四章 2

 翌日からは、夏休みに里帰りをした際の小学生のように過ごしていた。朝はいつもより少し遅めの起床をして、朝食の匂いにワクワクしながら食卓に付き、祖母と一緒に暖かいご飯を食べる。

「そういえばさ、おばあちゃん。急にわたしが来て、迷惑じゃなかった?」

「そんなわけないでしょ。穂乃果ちゃんが来てくれて、むしろ嬉しいくらいなんだから」

 穂乃果は、朝食の席で気になっていた事を聞いてみたが、それも杞憂に終わる。自分はここにいても良いという事を改めて確認し、祖母に微笑みを向けながら食事を続けた。そして、ご飯を食べ終わると家事の手伝いを申し出て、日中は祖母の側をついて離れようとしなかった。


「穂乃果ちゃん、そういえばこっち来てる事は、誰かに言ってあるの?」

「うん。家には、ちゃんと伝えてあるよ」

 洗い物をしている時、ふと思い出したかのように尋ねられた。一応、書置きは残しておいたし、その後は特に連絡も無かったので大丈夫だろうと思っていたが、穂乃果は一つ重要な事を思い出した。

(そうだ! 今のわたしって高校生なんだっけ……?)

 ここに至るまで一切意識をしていなかったが、高校生である今は、当然学校というものがある。穂乃果は、持ってきてから一度も開くことをしていなかった携帯電話を慌てて確認すると、


『ほのかー、学校来ないの?』


 高校の友人から、メールが届いていた。

「一応、心配してくれてたんだ……」

 穂乃果は、ほくそ笑みながらその短いメールを何度も読み返してから返信をした。


『ごめん! しばらく休むね』

『え? 何かあったの?』

『うん。ちょっと、就職先の会社に行く事になっちゃって……多分、来月には戻れるから。受験勉強、頑張ってね!』


 それでも心配を掛けないようにと、大人になって唯一上手くなってしまった嘘を吐く。それに今は、この世界では学校の事など気にしないように、ただ何もない日々を過ごしたかったので、携帯電話をカバンの中にしまい込んだ。


「穂乃果ちゃん。前みたいにお裁縫、やってみる?」

「うん!」

 夕方、祖母の提案で懐かしの裁縫をする事になった。

「懐かしい。昔はよく一緒にやってたもんね」

「昔って、まだ一年くらい前。そんなに昔の事でもないじゃないの。もしかして、私みたいにボケ始めちゃったの?」

「え……あ、そうだったっけ? いや……ほら、待たぬ月日は経ちやすいって言うから!」

 何も考えずに手を動かしていたら、意図せずに現実での事を口走ってしまった。一瞬、穂乃果は焦ってしまったが、祖母は全く気にしていなかった。 

「いつの間にか、裁縫うまくなったね。穂乃果ちゃん」

「うん。しばらく触ってなかったけど、手先は器用になったみたいだから」

「そう……」


 時折、自分を思ってくれている祖母の言葉に本当の事を話してしまいそうになるが、細心の注意を払いながら会話をしていた。

「そしたら、かるたも強くなったんじゃない?」

「かるた? ああ、百人一首もよくおばあちゃんと一緒にやったよね! でも、まだおばあちゃんには勝てないと思う」

 祖母は、大人になった自分が忘れてしまっているような事まで覚えていてくれた。そんな昔の話をしていると、過去の自分を取り戻していくように感じられる。一つずつ、ゆっくりではあったが、糸で縫い合わせるように心を繋いでいった。



 この世界に来てから、幾許かの日が経とうとしていたある日の夕食。

「穂乃果ちゃんは、将来何かやりたいことはあるの?」

 祖母に唐突にそんなことを聞かれ、穂乃果の脳裏には現実世界での自分の姿が思い浮かんだ。高校を卒業して働き始め、ただ黙々と仕事をこなすだけの人間。挙句の果てに体を壊し、仕事が出来なくなった情けない姿。

 それしか知らなかったから、誰も生き方を教えてはくれない、というのは所詮言い訳にすぎず、結局はすべて自分で選んだ道だった。


「うーん……まだ、分かんない。わたしには、何も出来なそうだから……」

 現実を知っているが故の泣き言を言ってしまいそうになるのを抑え、穂乃果はせめてもの返事をした。

「あら。でも、ちっちゃい時はいっぱいやりたい事があるって言ってたのよ? お花屋さんに八百屋さん、ケーキ屋さんにお医者さんとか。あとは、幼稚園の先生とかだっけ?」

 祖母がしみじみと思い出しながら、からかうような笑顔で話してくれた。正直、穂乃果自身その夢とやらの事も、全く覚えが無かった。それこそ、弟が産まれて自分が小学生に上がり、両親が弟に掛かりきりになってしまうよりも前の事だろう。子供の頃は、目に映るものだったり、自分の好きなものは何であっても、素敵なものに見えていたに違いない。


「もう、恥ずかしいよ。そんなの子どもの時にちょっと思った、ってだけだから」

「そう? それでも、何かあった方が無いよりはよっぽどいいじゃないの」

「……じゃあ、おばあちゃんは何かやりたいことってある?」

 そう尋ねると、祖母は食事の手を止めて小さく笑みを浮かべながら語ってくれた。


「そうね……昔は、穂乃果ちゃんみたいにやりたい事がいっぱいあったわ。でもいつの間にか成人して、叶えられないような歳になって……だから、諦めようと思ったわ。そんな時、おじいちゃんに会ったの。あの人はまっすぐな人でね、同じように夢がいっぱいあったの。どんな事でも、たとえ小さい事でも絶対に叶えようとしてた。今思えば、一緒におままごとみたいな下らない事もしたけどね。それでも、幸せだったわ……結局、最後の夢だったおじいちゃんになって孫と遊ぶんだ。っていうのだけは叶わなかったけどね」


(そういえばこの話、前にも聞いたことがあったような……その時は、きっと何も思ってなかった気がする。でも、今は違う。自分のやりたいことをやる、それがどれだけ難しい事なのかを知ってしまったから、おばあちゃん達は凄い人だ……わたしとは、違う)


「だからね、穂乃果ちゃん」

 穂乃果は急に名前を呼ばれ、即座に考え事を止めて言葉に耳を傾ける。

「もし、やりたいことがあったら迷わず踏み出してみて。一人じゃ駄目でも……きっと、気付いてないだけで、一緒に夢を叶えてくれる人がいるかもしれないから」

「……そんなの、分かんないよ。わたしは、誰かの邪魔にはなりたくない」

 祖母に心配は掛けたくないのに、現実での不安が頭をよぎってしまう。

「大丈夫……誰かに厄介を掛けたと思ったなら、その分他人の厄介を背負ってあげなさい。そうやって、人はお互いの事を知っていくの。そしたらいつか、心を許せる時が来るから」


 今まで、誰にも迷惑を掛けないように生きてきた。穂乃果にとって、それが正しいと思っていたから。だがそうしている内に、何時しか人との関わりを失くしてしまっていた。その事に気付かず、勝手に周りが無視していると決めつけて、家族も、仕事も、友達も、失くしたつもりなっていたのだ。そして心を閉ざし、一番大事だった祖母との思い出も同じように忘れてしまった。


「わたしは……嫌な人間だね……」

「そんなことない。穂乃果ちゃんは優しい子よ。自分では、気付いてないかもしれないけどね」

 穂乃果は、その言葉に実感が湧いていなかった。でも、これから少しずつ分かっていけるような人になりたいと、そう思っていた。

「さ、今日はもう寝ましょうか」

 食事を終え、いつものように就寝の準備をする。借りている部屋は実家の自分の部屋よりも小さく、娯楽などもなかったが、他では得られないものがここにはあった。穂乃果がその事に気付くのは、もう少し先になるだろう。

「おやすみ。おばあちゃん」

 明日はどんな事を話そうか、どこかに出掛けるのもいいかもしれない。わがままを少しは言ってみようかな。などと考えながら布団に入り、穂乃果はいつの間にか眠ってしまっていた。




 その夜、穂乃果は久し振りに夢を見た。だが、決して楽しい夢ではなく、悪夢と呼ぶべきものだろう。夢の光景は会社で仕事をしている最中、飛び込むように電話が届く所から始まった。


『立花穂乃果さんですか? 川原麻子さんのお孫さんですよね?』

『実は先程、自宅で亡くなっているとの連絡がありまして……』


 現実で起きた光景、それも最近の出来事。仕事に疲れていた穂乃果は、その言葉を聞いた際に、初めは意味が分からなかったが、話の途中で自分の祖母だという事をようやく理解して心の中では戸惑いを見せていたが、すぐに何事もなかったかのように業務へと戻っていた。葬儀の最中も涙を流す両親や弟の姿が見かけたが、声は掛けずに唯々目の前で進められていく葬式の進行に身を任せた。その帰り際にて、

「……穂乃果……」

 心配そうな顔でこちらに声を掛ける両親がいたが、穂乃果はその言葉が聞こえていないフリをしてその場を立ち去った。自分自身でも忘れていたその事実、いやもしかしたら願望が生み出した捏造の記憶かもしれない。しかしその場面では、確かに心配をしているのに何と声を掛けるべきかを見失った家族の姿が穂乃果を見送っていた。




「……ハァ、ハァ……夢?」

 嫌な記憶に、思わず飛び起きてしまった。辺りはまだ暗く、日の光が差し込んでいないような時間だった。夢と呼ぶべきか、現実と呼ぶべきか、不思議な感覚に襲われてしまい、冷や汗にまみれた顔をシャツで拭ってから、気持ちを落ち着かせようと立ち上がり、台所に向かった。


(まさか、ね……)

 水を喉に通し、焦る心を抑えながら、そっと祖母の寝室に歩き出す。


(だって、そんなはずない。わたしは知ってる。まだ、先のことだって……)

 寝室の扉を開けると、眠っている祖母の姿が見えた。


(ほら、大丈夫。ただ眠ってるだけ…………本当に……?)

 震えが止まらない手で布団をめくり、顔を覗き込む。

「……ッ!?」

 知っている。これは、あの時見た顔。直視はできなかったが、確かに覚えている。安らかに眠っているようなのに、冷たく、重い、静寂な顔。


「おばあちゃん? ねぇ、わたしの声、聞こえる……?」

 返事はない。それから、何度も呼びかけた。もしかしたら、まだ寝ているだけかもしれない。声が聞こえていないだけかもしれない。淡い期待が、叫び続けるのを止めようとしなかった。しかし、祖母の顔に手を当てると、確かな手触りと不確かな冷たい感覚が真実を告げていた。

「こんなの……嘘、だ……」



 それから先の事は、よく覚えていなかった。穂乃果は、現実の時と同じくして葬儀を正面から受け止められず、気が付けば終わりを迎えていた。その際、両親が家に戻るようにと声を掛けていたが、何も答えることが出来ず、祖母の家に残る事にした。

「落ち着いたら、帰ってきなさい」

 最後にそう言っていたが、今更になって実家に戻る場所などあるはずがない。帰る場所が無いから、この場所に来たのだ。


「……わたしが、おばあちゃんの所に来ちゃったから……?」

 穂乃果は、現実との違いに激しく動揺した。その死を受け止められず、意味も無く自分自身を責め続けた。そして、一体何の為に過去へと戻ってきたのかも分からなくなっていった。

「もう、嫌だよ。おばあちゃん……」

 一人残った祖母の家で膝を抱え、涙も流せず悲嘆に暮れる。こんな事になるのなら、過去になど戻らなければよかった。だが、そんな後悔ももう遅い。一緒にいてくれるはずの人はついにいなくなってしまったのだから。そして、自分を襲う違和感に気が付いてしまった。日が落ちて暗くなったからだと思っていたが、身の周りの音がやけに遠いのだ。


(――嘘だ!)

 恐怖に押しつぶされそうになりながらも、何かに縋るように外へと飛び出す。いつも以上に音のない世界が、より一層の焦りを生む。

(――嘘だ、嘘だ!)

 木々の葉、道路を走る車、動物。それらは目の前には存在し、この世界に来た時には確かに聞こえたはずの音が、今は聞こえない。


「これ以上……わたしは、何を失えばいいの?」

 小さく呟いた声は、聞こえていなくとも自分の中でこだました。現実世界と同じ事の繰り返しは、再び音の無い世界の再来を告げているようだった。ついには何が夢で、何が現実かそれさえも穂乃果には分からなくなり始めていた。


(何で、わたしだけがこんなに辛いの? 自分は何がしたいの? 一体、何が悪かったの? それに結局、過去に戻って来たって何も良い事なんて無かったんだ。どうして……)

 一人きりの世界の中で、聞きたくなくても聞こえてしまう自分の声だけが、穂乃果を負の連鎖へと取り込んでいった。

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