一章 2
部屋に入り一息つきながら、新はベッドに腰掛ける。頭の中には過去のことが、撹拌され回り続ける。これまでの人生を考えながら自分の部屋を見渡す。この部屋に住み始めた頃は見るもの、鼻に触れる匂い、頬を伝う風。全てが新しくて希望と夢に満ち溢れているように感じられた。良い思い出は大袈裟に記憶に刻まれているからか、自分の現状を許せないからなのか昔の出来事が美しく思えた。
部屋を見渡すうちに目に入った本棚と学生の時に使っていた作業机は、埃にまみれ白くなってしまっていた。長らく本棚の掃除をしていなかった気がする。無意識の内に避けていたのかもしれない。新はベッドから立ち上がり本棚の方へと歩いて近づいていく。好きな小説、何度も何度も擦り切れるほど見返した画集、デッサンの参考書。これらの書物はもうずっと中身を見ていない。机の上に目を移す、乱雑に置かれたままの画材、作りかけの作品があった事を机の前にきて久々に思い出す。あの時、突然消えてしまった未来への目印を。
部屋の静寂が呼び起こす雑念を払おうとテレビを付けると、昨日も見た主演の若手俳優が特集されており、コメンテーター達が口々に賞賛の言葉を述べていた。
『いやぁ、若いのにすごいですねぇ!』
『芸名ではなく本名を使っているのは、自信の表れだねこりゃ』
『今は控えめにやってますが、彼はまだまだ伸びると思いますね』
『――ということで、今をときめく俳優、大石竜司さんでした』
「……夢、叶えてるんだな。竜司」
テレビに映されたその俳優――
「行こう……!」
新は、ついに決心をした。
(そうだ、一か月も眠るんだ。バイトを休むって伝えないと)
気持ちが変わらないうちに行動に起こそうと、新はポケットから携帯電話を取り出して電話帳に登録してあるアルバイト先に電話を掛けた。
「いや、店長に止められちゃうかもな……ポップの仕事も残ってるだろうし」
呼び出し音を聞きながらまたベッドに腰掛ける。何度か呼び出し音がした後に、若い女の子が電話に出たので店長に電話を替わるように頼むと、面倒臭そうにはい。という声が聞こえてきた。
「お疲れ様です。金待です」
『あぁ、金待君かぁ、どしたのぉ?』
「突然で申し訳ないのですが、しばらくバイトを休ませてほしいのですが……」
『そっかぁ。うん、了解。代わりは探しとくからぁ』
「ポップの仕事とかもあるのに、すみません……」
『いやぁ、あんなの適当でいいからねぇ。誰かに適当にやってもらうからぁ』
「……分かりました、失礼します」
新は電話を終えると、そのままベッドに横になる。部屋には一息の乾いた笑いが響いた。止められるなんて考えてしまった思い上がりが恥ずかしい。アルバイトとはいえ、ポップ広告を描く仕事には少なからずプライドがあったし、今まで絵を描いてきたのが無駄ではなかったという言い訳でもあった。だからこそ、あの店では自分にしか出来ないと思い込んでいたが、どうやら大きな間違いだったらしい。店長からすれば、ただ絵が上手い奴くらいの認識だったのだ。
翌日、新は渡辺に電話をかけていた。昨日と同様に渡辺は三十分後に新の家のチャイムを鳴らし、昨日と同じように車に乗り込んだ。
「余計なお世話かもしれませんが、ご両親にはご連絡は致しましたか?」
車が走り出してから、新は渡辺に声を掛けられた。
「……もう五年くらい連絡は取っていないので、今更一か月位連絡しなくても大丈夫ですから」
「……さようでございますか」
渡辺が何かを言い淀んでいたが、それは大きなお世話というものだ。
「バイト先も……オレがいなくたって何も問題ないです」
「でしたら、問題ありません。当社まではしばらくお時間が掛かるので、狭い車内ではありますがお寛ぎ下さい」
新はその言葉を聞き、シートにゆっくりと深く座り体の力を抜く。思いのほか力が抜けてしまっていたのか眠りについていた。
目が覚めると、研究所のような建物に到着していた。広大な敷地に入る為の入り口には門が一つしかない。その門の横には守衛が見張りをしている。そこで、渡辺に言われるがまま受付を済ませ、もう一度車に乗り込んで敷地内を移動する。敷地内にも関わらず、車で数分移動したところから、相当に敷地が広いということが感じられた。
そして、自分が一か月お世話になる場所に到着した。渡辺に案内されて、建物内にある一室へと通された。無機質な真っ白の部屋、その部屋にはシンプルな机を挟むように椅子が二つと挟まれるようにして机が置いてあるだけだった。渡辺に、座って待っていて下さい。と言われたので、その椅子に座って待っていると、先程自分が入ってきたドアからノックオンが聞こえ、失礼します。という声と共に真面目を体現したような見た目の白衣姿の男が入ってくる。部屋に入るなり、新の正面に座って抱えていたファイルから大量の書類を机に広げながら喋り始める。
「初めまして。今日から金待さんの担当医になります、橋爪です。よろしくお願いします。早速ですが今回の実験の説明、同意書の確認をしますがよろしいですか?」
「……いや、担当医ってどういうことですか? 実験ってなんですか?」
思いがけない人物、思いもよらない言葉の並びに身構えてしまう。
「渡辺の方から聞いていないのですか?」
「そういえば、詳しいことは何も……夢の世界で云々としか」
浅はかだった。手紙の段階では疑っていたのに、実際に渡辺に会ってからはそんなことを考えていなかった。新は、思考を止めてしまうほどまでに切羽詰まっていたのだ。
「抽象的ではありますが、渡辺の言ってることに間違いはありません。では、私の方から改めて詳しい説明をさせていただきます」
その男の話によると、この会社が発明した機械である『PTBY』は人間の脳を軽微な力で刺激し、潜在意識を具現化する。そうすることで、心の奥底にある記憶を夢として引き出す事を実現した。さらに、それは単なる夢ではなく実際に体験しているかのように感じる事が出来るということらしい。そして、実験の内容というのは『PTBY』で過去の追体験をする。これは渡辺の言った通りだった。しかし、記憶を時間スケールで分解し追体験をするという性質上、幾つかの制約が設けられていた。
1. 期間は約一か月
2. その間、現実でも同じ時間が流れる
3. 過去に戻るのではなく、記憶を頼りに追体験をするだけ
4. あくまで、実験なので過去の世界の人々に未来の話題を絶対にしてはいけない
5. 一日毎にデータを更新するので、夜間の外出は控えた方がよい
基本的に、重要なルールはこれだけであった。ただし、夢の中に出てくる人物はすべて人工知能であり、自分の記憶や体の微細な動きを読み取って可能な限りの再現を行ってくれる。ただし、自分の言動を基に生活をしているので、あまり無茶な行動は取らない方が良いとのことであった。他に細かい規則は無く、ある程度の自由は保障されており、監視をされることもない。人体に及ぼす影響と人工知能への多様な学習を求める会社側としては、夢の内容などはどうでもいいらしい。
橋爪という医者からの詳しい説明を終えて、同意書の類と思われる大量の書類を手渡された。全ての了承を得なければ実験が出来ないらしい。新は、一通り目を通して即座にサインをした。別に何が書いていても迷うことはなかった。
「随分と迷いなくサインをされるのですね。前の方は書類を読んで帰っていきましたよ」
「どうせ、自分がこの世界から居なくなっても誰も困らないし未練はありません。だから、迷う必要も、無いですから」
「……そうですか。では、早速ですが準備をしていただきます。準備と言っても、ただ着替えをしていただくだけですが」
無機質な部屋から更衣室に案内された、そこには健康診断などで使う一枚布のシンプルな検査着が置いてあった。検査着一枚だけになってくれと指示を受けており、着てきた服、私物などは責任を持って預かってくれるとのことだった。その旨は、同意書にもしっかりと記載されていた記憶がある。
着替えが終わり、いよいよ実験をする部屋へと案内された。そこには、酸素カプセルのような、人間が一人だけ入れる機械とその中にある太いチューブで繋がれた、睡眠状態を維持する為のヘッドギアがあった。機械の中では、健康状態を限りなく良好に保つための処置をしてくれるが、一か月もの間寝たきりの姿勢になるため筋力が落ち、起きてからすぐに帰れるというわけではないらしい。ただ、復帰の為のリハビリもちゃんと行ってくれると、かなり慎重で厳重な保護を約束してくれた。
そして、新は機械の中で横になり、ヘッドギアと酸素マスクを装着してもらう。
「これが、最終確認です。金待さんの体調に著しい問題が無い限り、起こすことはありません。これから一か月の間、あなたは眠り続けます。よろしいですか?」
「…………はい、大丈夫です」
「それでは、これより実験を開始します。金待さんの戻りたいと思う過去の時間、場所を強く思い浮かべて下さい」
その一言を最後にカプセルは閉められた。いつの時間、どの場所に戻るのか、そのすべては新自身に委ねられている。着替えるときにもらった睡眠導入剤が効いてきたのか、少し眠くなってきた。まどろみの中で、昨日からひたすら考えてきた過去の清算という言葉を反芻する。楽しかった時間、哀しかった時間、辛かった時間、今までの人生を振り返り、一番強く心に残っていたものを思い描いた。
(自分が戻りたい、やり直したいと思う場所は――)
新は目を瞑り、墜ちていく体の感覚と共に眠りに就いた。
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