四章 3

 何もない部屋でどれだけの時間を過ごしていたのか、時間の感覚も失い始めた頃。どれだけもがいても、決して抗う事の出来ない恐怖から逃げるようにして外を歩き出した。だが、変わらず音は遠く、やるせない感情を抱えながら行くあてもないままに、穂乃果はさ迷い続けた。見知らぬ土地を歩いたその先で辿り着いたのは、どこにでもあるような普通の公園だった。

 何も考えずに疲れた体をベンチに預け、辺りを見渡してみると、普通に公園を利用する人達以外にも、不思議な光景が一つ。幼稚園児たちに囲まれ、紙芝居でも始めようかとしている二人の男子高校生らしき姿があった。


(そうだ。今の自分も、高校生なんだっけ……)

 穂乃果は、自分の惨めさが余計に際立つような気がして一度目を背けた。雑念に飲み込まれてしまわないように、漠然と空を眺める。だが、それでも何故か妙に気になってしまい、ふと目をやると更に不可思議な光景がそこには広がっていた。

――紙芝居と演劇。

 思わずひきつけられてしまったその舞台は、手作りであろう紙芝居と一人で台詞を話す役者で成り立っていた。子どもたちも同じようにひきつけられているのだろうか、役者の演技に喜ぶ顔が見られる。その時、微かにだがはっきりと声が聴こえた。

「……誰の声?」

 穂乃果は、自分の耳を疑ってしまった。聞こえない、聞こえるはずがないと思っていた今この瞬間、確かに人の声が耳に届いていた。


「……こわがる……を持って……れたようでした。」


(うん。聞き間違いなんかじゃない……あの人たちだ)

 注意深く耳を傾けてみると、声の主がはっきりとしてきた。どうして急に声が聞こえてきたのかは分からなかったが、何でもいい、これ以上何も失いたくないという気持ちが穂乃果を突き動かし、気が付いた時には彼らの舞台に引き込まれていた。その中でも、特にはっきりと聴こえる声は、なぜか役者の人の演技ではなく、もう一人のナレーションをしている少年の声だった。


「きのう見た雲と、同じ雲には出会えません」

 声だけに集中していたはずなのに、物語の言葉が胸に刺さって苦しい。


「今、この時だけのおくりものです」

(……! あぁ、そっか……わたしは、現実の自分には何も無いって思い込んで、辛い現実から逃げ出して、ありもしない過去の世界で誰かに助けを求めてた。でも、それじゃ駄目なんだ……今を、生きてないんだ……!)


 少年の台詞をきっかけに、穂乃果は押し殺していた感情が溢れ出して涙が流れた。その恥ずかしい姿を誰にも見せられないと思い、逃げるように誰もいない場所を探して走り出した。

(今、この時だけ……)

 声のしない所へ逃げてきたはずなのに、さっきの言葉が何度もリフレインして穂乃果の頭の中に響き続ける。知らないままでいれば何事も無かったかもしれないのに、気付かされてしまった。現実から逃げてこの世界に来てまで、自分が本当にしなければならなかった事を。



「あの……大丈夫ですか?」

 地べたでうずくまりながらしばらく一人で考え込み、延々と続きそうだった自問自答のループを終わらせたのは、その声だった。穂乃果は、声を掛けられた事よりも、声がはっきりと聞こえるという事に驚いて顔を上げると、そこには先程の舞台で見かけた少年がいた。

「いや! 怪しいものじゃなくてですね、えっと……」

 言葉に詰まって顔を赤くしながら話をする少年を見て、自分がどういう状況にあるのかを思い出し、急に恥ずかしくなってしまい呼び止める声に応える事もせずに、急いでその場を立ち去った。


(何やってるんだろ、わたし……)

 ほどなくして、穂乃果が走り疲れた足を止めたのは、隣り合った二つの町と町の間を流れている細い川に掛けられた、小さな橋だった。夕暮れ時だからだろうか、人は少なく静けさが漂っていた。

「わたし、音が聞こえてる?」

 口に出して呟いたその声も、今の穂乃果にはしっかりと聞き取る事が出来た。ぼんやりと川を見つめれば、川のせせらぐ音でさえもよく聞こえる。しかし、音が聞こえるという事に安堵しながらも、未だに不安だけは残っていた。

 これから、自分が何をしなければならないのか。もしかしたら、現実に戻った時また音が聞こえなくなってしまうかもしれない。そういった誰にも相談出来ない問題が重く伸し掛かり、その場を離れられない。考え事をしながら川の流れを眺め続けていると、穂乃果に向けて必死に駆け寄る者がいた。


「じ、自殺だなんて、考えてないですよね!?」

 息を切らしながら、突拍子もないことを言い出すさっきの少年の姿がそこにはあった。こちらの様子を伺う前に、慌てふためきながら話し続ける。

「いえ、自殺をするなということじゃなくてですね。えっと、何て言うか……」

 穂乃果には、一生懸命な言葉で何かを伝えようとしている少年の姿が何故か眩しく見えていた。そして、盛大な勘違いに気が付いておらず、少し抜けているその様子が面白くなり、いつの間にか今まで感じていた不安は軽くなっていた。


「大丈夫ですよ。ただ……考え事をしていただけですから」

 ここが現実じゃないと分かっているからなのか、いつもよりも自然に言葉が出てきた。

「え? そうなんですか……って、すごい恥ずかしい奴ですね、オレ……」

 頭を抱えながら赤面している少年がそう言うと、

(わたしは、こんなにも誰かの為に真剣になったことがあるかな……)

 穂乃果は、昔の事を思い浮かべて自分には無い、その純粋で真っ直ぐな生き方をしている少年が羨ましく思えた。わざわざこんな所まで、それも見ず知らずの他人を探して、息を切らしながら追いかけられる人間などそうそう居るものではない。先程、眩しく見えたのもそういう理由があったのだろう。


「さっきの演劇、すごくよかったです」

 だからだろう、今は真っ直ぐな気持ちで自分に素直になって、穂乃果はそのような事が言えてしまった。

「あ、ありがとうございます……!」

 照れながらも賛辞の言葉を受け取った少年は、本当に嬉しそうだった。

「実は、あの演劇――」



 それからは、少年とその友達の話をしばらく聞いていた。まだ高校生なのに、夢を叶える為に頑張っていて、喧嘩もしたけれど結果として上手くやれて良かったと、出会ったばかりの他人である自分に、隠す事をせずにすべてを語ってくれた。穂乃果は、このままずっと話を聞いていられると思っていたが、それは一本の電話に遮られる事となった。

「……ごめんなさい! オレ、戻らないといけなくて」

「いえ、こちらこそ引き留めてごめんなさい。だから、早く戻ってあげてください。友達が待っているんでしょう」

 名残惜しくはあったが、少しだけでも前向きな気持ちになれた事に感謝をして、少年を見送る事にした。

「あっ! 金待です! オレ、金待新って言います」

 しかしわずかな沈黙の後、少年が思い出したかのように自己紹介をしたと思えば、

「あの、迷惑じゃなければ、携帯の番号とか教えてもらっても……」

 次に出てきたのは、またもや突拍子もない言葉だった。慣れていないのであろうか、振り絞るように言い切ったその言葉に、もう少し話を聞いてみたい、そう思っていた穂乃果は嬉しくなって、

「わたし、立花穂乃果」

 自分もその気持ちに応えようと、嘘偽りのない精一杯の笑顔で告げる。

「えっと、番号は――」



 その日の夜、穂乃果は居間に設けられた祖母の仏壇の前に座っていた。

「あのね、おばあちゃん。今日、不思議な事があったの」

 公園での演劇を観た事、自分を追いかけてきてくれた少年の事。昨日までの自分とは違う、落ち着いた心持ちで話をしていたその途中、涙が頬を伝った。

「……それでね。わたし、分かったの」

 現実でも過去の世界であるこの場所でも、祖母はもういない。穂乃果は、これ以上知らないフリをして、自分が傷つかないように逃げる事はしないと誓っていた。あの時、少年が気付かせてくれた『今を生きる』という言葉の意味を受け入れ、話を続ける。


「ごめんね、おばあちゃん……ちゃんと、お別れを言えてなくて。認めたくなかったんだと思うの。ずっと、悲しくないフリしてた。それで……大人になった今でも、昔みたいにおばあちゃんだけは優しくしてくれる。そう思い込んでて、夢みたいな話でここに来た時は安心して甘えてばっかりだったし、それでも良いと思ってたんだ……でも、それは間違いだったみたい。ちゃんと、おばあちゃんとお別れしなきゃいけないから。今、初めてホントの事を話すね……」


 それから穂乃果は、現実での事も包み隠さず語り続けた。そして、涙声になりながら余す所なく思いの丈をぶつけて、最後の思い出を語る頃には日が昇り外は明るくなり始めていた。

「わたし、今を生きるから……見ててね、おばあちゃん」

 この世界に来た意味を見つけ出し、これからを生きていく事を誓い、現実では伝えられていなかった言葉を大好きな祖母へと送る。

「さよなら……!」

 これ以上心配は必要ないと伝える為に、最高の笑顔を向けながら最後にそう言い残して、穂乃果はようやく眠りに就いた。

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