二章 1
懐かしい匂いがした。これは、木の香り? 墜ちた体は、無重力状態から解放されたばかりの人みたいに重く、瞼は掴まれている様な感覚で開かない。だが、机に突っ伏して寝ているのだろうという事がなんとなく分かった。
「――まち! おい、金待!」
聞き覚えのある、しわがれた男の声が聞こえてきた。その声で頭が覚醒し、目を開いて上体を起こす。周りを見渡すと、懐かしい景色が広がっていた。見覚えのある人間ばかりだった。着ている服は皆一緒、制服だった。どうやらここは、高校の教室らしい。目に映った奴らを見るに二年生の時のクラスメイトだと思う。
名指しで呼ばれた自分に注目が集まり、様々な反応が向けられる。笑った顔、呆れた顔。その一人一人が人間と全く同じ感情を持っているような顔をしていた。窓から外を見れば、十月頃だろうか、木々が紅く色づき始め昨日までの現実世界の気温よりも少し暖かく感じられた。そのリアリティが、これを夢の世界だと思わせなかった。それこそ、今まで過ごしていた現実の方が、ただの暗い夢だったのだと。
「金待新、何をぼけーっとしてるんだ」
声のした方向を朧気な目で見る。教壇にいる教師だった。確か、数学の教師だった気がする。
「いやいや、ずいぶん気持ち良さそうに寝てたな。私の解説は子守り歌じゃないぞ。それとも、寝るほど余裕なのか? じゃあ、この問題、解いてもらおうか」
教師は黒板に書かれた問題を指さしながら言う。
「…………」
数学は苦手だ。おまけに、数学なんてもう何年もやっていない。高校を卒業して以来、数式を見た。実に、七年振りだった。だがそれ以上に、体中に残る強烈な違和感が考えるという行動を妨害している。
「先生、その辺にしてやって下さいよ。なんかコイツ、体調悪そうですし」
教師の半ばいびりとも取れる行動に助け舟を出した生徒がいた。その生徒が話し出すと教室の雰囲気が少し和らぎ、笑い声も響き渡った。そんなクラスの人気者的人物には、心当たりが一人しかいなかった。
「大石、だったら金待を保健室にでも連れて行ってやれ、一人でぼーっと歩いて倒れても困る」
教師は心配しているような、呆れ顔で言う。
「おい、新。保健室いくぞ」
「あ、あぁ」
新は体の感覚を確かめるように慎重に席を立ち、背中に笑い声を受けながら教室を後にした。そして、目の前にいる人物に付いて廊下を歩く。
(……本当に、竜司なのか?)
大石竜司。自分とは違い、俳優となって夢を掴んだ男。しかし、高校生というこの若き日々では、互いに夢を語った大親友でもあった。昨日、正確には七年後にテレビで見た人物とこうして再会をする。そう願ったのは自分自身であったが、いざこうして目の前にすると、思っていたよりも心が辛かった。これは、頭の中だけの過去。ここで何かをしたとしても、現実の自分が過去を取り戻せるわけではない。
「新、本当に体調悪そうだな。大丈夫か?」
心ここにあらずといった表情をしていた新を、竜司は首を傾げて目を見ながら、心配そうな眼差しを向けて言った。
「うん、大丈夫。心配掛けてごめん」
「らしくないな! お前が普通に謝るなんて。まだ、二時間目だけど今日はもう帰ったほうがいいんじゃないか?」
竜司の顔も、雰囲気も、冗談めいた口調も、作り物とは思えない。自分が覚えている、あの頃の竜司と同じだった。そう思うと、忘れてしまっていたはずの昔の自分が体を乗っ取ったかのように、ぎこちない笑みと言葉が出てきた。
「そうするよ。正直、勉強も飽きちゃったし」
「飽きた。とか言ってよ、本当はどうせ絵でも描きたくなったんだろ」
「うん……まぁね」
「その絵、完成したら絶対、オレに見せろよ。先生には適当に言っとくから。ただ、明日は大事な日だから、ちゃんと来いよ」
じゃあ。と、笑顔で竜司に軽く手を振りながら、保健室へは向かわずにそのまま下駄箱へと向かった。下駄箱で靴を履き替え、校門に向かっている途中で気が付いた。
「あ、カバン……」
とはいえ、教室に戻ってカバンを取りに行くのも面倒であったし、先生に何かを言われるのは癪だ。仕方ない、このまま家に帰ってしまおう。
高校から家に帰るのなど、久し振りのあまり辿り着けるか不安だったが、校門を出ると驚いた。町の風景もここまでの再現度なのか。学校内でも思ったが、人から風景まで、本当に細かいところに至るまでが完璧に再現されていた。
思い返してみれば、新と竜司が最初に出会ったのは高校一年生の頃。その時から同じクラスではあったが、入学してからしばらくは、他人とあまり関わらない新と対照的に、既にクラスの人気者に成りつつあった竜司とは、会話をした事も無かった。なので、恐らくお互いにその存在をわざわざ気にしていなかっただろう。
やがて、クラス内で部活動や各々の趣味に合わせてグループが固まった頃になって、部活動もやらずグループにも属さない新は、同じように何処にも属さないかと思いきや、何処にでもいる。そんな不思議な立ち位置にいる竜司の存在を記憶し始めた。
竜司に対する印象を聞かれれば、多くの人は『大人びているが、気さくで良い人』と答えるだろう。実際、現実での世界において有名な俳優になった事を、高校当時から彼を知る人たちは、当然だろう。と、誰も疑問に思っていなかった。それほどまでに信頼されていたのだ。しかし、新だけは当然だとは思っていなかった。それは、本当の竜司をよく知っているからである。だが、
(あれ……?)
新は、記憶を辿っていく中で、では一体どうして、自分が竜司と親友と呼べる間柄になったのか。という所で追憶が止まってしまった。確かに、間違いなく何かの出来事があったはず。なのに、それを思い出せないまま、町の中を再び歩き始めた。
(確か、ここを右に行ってから――)
歩けば歩く程、懐かしい景色が目に映る。ファミレス、公園、花屋に本屋。あの頃過ごした町並みそのものであった。もう少しだけ。と、気が付けば二時間ほど町を歩き回っていた。懐かしさに浸っていたいという理由もあったが、自分が忘れてしまっている何かを取り戻したいという気持ちも、心の片隅にあったのだろう。
複雑な気持ちのまま歩き続け、考え事をする時にいつも散歩をしていた場所である河川敷まで来ていた。気が付けば夕日が川を照らし、眩しさを感じるほどに反射している。そして、すれ違う人々の流れの中で、一つの記憶を思い出した。
それは、いつの日の事だっただろうか。ちょうど、今くらいの気温だった。しかし、日中との気温差で、むしろ心地良い涼しさを感じる季節。そんなある日、新は絵を描いている途中に行き詰まり、画材を持って河川敷を歩いていた。そして、スケッチブックを広げる事もなく、何となく堤防に腰を下ろしてぼんやりと川を眺めていた。すると、不意に近くを走っている人の音が聞こえてきた。それ自体は別に不思議な事ではなかったが、自分に近づいた所でその音は急に止まり、
「あれ? お前、確か同じクラスの奴だよな。えっと……そうだ、新!」
突如、声を掛けられた新は一瞬動揺したが、言葉を返す前に相手が再び話し始めた。
「あぁ、竜司でいいよ、みんなそう呼んでるしさ。で、何してんだ?」
それから、他愛のない話の中で、竜司が知り合いの紹介で、幼い頃から小さな劇団に所属している事、近々行われる公演で行われる演目の主演を務めないか、と言われたが素直に受けられずにいて、それについて考えながら走っていたら、たまたまここに来ていたという事を知った。
「何だかさ、多分若いからって、周りに変に期待されてよ。今までがむしゃらに頑張ってきた君なら大丈夫、絶対出来るよ。とか、挙句の果てには未来の大スター扱いまで。……別に、期待されるのが嬉しくないわけじゃない。もちろん、それなりに努力もしてきた。でも――」
(それで、何て言ってたんだっけ……?)
忘れていた記憶の中でわずかに思い出せたのは、そこまでであった。自分とは違う種類の人であると思い込んでいた、竜司の意外な言葉に戸惑いながらも、その時の新は、迷いなく言葉を返していたはずだった。
傍から見れば、日常の中の会話だったかもしれない。しかし、間違いなくこの時の出来事が、本当の意味での二人の出会いであり、親友と呼べる存在になった転機であった。その後も、劇団の人手が足りないからと雑用に駆り出されたり、結局二年生になっても同じクラスとなったので、学校生活での苦楽を共にしたり、たまに学校をサボっては、互いに好きな事を語り合ったりと。新にとっては決して飽きることの無い日常であった。
――ある出来事が起きるまでは。
十月の夕暮れ時は少し肌寒く、いつまでも外にはいられないと思い、そろそろ帰ろうかと考えたところで、忘れていたもう一つの問題を思い出してしまった。
(帰る、か。どこに……?)
現実での五年間、ただの一度も実家に帰る事はなかった。母親と仲が悪かったというわけではない。ただ、自分はきっと将来の夢を叶えると、漠然とした目標を掲げて飛び出したのに、何にもなれなかった自分が恨めしく、そんな恥ずかしい姿は見せられないと思っていた。そして、段々と周囲からズレていく自分を、今更引き返すことは出来ない、自分は間違ってないと思い込みながら日々を過ごしているうちに、ついには自分の家でさえも、帰るべき場所では無くなってしまっていたのである。
しかし、今の自分は高校生という事になるので、どれだけ悩んだとしても、帰る以外に選択肢は残されていなかった。
(そうだな。帰ったら、まずは母さんに謝って……。いや、でも……)
日が落ちてすっかりと暗くなった空を眺めながら、新はついに意を決して、だが依然として重い足取りのまま、木造一戸建ての懐かしい実家まで辿り着いた。よし。と、一息ついて胸を撫で下ろし、玄関の扉を静かに開ける。そして、静かに家に入り、二階にある自室へと向かう階段の横にあるリビングにいる母親に声を掛けた。
「……あの、ただいま」
「あら、おかえりなさい、新。珍しいわね、ただいま、だなんて」
遅い帰宅にも関わらず、母親は笑顔で迎えてくれた。たったそれだけだというのに、それが当たり前であった日々を思い出させられ、新は言葉を失った。
「…………」
「ご飯、冷蔵庫にあるからお腹空いたら食べて。今日はハンバーグだから」
そして、黙ったまま立ち尽くす新に対して、優しく声が掛けられる。
「……前から言ってるけど、あたしの事は気にしないで、アンタは好きに生きなさい」
「……うん。あ、ありがとう」
新は一言だけ歯切れの悪いお礼を言って、足早に自室へと上がった。そして、部屋に入り、閉めたドアに背中を預けてそのまま座り込む。向こうからすれば、いつも通りで当たり前な日常の光景。しかし、自分にとっては五年振りに触れたその優しさに戸惑い、謝ろうと考えていた事など忘れてしまっていた。現実では、自分の方から避け続けてきた、その温もりが突き刺さり、いつの間にか失くしていた感情が胸の奥から込み上げてきた。
(そういえば……そうだったな)
昔からだった。自分に何かあると、いつも何があったかは聞かずに、平気な顔で『好きに生きろ』と、言ってくれていた。その言葉のやさしさに付け込み、何にもならない人生を送る事になった今の自分。当然、母親はそれを知らないが、再びその言葉を聞けて良かったと思ってしまい、複雑な気持ちであった。
「母さん。本当はオレ、もう……今年で二十四なんだよ?」
新は少しだけ嬉しそうに微笑み、溢れそうになる思いを抑え込みながら、隠れるようにしてベッドに潜り込み、そのまま眠りへと就いた。
その夜、夢を見た。しかし、それはこの世界でのことではない。学校でのホームルームの時間。文化祭を間近に控えているというのに、クラスの準備が始まらず、こうして朝のホームルームを使って話し合いをしていた。クラスメイトが各々自由に案を出していく中、自分に話が回ってきた。
「金待、絵得意だったよな。何か適当に描いてさ、それ飾って完成でいいんじゃない?」
そんな無茶振りを投げてきたのは、声の大きいお調子者、所謂クラスのうるさい担当の奴であった。当然、竜司の方が人気者ではあるのだが、声の大きい人間の影響は大きく、早く終わらせたい者、こっそりと勉強をする者、何でもいいと思っていて興味の無い者。その多くが賛同をする。
(……こんな事も、あったっけな)
高校二年生の当時、夢に向かって真剣に絵を描いてきた自分からすれば、その夢を軽く見られ、茶化されているような気がして、とても苛立っていたのを思い出す。そして同時に、唯一無二の親友との決別をする日であるという事も。
「いいんじゃないか。やってみろよ、新」
竜司だけは、違うと思っていた。自分がどんな人間かを分かってくれているつもりだったのに。急かされたり、馬鹿にされたりといったことが嫌いで、行動力は無いのにプライドだけは高い小心者。そんな愚か者の唯一の理解者だったはずの竜司が、周りと同じように煽ってきている。その事実が信じられず、次の瞬間には、自分でも信じられないほどの大きな声が溢れた。
(止めてくれ! 何も、言わないでくれ……!)
その時、自分でも何と言ったのかは覚えていないが、騒がしかったはずの教室は急に静まり返り、クラスメイトの視線が自分に集まった。怖かった。その場の空気が嫌で、逃げ出した。それ以来、竜司と一緒にいることは無く、くだらない話をすることも、将来の夢を語ることも無くなった。思えば、夢を真剣に追いかけることがなくなったのも、この事があったからなのだろう。
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