなかった砂浜に、数人の子供が駆けてくる。子供たちのはしゃぐ声が、吸い込まれそうになった意識を元に戻してくれた。
「もう、あんな風にははしゃげないかなぁ」
「え? キミは行かないの?」
無邪気な子供たちを見守ろうと思っていると、隣では靴を脱ぎ、颯爽と砂浜へ駆け出そうとする穂乃果が驚いた顔でこちらを見ていた。
「あ、穂乃果さんは行ってきなよ。オレは、ここで絵でも描いてるから」
「そっか……じゃあ、やっぱり隣で見ててもいい?」
「別にいいけど……見てて面白いものでもないよ?」
そう言うと二人で腰を下ろして、新はおもむろにスケッチブックを取り出し、目の前に映る景色を描き始めた。ただ目の前の景色に集中し、鉛筆を動かしていく。スケッチブックには、今この時間、新の目から見た浜辺が描かれていく。手際よく景色が切り取られていくのを見て、穂乃果はどこか感心したような顔をする。
「わぁ! すごい! ほんとに絵上手いんだね」
「ううん。そんなことないよ、これは下描きだし。それに、ただ目に映ったものを描いてるだけだから……」
穂乃果の何気ない賞賛の言葉に、新は少しだけ頬を緩ませながら答えた。
「それで、絵本の内容なんだけど。何か、いい案あるかな……?」
「わたし、少しだけ考えてきたよ。えっとね……」
照れているのを悟られぬように話題を変えると、穂乃果から案が出てきた。まさか本当に考えてくれていたとは思わず、新は手を止め慎重に耳を傾けた。
「――ある所に、女の子がいました。その女の子にはずっと大切にしているものがあります。それは、おばあちゃんから貰ったくまのぬいぐるみです。でもある日、そのぬいぐるみが近所の野良猫に盗まれ、女の子の所に戻ってきた時には既にボロボロになっていました。女の子は大好きなおばあちゃんに悲しんでほしくなくて、ぬいぐるみを直してくれる人を探しに行きました……みたいなのは、どうかな? それでね、例えば海に行ったらイルカが貝殻で目を直してくれて、また別の所で別の誰かに直してもらうの」
穂乃果はそう言うと、砂浜にある貝殻を拾い上げて目に当ててみせると、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「うん……すごく面白い発想だと思う! それで、紙に描いたぬいぐるみにほんとに縫い付けて、触れる絵本みたいにするもいいかもね」
「ほんと!? よかった……あ、そうだ。ぬいぐるみの刺繍は任せて! わたし、実はそういうのも得意だから!」
発想もだが、何より自分の心の中のイメージと重なるところがあり、新は感心しながら賛同すると、穂乃果はぱっと明るい笑顔をして、
「じゃあわたし、綺麗な貝殻探してくる!」
そう言って、砂浜へと駆け出して行った。結局、子供みたいに砂浜を走る穂乃果を眺めながら新はスケッチを続け、時折拾ってきた貝殻の感想を穂乃果に求められては、その度それに答えていた。そしてスケッチを終え、満足した二人は帰路へと就くことにした。
「海……楽しかったね」
帰りの電車の中、ハンカチに包んだ貝殻を大事そうに持ちながら、穂乃果は名残惜しそうにそう呟いた。待ち合わせをしていた時に初めて言われた冗談、駅へと駆けた時に握り返してしまった手、子供のように砂浜を走り回った後の無邪気な笑顔。今日の出来事を振り返れば、新も当然名残惜しい事に変わりはなかった。しかし、それを言葉にはせず、軽く相槌だけを打った。そして、次に会う日の約束をしてから一日を終えた。
翌日、昨日と同じように待ち合わせをしてから目的地へ向かう事になっていた。そして、新が待ち合わせ場所に十分前に着くと、やはり穂乃果は先に待っていた。
「……何で、もういるの?」
「さぁ、何ででしょう」
ニヤニヤしながら穂乃果が言う。大方、また遅刻という罪を着せてからかうつもりなのだろうと思ったが、新はそれを言葉にはしなかった。
「さて、じゃあ行こっか」
「行くって、どこに?」
待ち合わせをする場所は決めていたが、どこに行くかは決めておらず、心配そうな新を余所に穂乃果は既に歩き始めていた。
「まぁまぁ、わたしに任せて! 行ってみたいとこがあるから」
早く来ていたのは、自分が場所を選ぶためかと納得してしまう。だが、新はその言葉に若干の不安を抱えていた。そして、ものの見事にそれは的中する。
「……ここって、いわゆる庭園、だよね?」
「そう! 一回来てみたかったんだよね。でも、中々一人じゃ行く機会がなくて」
電車に揺られること約五分。目的地の場所は意外にも近くにあり、確かに言われてみればわざわざ大学生が一人で足を運ぶような機会はない場所だなと、そんな事を思ってしまう。すると、
「……ほんとに、趣味が渋いんだな」
新は思わず口に出してしまったが、幸い目の前の景色に気を取られている穂乃果には聞こえていなかったようだった。
「ほら、ここなら良い景色が描けそうじゃない?」
周りを見渡してみると、人は少なく静かな空気に包まれており、その静寂さが池泉回遊式の庭園ならではの雰囲気をより一層高めているように感じられた。池では鯉が泳ぎ、紅葉の見頃はもう少し先かもしれないが木々も綺麗な色を見せ始めている。
「確かに、それはそうかもしれないね」
「そう? じゃあ、よかった! キミが、やっぱり帰る。って言ってどうしようかと思ってたの」
冗談みたく笑ってはいるが、きっと本当に心配していたに違いない。一応、穂乃果なりに気後れはあったのだろうと思ってしまうと、
「うん。ほんとに良い絵が描けると思う。ありがと、穂乃果さん」
自然と感謝の言葉が出ていた。それを聞いて再び微笑んだ穂乃果に連れられて、ゆっくりと庭園を歩いて回る事にした。
「なんか、落ち着くよね。こういう場所って」
広い園内を歩きながら、穂乃果が呟いた。
「うん。今まで気づかなかったけど、こういうのもアリかな」
元々静かな場所が好きだったとはいえ、高校生の時であれば退屈で仕方が無かったかもしれないが、慌ただしく生きていた大人の自分からすると、この静寂な空間の中を歩いているというだけで心地よかった。
「あ! ねぇ、あれ見て!」
新が静寂に浸っていると、穂乃果が急に声を上げた。その指を差す方向を見ると、池の周りの木に一羽の鳥が止まっていた。雀より少し大きく、可愛らしいずんぐりとした体に茶色い羽毛、そして特徴的な長めのくちばしをしていた。
「あの鳥、なんだろうね? キミ、知ってる?」
「多分……シギの仲間じゃないかな?」
それを聞いた穂乃果が驚く。恐らく、本当に知っているとは思ってなかったのだろう。
「いや! 昔、図鑑を見ながら絵を描いてた時の記憶だから、違うかもしれないけどね」
「へぇー! それでもすごいと思うけどな」
そう言って、穂乃果はまたしても笑顔をこちらに向けてきた。
(この笑顔には、勝てる気がしないな……)
新がそんな事を考えていると、
「じゃあ、あのシギがいいんじゃない? 季節感も出ると思うし」
「え? 何が?」
「何って、絵本の話だよ。まさか、キミ忘れちゃったの?」
その言葉を聞いて、新はようやく絵本という目的がある事を思い出した。
「……うん。もちろん、覚えて――」
「嘘」
食い気味にあっさりと看破されてしまった。表情の読めない顔で、こちらをじっと見つめる穂乃果の視線が痛く刺さる。
「そ、それで、どんな話に……」
「そうだね。さて、どうしよっか?」
焦った新が話題を変えると、穂乃果はあっさり表情をいつもの状態に戻した。別に、怒っているというわけではないようだ。
「ま、それはゆっくり考えていけばいいよ。それよりほら、絵描かなくていいの?」
穂乃果がそう言い、腰を落ち着けられそうな場所を探して、新は絵を描き始めた。ちゃんとした動物の絵は久し振りで不安があったが、描き始めると感覚を少しずつ取り戻していった。そして、リアルな表現の鳥や背景を描き終えると、次に絵本らしいキャラクターへと描き直し始めた。
「やっぱり、キミはこういう絵の方が得意なの?」
「うん、そうかもしれない。一応これでも、絵本の作家を目指してたからね」
「そうだったね。あ! あの紙芝居の絵も、キミが描いたんだよね? あれ、もう一回観たいなぁ」
「え!? いや、それは恥ずかしいから……それにほら、竜司もきっと嫌――」
嫌がると思うから。と言おうとしたところで、そんなわけがないという事に気が付いてしまう。しかし、
「そっかぁ、残念……」
穂乃果の方は諦めてくれたようで、新は内心ほっとしていた。そして、しばらくは黙々と描き続け、絵が完成するとそれを見せた。
「うん。良いと思う! 鳥って感じがする!」
「……それで、この鳥は女の子に何をくれるんだろうね?」
少し適当に思える穂乃果の感想を一旦置き、絵本のシナリオではそうなっているので、新は尋ねてみた。
「綿の代わりになる……羽?」
「で、それをくちばしを使って入れてくれる。みたいな?」
「そうそう! そんな感じ! あ、折角だし親子って事にしとこっか。一羽だけから大事な羽を貰うのって、何かかわいそうだもんね」
新は半分冗談かと思っていたが、それはそれで可愛らしい気もしたので、決定という事になった。肝心の絵本にくっつける羽は、さすがに直接むしるわけにも、拾ったものというわけにもいかないので、手芸用のものを使おうという提案が成された。
「よし。じゃあ、帰ろうか。穂乃果さん、それで次なんだけど、いつにしようか?」
「わたしはいつでもいいよ。でも、キミは学校があるでしょ」
もうお互いに会う事への抵抗はなくなっており、むしろ当たり前のように次の約束を決めようとしていた。そして、絵本を少しずつ形にしておきたいという理由もあり、三日後ならば学校が少し早く終わるという新の提案で、次の約束が決まった。
穂乃果に別れを告げ、意気揚々と帰宅して自室に行こうとした瞬間、急に扉から顔を出した母に声を掛けられる。
「……アンタ、上手くいってるみたいね」
痛い所を衝かれた。動揺する新を尻目に、母は嬉しそうな顔で夕食の準備へと戻っていった。家では気を抜くべからず。新は自分に忠告をした。
「よう、新! なーんか最近、調子よさそうだな!」
翌日の学校では、竜司がにやけ面をしながら声を掛けられる。家でも学校でも決して気を抜いてはいけないのだと、新は再度自分に言い聞かせた。
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