五章 2

 ぼんやりと意識を取り戻し始めた時、目の前に広がっていたのは、一月前に見た研究所の天井だった。

「……お疲れさまでした、金待さん」

 研究所の職員の事務的な声が、耳に入ってくる。意識が少しはっきりとしてきたところで、体を起こしてみようとするも、体の感覚には違和感があり、思うように動かすことが出来なかった。

「無理をなさらないでください。こちらの方で最大限の補助は致しましたが、それでも体は弱ってしまっていますので」


 このような説明を受け、新はようやく自分が現実に帰ってきたのだと実感した。

「本日のところは、現実世界に体を慣らす為に、ゆっくりと休んでいただきます。明日になりましたら、幾つかの質問をさせていただきますので、ご了承ください」

 職員の人は、そう言い残すと部屋から去っていった。


(外の景色、ちょっと変わってるな……)

 ふと窓の外に目をやると、その景色は以前に比べて少しだけ暖かくなっているようだった。眠る前が二月の直前だったので、今は三月頃という事になるだろう。それでも、つい先ほどまで感じていた十月の気温と比べると、やはり少し涼しい事に変わりはなかった。


(帰ってきたんだ……さて、何から始めようかな)

 夢の中での決意は、新の心に変わらず残っていた。逃げ出してしまったこの世界には、問題が山積みになっている。これから先、その困難ばかりが待ち受けているだろう。

(それでも、きっとやり直してみせる)

 新は、自分自身に強く言い聞かせた。そして、その日は夢を見る事もなく深い眠りについた。



 翌日、午前中に軽いリハビリを済ませ、上体だけでも無理なく起こす事が出来るようになっていた。午後になると、告知通りに職員の人がやってきた。

「そのままの体勢で構いませんので、今回の体験の感想をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 新は何から話すべきか迷ったが、あの世界で起きた出来事を順番に追いながら語っていく事にした。


「えっと……まず、凄くリアルな体の感覚に驚きました。それと、周りの人たちも、ほんとに生きてるんじゃないか、って思うくらいに違和感がありませんでした。会話をしてみても、友人が喋ってるみたいに応えてくれて……懐かしかったです」

「では、過去の体験をしてみて良かったと思いますか?」

「はい。自分の思い込みで失くしてしまった大切なものを、取り戻せたような気がします」

 その言葉に嘘はなかった。自分の安いプライドが生んでしまった誤解が、友人を遠ざけてしまった。その間違いに気が付き、今まで後悔してきた事をやり直してみせた。

 そして、穂乃果という存在と一緒に、叶いはしなかったが、少しの間だけ楽しい夢を見られた。だからこそ新は、今度は恐れずに一歩を踏み出していこうという決意をしたのだ。


「ちなみに、注意事項であるルールの方はきちんと守ってもらえましたでしょうか?」

「え……? は、はい。それは、もちろん……」

 今にして思えば、感情が昂ってしまい危なかった場面もあったような気がする。その一番の要因である穂乃果との出来事は恥ずかしくて、とてもじゃないが話題には出せなかった。しかし、何かを言及されることは無かったのだから、新は大丈夫だろうと思っていた。


「……そうですか。ところで、今後はどのようにするおつもりですか?」

 そんな新に疑いの目を向けながらも、職員の人が唐突にそのような事を尋ねた。

「まずは……仕事でも探そうかなと思ってます。新しく、自分をやり直してみたいので」

 絵本を作るような仕事に就きたいかどうかは、新自身まだ分かっていない。ただ、アルバイトを辞める事で、何となく気持ちを切り替えるきっかけになるのではないかと思っていた。その他にも、新が考えていた今後の話を続ける。


「それから、しばらく会ってなかった人たちに会いに行こうかなと思ってます。まずは――」

 母親に。と、口にしようとしたところで、

「そういえば、金待さん」

 と言って、職員の人に話を遮られた。そして、次に語られた内容に新は耳を疑った。


「先日、金待さんのお母様が自宅で倒れているのが発見され、急遽病院に運ばれたそうです」

「……は?」

「過労による疾患だそうです。下手をすれば、もう起き上がる事も出来ないと」

 その言葉を聞き、体に嫌な力が入る。そして、ちぎれてしまいそうになるほど強く拳を握り締めて、新は怒りか恐怖かも分からぬ感情を抑えていた。


「何で……それを早く教えてくれなかったんですか……?」

「装置を使用している間は、一切の干渉をしないという契約ですので」

 契約だとか、規則だとかはどうでもよかった。

「そんなの……! 途中で起こす事だって!」

 堪えきれずに出てしまった感情が、ついには何の罪もない職員の人に八つ当たりをしてしまった。


(分かってる。この人たちが悪いわけじゃない。でも、こんなの……!)

 やりきれない思いが、衝動的に新の体を動かした。痛みも顧みずにベッドから転げ落ち、必死に力を振り絞り這いつくばって体を引き摺りながら部屋の外へと向かう。どんなに惨めな姿でも構わないと、自分の体に命令を下す。

(今すぐ、会いに行かなくちゃ。それで……ごめんなさいも、ありがとうとも言わなきゃいけないんだ! だから、動いてくれよ!)

 そんな様子を、職員の人は依然として冷たい目で見ていた。


「……一か月前、ここに来た時に金待さんは言っていましたね」

 息を切らしながら扉の前まで辿り着いた時、沈黙を破って言葉が発せられる。

「どうせ、自分がこの世界から居なくなっても誰も困らないし未練はない……と」

「……!」

「思い出されましたか? では、過去の清算という言葉の意味が今の金待さんには、お分かりになるでしょう?」


(違う、こんなはずじゃなかったんだ!)

 どれだけ否定しようにも、新には何が悪いのかは分かりきっていた。分かっていても、それを認めたくはない。しかし残酷にも、最後の言葉が投げ掛けられる。

「非常に残念ですが……この結果は、一か月を対価として捧げた――貴方自身の責任という事です」


 その瞬間、新の体から力が抜けて床に倒れこむ。自分には何も無いと思い込んでいた現実には、まだ残されているものがあった。過去をやり直して、取り戻す事が出来ると思っていたものは、既に自らが手放していたのだった。

(最初から、手遅れだったんだ……何もかも)

 今さらになって、涙が流れてくる。職員の人はすでに退室しており、部屋には新だけが取り残されていた。


(結局、何がしたかったんだろう……夢の中で、一人で勝手に解決したつもりになって、下らないごっこ遊びをしていただけ……?)

 現実という、決して変えられない真実が伸し掛かり、新にはこの一か月の何もかもが無駄に思えてしまった。


(あの絵本だって、結局は完成しなかったんだ。じゃあ、穂乃果さんと過ごした時間も……)

「元通り以上になんて、なるわけないじゃないか……!」

 そんな事はない、と否定しようにもその自信はどこからも湧いてこない。二人で作った絵本の言葉なのに、それすらも信じる事が出来ず、身の丈に合わない夢をみてしまったという後悔に押し潰される。

「夢って、なんなんだ……?」

 答えのない自問自答が、静かな部屋で小さくこだました。




 それからしばらくの時間が経ち、体の調子も良くなってきた頃、外出を許された新は母が入院している実家から近い場所にある病院を訪れていた。

「…………」

 職員の人の助けもあり、ある程度の落ち着きを取り戻していた。しかし、いざ病室の前まで来てみると、足取りが重くなる。どんな顔で会えばいいのか、何を話せばいいのかは、分からないままであった。


 それでも、覚悟を決めてから深呼吸をし、新は扉を開いた。すると、病室のベッドいたのは、間違いなく母だった。だが、七年前を見てきたばかりだからなのか、それとも病気のせいなのか、ひどく痩せているように見える。

「……新、なの?」

 母は想像していなかった人物の面会に驚いていた。それでも、誰なのかが分かると昔と同じように精一杯の優しい声で問い掛けた。

「……うん。久し振り」


 新はその優しさに心が苦しくなり、言いたい言葉が出てこなくなってしまう。何も言えずに黙っていると、母の方が先に口を開いた。

「アンタ……元気にしてた?」

「……あぁ」

「仕事は、ちゃんとやれてる?」

「……うん」

「そう……なら、良かった」

(……あれ? いっつも、会話ってどうやってたんだっけ……)

 母の言葉に対し、夢の中では素直に言葉が出てきたのにも関わらず、今は素っ気無い言葉しか返す事が出来なかった。新の心で歯痒い思いが募り、やがて息が詰まり始めた。


「……ごめんね、新」

「なんで……!?」

 新は、その言葉に耳を疑った。自分が言わなければならなかったはずの言葉を、どうして何も悪くない母が口にしたのか分からなかった。

「お母さん、無理しすぎちゃって。心配かけちゃったね……。でも、少し良くなってきてるみたいだから。あたしの事は気にしないで、アンタは好きに生きなさい」

 病床に伏せていても母は変わらずに、親として自分の事を気に掛けてくれている。新は、こみ上げてくる思いを無理やり押さえつけて冷静に言葉を探した。

 しかし、どんな言葉もこの感情を伝えるには足りないと思い込み、沈黙を通してしまう。

「……体、大丈夫みたいなら、用事もあるしそろそろ帰るよ」

 そして、ついに耐えきれなくなり、新は逃げ出してしまった。



(何、やってるんだ……!)

 そして病院を出た瞬間、居てもたってもいられなくなって走り出した。歯を食いしばり、涙が流れそうになるのを堪えて、脇目も振らずに走り続けた。どこにも、逃げる場所などないと分かっていても、そうせざるを得なかったのだ。


『街の中で走ったら、危ねぇだろ!』

『何だろうね、あの人……?』

『うわぁ……ああいうの、関わらないようにしないと』


 当然、ここは現実であり、周囲からは奇怪な目を向けられ、その怪しい人間に対して口々に囁く。それ以外の多くの人々は、自分に関係のない人間の事などどうでもよいのだろう、視線すら向けずに無関心を貫き通している。

 しかし、新にとってはどっちでもよかった。というより、そんなことを気にする余裕など残されてはいなかった。

 気が付けば辺りは暗くなり始めていた。そして、町の中心から離れ、新は人の気配がしない場所を歩き続けていた。


(……! 消えろ、消えろ!)

 周りには人影がないはずなのに、頭の中では自分を責め立てる喧騒が鳴り止まない。それを必死にかき消そうと、耳を塞いでも聞こえてしまう。それが一体誰の声なのか、新には分かっていなかった。

「もう、ダメなんだ……」

 放心して空を見上げると、ぼんやりと月に雲がかかっていた。最後に夢で見たのと同じような景色なのに、なぜか今はそれさえも恨めしかった。

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