雲の切れ間に
堵碕 真琴
一章 1
時計の短針が二の数字を過ぎ、人々の多くが眠りについた頃、住宅街にあるレンタルビデオ店では未だに店の明かりを灯していた。その店内の狭く薄汚れた休憩室では、仕事がひと段落したアルバイトの青年が椅子に座り、虚ろな目を小さなテレビの画面に向け、ただぼんやりと光の明滅を映し出していた。テレビの画面では、今勢いがあるという若手俳優のインタビュー映像が流れている。どうやら、新しく公開する映画で主演を務めるらしい。何の気なしにその映像を見ていると、ほどなくして休憩室の扉が開き小太りで見るからに中年という男が休憩室の中に入り青年に声を掛けた。
「お疲れ様、金待くぅん。頼んでた仕事は終わったぁ?」
「あ、店長、お疲れ様です。あとは仕上げだけなので……少し休憩をしてました」
うん、よし。と中年の店長が返事をすると、テレビに目をやって口を開く。
「今テレビに映っている俳優の子ってさぁ、金待くんと同じ位の歳だよねぇ? すごいなぁ、こーんなに若いのに主演をやっちゃうんだもんねぇ」
店長は横目で見比べるようにして青年を見ながら、語尾が間延びした耳にこびりつく声で嫌味のように呟く。恐らく、本人には悪気など無いのだろう。しかし、その嫌味ったらしい小言を受けた青年――
『社会現象にもなったあの名作がついにDVD化! ただいま予約受付中』
決まりきった煽り文章に、可愛らしい絵を加えてやる。新が作っていたのは、来週から貸し出しが開始される新作タイトルのポップ広告。店長からはこのポップ広告作成を一任、というよりは押し付けられている。とはいえ、元々美術大学に通っていたので、他の人よりも絵を描くことが得意な新は不満を感じながらも、仕事を淡々とこなすようになっていた。
(……こんなところでいいかな)
ポップ広告の作成が終わると、返却されたDVDとVHSの整理を慣れた手つきで早々と片付け、店長に挨拶をしてから帰宅を始めた。
一月も終わりに近づいていたこの季節の夜明け前は異様に寒く、冷たく凍り付いた空気は、自分が生きているのか死んでいるのかも分からなくなるほどに熱を奪い、ふと足を止めたくなるほどのやるせなさが訪れる。
(自分は、何をしてるんだろう……?)
高校を卒業後、幼い頃からの漠然とした夢の為に美大へと進んだ。周りにもそういう人間が居たので気にしてはいなかったが、卒業をしてからは他の人たちとは違い、しっかりとした就職はせず、こうしてアルバイトを続けて何となく生きていた。美大で学んだことは、皮肉にもポップ広告という仕事として辛うじて活かされていた。そして気が付けば、もう二十四歳という立派な大人になっていた。
バイト先から少し離れた寂れたアパート、新が住んでいるその場所に着く頃には空が白み、新聞配達の原付の音が鳴り響いていた。ポストに入っていた郵便物を乱雑に掴み、ワンルームの狭い部屋でいつも使っているテーブルの上に投げ捨てる。着替えもせずにベッドに座り、一息ついたところで乱雑に置いた郵送物の中に宛名も送り元も無い、真っ白な封筒が目についた。
「なんだ、これ?」
手に取って開けてみると、一枚の紙が入っていた。
『おめでとうございます! 貴方を当社の行う最高の体験に無料で招待致します!』
と、ご丁寧に紙の半分を使う大きな文字が怪しく書かれていた。そして、もう半分には、さらに怪しい言葉が並んでいた。
『過去の清算をしませんか?』
「過去の清算って、何? 最近は悪徳商法も多様化してるんだな」
目を引く言葉よりも眠気が勝っていた新は、気に留める様子も無くその手紙をゴミ箱へと押し込んで床に就いた。
そして、近所の小学生がランドセルを背負って騒ぐ声で目を覚ます。小学生の登校の時間かと思ったが、夕焼け空を見て既に下校の時間だということに気付く。寝ぼけた眼をこすりながら体を起こすと、丁度ゴミ箱に入っている昨日捨てた真っ白な封筒が見えた。起き抜けの頭には、眠る前に見た言葉が過ぎる。
『過去の清算』
進むことをやめてしまった自分の時間は、ここで止まってしまっている。ただその場で停滞するだけ。自分は止まっているのに、世界はひたすらに前へ前へと進んでいく。目には見えない周りの時間が進めば進むほど、胸の内にある時計の歯車の動きは鈍くなり、動きを止めていく。過去のしがらみが余計に自分の時を止めているのだ。心のしがらみを取り払うことで、自分の時間は動き出すのだろうか。脳裏に過ぎった言葉に自問自答を繰り返し、自分の過去を思えば思うほど締め付けられる。手紙の言葉は自分の中だけは解決しなかった。
ゴミ箱から乱雑に捨てた手紙を拾い上げ、もう一度手紙の内容を確認する。『過去の清算をしてみませんか?』ただ、その言葉だけが目につく。いつまでも手紙を見つめていようが解決しないように思えたが、カーテンの隙間から指し込む光で手紙が透け、裏面にも文字が書かれていることに気づいた。そこに、自分が求める答えが書いているのではないか。微かな期待を込めて紙をめくると、そこには簡素な数字の羅列があった。
もしやと思いその数字を携帯電話で打ち込み、発信ボタンを押す。いたずらでも構わないそんな軽い気持ちでかけた。呼び出し音が一度だけなるとすぐに誰かが電話に出た。
「おはようございます、金待様。お待ちしておりました。お電話なされたということは、当社の体験にご興味があると考えて差し支えないのでしょうか」
抑揚のない男の声だった。電話に出たことに驚きが隠せず黙り込んでしまったが、そんなことは意にも介さず、男は話を続けた。
「まずは、誤解を招くようなお手紙をお送りしたことを謝罪致します。しかし、あなたはお電話下さいました。ありがとうございます」
「あ、いや、すみません。いたずらだと思い込んでたもので……いたずらでは、ないんですか?」
「はい。いたずらなどではございません。私どもは、金待様、ただあなたにチャンスを受け取ってほしいと、過去の清算をするお手伝いを出来ればと――」
まるで夢のような話を聞いている内に、悪徳商法かもしれないという疑念を忘れ、新はすっかりと話を聴きこんでいた。
「それで、詳しく話をお伺いしたいのですが……」
「いつでも詳しいお話は出来ます。都合の良い日時をお教え頂ければこちらからお迎えに上がりますので」
新は、生唾を飲み込んで一呼吸間を置いて喋りだす。
「きょ、今日、今から大丈夫ですか!」
新の逸る気持ちは、自分でも思っている以上に大きな声を出させた。ここ最近は感じていなかった、高揚感に似たものを感じる。未知なるものへの好奇心もあったのかもしれない。しかし、何よりも自分の今までの人生を変えられるかもしれない。そんな思いが一番強かった。
「ええ、構いませんよ。今すぐにでも迎えをよこします。三十分程でそちらに参りますので、ご準備してお待ちください」
新はその間に、シャワーを浴び、服を着替えて準備をした。そして、電話を切ってからピッタリ三十分後に、家のチャイムが鳴った。玄関へ向かい扉を開けると、扉の前にいたのはキッカリ七三分けで恐ろしい程に姿勢がいい、百九十センチはありそうなスーツの姿の男が待ち構えていた。その恐ろしく綺麗な姿勢と、自分とは頭一つ違う身長に思わず言葉を失ってしまう。
「失礼します。金待様でよろしいですか?」
スーツの男が発した声には聞き覚えがあった。先刻、電話口から聞いた声だった。初対面でも一度聞いたことのある声だと多少だが安心感がある。
「初めまして。いえ、先ほどお電話で話したので、正確には、初めましてではありませんが」
電話で話した時の厳格な声とは異なり、優しい印象の覚える男は安心感を与える微笑みを新へと向けた。
「そうですね。じゃあ、改めて……よろしくお願いします、金待新です」
「私は渡辺と申します。よろしくお願いします。急かすようで申し訳ございませんが車の方に参りましょう」
新は、渡辺と名乗る男に導かれるままに玄関から外に出る。外には新の住むボロアパートには似つかわしくない黒い高級車が止まっていた。渡辺はその車の後部座のドアを開けて新に乗るように促し、一礼して車に乗り込んだ。
渡辺は、運転席に乗り込みエンジンをかけて車を走らせた。車が走り出してから少しの間無言の時間が続いた。そんな中、口を開いて話し出したのは渡辺だった。
「過去の清算、その言葉にあなたは何を思いましたか?」
「…………」
沈黙。過去の清算という言葉に対しての解は新の中には見つからなかった。ここで新ができることは黙って言葉を待つことだけだった。清算などと大それたことには実感が無かった。
「まあ、そうでしょう。急にそんなこと言われて答えなど思いつく訳がありませんから」
渡辺の言葉を聞きながら車の窓の外を見る。窓の外では見覚えのある景色が過ぎ去っていく。その景色は、高校を出てから過ごした街並み。見飽きるほど過ごし、無為に過ぎ去っていた時間。新の目には、その景色が移ろっていく。車の速度は緩やかで景色はゆっくりと映っていくが、自分の事を思うと、ただひたすらに早く進んでいくように感じられた。
「人には必ず後悔がある。と、私は考えています。中には後悔なんてしない人間がいるかもしれませんがね。少なくとも、私には後悔はあります。取返しなどつかないような後悔があります。原因もわかっています。あの時あれをしていれば、はたまた、あれをしなければよかったと」
「僕なんて、後悔だらけですよ。ああしておけばよかった。あんなこと言わなければよかった。言っておくべきだった。そんなこと、今更になってもしょうがないですけどね……」
唐突に自らの話を始めた渡辺に対し、親近感を覚えながら言葉を返す。
「人は選択を迫られた時、過去を省みる。そして、自分の過去からその選択に最良の結果を考え、行動をします」
「最良の結果、ですか……」
「えぇ、あくまで自分の中の最良。つまりは基準を設けるということですかね。例えば、何かをして喜ばれたことがあるなら、もう一度同じようにして喜んでもらえる。前向きに考えるならば、こういうことですかね。しかし、後悔のある過去はその選択の邪魔をします。そして、選択を間違わせることがあります」
分かるような、分からないような話に、新は何も言うことができなかった。しかし、何となく過去の清算を謳う理由が見えてきていた。
「私たちは、そんな最良の選択の妨げになる過去を消し去るお手伝いをしています」
「過去を、無かったことに出来るんですか……?」
渡辺は、ルームミラー越しで縋るような新の表情を確認する。
「消し去る、というのは少々語弊がありましたね。過去を消すということは誰にも出来ませんから。あくまで、自身の中にある過去を消す。厳密に言うならば、後悔という認識を変えていきます」
「記憶を消すんですか?」
「それは違います。記憶は消しません。金待様には、過去を追体験していただきたいのです。そこで起こる出来事をどうするのかはあなたの自由です」
「過去の、追体験……?」
「はい、どんな過去の体験を選ばれても構いません。もちろん、現実の今という時間には一切の影響を及ぼしません。あくまで、追体験をするだけです。一番楽しかった頃の記憶を辿り、その時の感情に思いを馳せて前向きな気持ちになることで、後悔という感情を忘れ去ってしまうということも出来ますね。あるいは、トラウマになりかねない過去の選択をやり直し、最良の結果を見つけ直すということであったりしますね」
(自分の、戻りたいと思う過去……)
過去に戻れるなら、という与太話をする時にどんなことを考えるだろうか。宝くじを当てて一攫千金、子どもの頃に戻って馬鹿みたいに遊ぶ。きっと、様々なことを考えるが、それは叶わないと分かっているからこそ花が咲くものである。現実に影響しないとはいえ、実際に叶うと言われてしまうと、すぐには思いつかなかった。
「ちなみに追体験をするというのは、頭の中で世界を構築し、そこで過ごしてもらう形になります。簡単に言うならば夢、ということですね。夢と言いましても、記憶を呼び起こした限りなく現実に忠実な夢ですがね。ただし、そこで過去の清算をできるかどうかは金待様次第です」
話が終わると同時に車も止まった。外には自分の住んでいるアパートが見える。どうやら、そこら辺を適当に走らせていたらしい。どこかに向かうわけではなく、話をする為の車だったようだ。
「最後に言っておきますが、追体験できる過去は一か月だけです。そして、夢の中では現実と同じ時間が流れます。つまり、現実の時間を過去の追体験に充てるということになりますので、その事はくれぐれもお忘れなきようお願いします」
一か月を費やすという言葉に、新は手で口元を覆い一人で考えを巡らせていた。
「金待様、答えは急ぎません。十分にお考えの上でまたご連絡いただければと思います」
渡辺は一言、新に声をかけて運転席を降り、新の乗っている後部座席のドアを開ける。新は、車のドアが開けられた音に思考を遮られて我に返る。
「すみません。ありがとうございます」
一礼しながら車を降りる。その時に見えた自分の住んでいるアパートは、より一層廃れているように見えた。
「では、金待様。お電話お待ちしております」
渡辺は深くお辞儀して、新がアパートの自室へと戻るまで見送り、玄関のドアが閉じられる音がするまで顔を上げなかった。
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