四章 4-1

 もう立ち上がれないと思っていた。畳みかけるような絶望の波に襲われたのに、今は少しだけ前を向くことが出来ている。それはきっと、昨日出会った金待新という少年のおかげだ。

「おはよう、おばあちゃん……もうお昼だけどね」

 気が済むまで泣き明かした昨日を終え、日が昇りきった頃に遅めの起床。その罪悪感に気後れしつつも、ゆっくり眠ることもままならなかった普段の生活と比べれば、充実していると言える。


「はぁ……」

 思わず溜息が漏れる。口頭でしか伝えていないから忘れてしまっているのではないか、いやそもそも出会ったばかりの人に携帯電話の番号を教えてしまって大丈夫だったのだろうかと、一向に鳴る気配のない携帯を見つめて、穂乃果は一人でやきもきしていた。

(そういえば、こんな風に連絡を待つなんて久しぶりかも)

 ふと高校の友人の事を思い出す。この間も、自分にメールをしてくれていたが、嘘を吐いてしまった今はさすがに会う事も出来ず、少し後悔をした。

「戻ったら、連絡してみようかな……」

 ここに来る前の穂乃果ならば、そんな事など微塵も考えなかっただろう。それでも、変わりたいと思う心が後押ししてくれている今なら、どんな事でも出来る気がしていた。その矢先、

「……! 知らない番号?」

 突如鳴り始めた携帯電話の着信音に驚くも、相手が誰なのかには確信があった。震える指で、通話ボタンを押して電話に出る。


「はい! 立花です……いえ、吉田ではないです」

 間違い電話だった。


(あぁ。恥ずかしいな、わたし……)

 期待をしていた自分に呆れつつも、やっぱり会いたいという気持ちが自分の中で強いことが再認識できた。もう怖いとは思わない。現実ではないけれど、これは自分が変われるチャンスだと何度も言い聞かせた。

(でも、高校生かぁ……年下の男の子なんて、何話せばいいのかな?)

 今まで人と話すことも少なかったのに、ましてや相手は話した事の無いタイプの人間。悩み続ける穂乃果が変わっていくには、まだ少し時間が掛かりそうである。そんな自問自答をして三十分が経とうとしていた頃。

「また知らない番号から……」

 また間違い電話だろうと、半ば諦めつつ電話に出る。


「はい、立花です」

『…………』

 相手からの返事が無い。間違い電話の次はいたずら電話か、と打ちひしがれた時。


『も、もしもし。ど、どうも、昨日の、金待です』


 明らかに挙動不審な声が響いてきた。それでも、今度こそ間違いないと安心してから言葉を返す。

「よかったぁ、金待君で。声がするまでドキドキしちゃいました」

 穂乃果は自分でも驚くほど、落ち着いて返答をしていた。


『すみません、ご飯時に電話して……お忙しいところ』

 一方、向こうの方はそうでもなく、かなり慌てているようだった。多分、彼自身も自分がおかしなことを言っているのが分かっているだろう。そして、お互いに慣れない会話を交わしながらも頑張っていたがその途中、無理な会話の沈黙に耐えかねたのか、新の方から。


『今日、会えませんか!』


 いきなりであった。耳が割けそうになるほどの大きな声が飛び出してきた。

(今日!? 確かに、予定はないけど……でも、いきなりなんて。いや、会いたくないわけじゃないけど……)

 不安が無いと言えば嘘になる。また失敗をしてしまうんじゃないか。迷惑を掛けたらどうしようか。断る言い訳ばかりが頭をよぎる中、祖母の言葉を思い出す。


『誰かに厄介を掛けたら、その分他人の厄介を背負ってあげなさい』

 そうだ。


『そうやって、人はお互いの事を知っていくの』

 わたしは、この人の事を知りたい……。


「うん、いいですよ。何時にしますか?」

 たった一言。勇気を振り絞ってだした言葉が、穂乃果の胸を高鳴らせる。

『はい! よろしくお願いします!』

 結局、十五時半に待ち合わせをすることになった。この勇気を出した選択は、間違いじゃないと思う。


「なんか、不思議な気分」

 現実ではない夢の世界でなければ、こんな事はしなかっただろう。どこまでもリアルだけれど、所詮は泡沫の夢。その事実が、穂乃果に少し大胆な行動を取らせた。

(きっと、この世界は自分が思ってるよりも、優しい世界なんだ)

 ただ記憶にある夢に縋って過ごそうとしていた、過去の自分はもういない。

「いってきます!」

 今を生きる為に、助走をつけよう。




 待ち合わせ場所に指定した駅に着くと、心の準備をする為に少し早く来たつもりだったのだが、新は既にそこで待っていた。

「こんにちは。待たせちゃったかな?」

 一呼吸おいてから声を掛ける。何はともあれ、こうして再び会うことが出来たのは、やっぱり嬉しかった。

「改めまして、立花穂乃果です」

 ちゃんとした互いの自己紹介を済ませると、カバンを忘れたという新に対し、やけに人間味が溢れているなと親しみを覚えながら、特にあてもなく散歩をすることとなった。


(でも、制服って懐かしいなぁ。そういえば、よく学校帰りにみんなで寄り道もしたっけ)

「そっかぁ。うん、若いっていいよね」

 穂乃果は、現実での事を思い浮かべていて、つい口を滑らせてしまった。慌てて取り繕った言葉は、自分が大学生であるという嘘であった。それこそ、高校を卒業してから会っていた友人との会話を思い出しながら、適当に言葉を並べたものであった。      一時はどうなる事かと思ったが、これといった問題はなく隣を歩く新の方も少しずつ緊張が無くなっているように感じられた。


 それからは、当たり障りのない会話。当然、現実の話を持ち出すわけにはいかないので昔の事を思い出しながらになってしまったが、その度に懐かしい気分にもなれた。まるで、高校生の頃の友人と話しているようだった。そして歩き疲れた二人は、幼稚園児に向けて劇を披露していたあの時の公園のベンチに腰を掛ける。

「夕日ってさ、なんか良いよね」

 気が付けば、日が落ち始める時間になっていた。知っているはずなのに知らない場所、出会う事は無かったのに出会った人。色々な偶然が混ざり合って、いつもの景色を新鮮なものにしてくれている。それを実感して、穂乃果の口からふとそんな言葉が出てきた。

 特に意味はない言葉だったのに、何故か沈黙が生まれてしまった。


(あれ? もしかして、変なこと言っちゃったかな……)

 自己嫌悪で頭が真っ白になっていると、

「そういえば……穂乃果さん。昨日、何があったの?」

 沈黙を破って、新が気まずそうに質問をしてきた。


(そうだよね、あれだけ心配してくれたんだもん……気になって当然だよね)

 忘れていたわけではないが新は、自分が自殺してしまうのではないかと心配して、わざわざ追いかけてきてくれたのだ。もしかしたら、人工知能がそのようにプログラミングされているだけかもしれなかったが、その必死さが自分を救ってくれたのは間違いない。だとしたら、正直に答えなくてはいけないだろう。


「『きのう見た雲と、同じ雲には出会えません。今、この時だけのおくりものです』だっけ?」


 空を指差し、あの時の台詞を思い出す。もしかしたら、これはルール違反かもしれないと思ったが、穂乃果は言葉を続ける。

「わたしの大好きだったおばあちゃんがね、急に亡くなっちゃったの……もう全部が嫌になって逃げだして、気が付いたらここにいた……そしたらね、キミたちがお芝居をやってて、この言葉を聴いて思ったの」

 自分でも分かるくらいに声が震えている。こんな話をしたって何の意味もない。余計な心配を掛けるだけだし、迷惑に決まっている。それでも、涙を堪えて話し続ける。


「あぁ、わたしは今を生きていないんだ。って……」

 悲しいわけじゃないのに、堪えていたはずの涙が流れてきてしまった。こんなにも、誰かに自分の事を話すのが難しいとは思っていなかった。言葉に出来ない感情が渦を巻いて、喉を詰まらせる。

「……ごめん」

 しばしの沈黙の後、新の方から出てきたのは謝罪の言葉だった。

「ううん。キミが謝ることじゃないから……」

 穂乃果は、もう大丈夫だと思っていた自分の心が情けなく思い、もうこの場にはいられない、と感じてしまい、

「……今日は、ありがとね」

 そして、また逃げ出してしまった。新は、最後に何か言いたげな様子だったが、足早にその場を後にした。


(わたしは、やっぱり嫌な人間だ……)

 逃げるのに慣れてしまった自分が憎い。たとえ過去に戻っても、祖母に今を生きると誓っても、未だに中身は変わっていない。穂乃果自身、簡単に変われるわけがないのは分かっていたけれど、いざこうしてみるとやはり堪えてしまう。

 自分を恨みながら帰路に就き、日が沈み辺りが暗くなってきた頃、重い足取りで家に着き、疲れきってしまった頭と体でそのまま眠ってしまった。そして夜の十二時を越えてから目を覚まし、祖母の仏壇の前で今日の出来事を反省し始めた。


「どうしたらいいかな、わたし……迷惑だって思ったよね、きっと」

 少し落ち着きを取り戻し、改めて先程の出来事を振り返る。何度考えてみても、落ち度は自分にあると穂乃果は考えていた。

「年下の男の子に、あんな態度を取っちゃってさ……」

 気を紛らわせようと、祖母と一緒に作りかけていた裁縫に手を付けながら反省を続ける。

「でもね……会わなければよかった! とは思わないの、なんでだろうね」

 自嘲気味に笑いながら、今までになかった心の変化を感じていた。諦めたくないと思うのは穂乃果にとって、初めての気持ちだった。どうすればいいのかは分からないが、ただもう一度会いたい。そう願っていた。


「もし……もう一度会えるなら、今度は笑っていられるように頑張ってみるね」

 小さいけれど精一杯の決意を改めて祖母に約束し、整理を付けようとしていた時、携帯電話が鳴り響いた。そこには確かに、金待新の名前が表示されていた。

(いきなり、しかも向こうから来ちゃった……)

 穂乃果は心の準備は出来ていなかったが、せめて謝るだけでもと、

「もしもし……」

 聞こえているかどうかも怪しいような小さい声で応える。


『あの……さっきは変なこと聴いてごめん! お詫び、っていうのも変だけど、一緒に絵本を作りませんか?』


 思考が止まった。聞き間違いか、それとも幻聴か。いずれにしても、何を言っているのか分からなかったし、何と返していいのかも分からない。

(と、とりあえず。さっきの事は謝っておこう。うん、それがいいよね)


 結局、その言葉には触れずに目的を果たそうと、会話を切り出す言葉を探していると、

『いっしょに! えほん! つくりませんか!』

 またもや新の方から、今度は聞き間違えようもないような大声ではっきりとそう言ってきた。

(……そうだ。簡単な事なんだ)

 フフッ。と小さく笑い声が漏れてしまう。今に至るまで悩んでいた、自分が迷惑を掛けてしまう事への恐怖、どうすれば分かり合えるのかという疑問。それらを抱えていた気持ちが軽くなると同時に、電話の向こうにいる新が少し頼もしく感じる。


(思ってる事を、正直に口に出しちゃえばいいんだ!)


「なにそれ。でも、面白そう!」

 きっと、それは本心からの言葉だった。自分が役に立つかどうかは分からない。何も出来ずに、邪魔になってしまうかもしれない。しかし、穂乃果は今を生きるという約束を果たすために、自分の正直な心と変わっていくチャンスをくれた新という存在を信じようと思った。


(だから……わたしはもう迷わない。真っ直ぐ向かい合うって決めたから!)

『明日、海に行こう!』

 そして、誰にも知られる事の無い、二人だけの物語が始まるのだった。

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