四章 1

 当たり前のように、毎日を生きてきたつもりだった。皆がそうしているから。右へ倣えと言われたら、右を見て倣う。その繰り返しをしてきただけ。それなのに、皆が同じように報われるわけじゃない。右へ倣えで生きてきた自分には、何がダメなのかも分からない。だから、今更になって自分さえ変えることも出来ない人間には、ただ変わらない日常が待っているだけだった。


 今の仕事が嫌いなわけではない、むしろ大学も出ていない自分なんかを雇ってくれて感謝をしている。だから、周囲の人間に何を言われても覚悟の上だった。でも実際は、どんな形であれ、私に関わってこようとする人は一人として居なかった。上司、同僚、後輩。気を遣ってくれているつもりなのだろうが、仕事の話をする際にも余所余所しかった。当然、他の同期と違って昇進など望めるはずもなかったので、言われた事を言われるがままこなす非生産的な毎日を送る。

 それが、私――立花穂乃果の日常。



「……お疲れさまでした」

 今日の業務を終え、帰り際に挨拶をしても、あぁ。と、気の抜けた返事が返ってくるだけだった。だけど、そんな風に周りの人間から無視されることにも慣れてしまった。

 高校を卒業するまでは実家で暮らしていたが、両親は優秀な弟ばかりを気に掛けていた。だから私は、せめて弟の邪魔にならないように、怒られるようなことも、褒められるようなこともしないように心掛けてきた。そして、大学には行かずに就職する道を選び、家族から逃げる為に一人暮らしを始めることにした。両親は心配するような様子など見せなかったが、唯一祖母だけは私の事を気に掛けてくれていた。それなのに、一人暮らしをしてからというもの、忙しさを理由に祖母と会うこともなくなってしまった。


『穂乃果ちゃんは強い子だけど、抱え込みすぎちゃだめよ。もし困った事があったら、いつでも会いに来なさい』


 そう言って、祖母は幼かった私をいつも励ましていてくれた。多分、今も平然と日常を過ごせているのはそんな心の支えがあったからだと思う。いや、恐らくそれも違う。祖母にさえも迷惑を掛けたくない、ただそれだけなのだろう。だから、こんな状態では尚更会うことなんて出来はしなかった。



 会社から電車を乗り継ぐこと一時間。既に閉店している暗いスーパーを横目に、街頭の小さな明かりを頼りに歩く。線路沿いにある小さなマンションの狭い一室に、やっとの思いで帰ってきた。いつものように靴を脱ぎ散らかして、郵便受けを確認することもなく部屋の明かりを点ける。

「ただいま。おばあちゃん……」

 机の上に置かれた写真に向けて、思わず声を出してしまった。けれど、その小さな呟きは一人きりの静かな部屋に響くだけだった。


 祖母が亡くなったのは、つい先週の事だった。あまりにも唐突で現実感が無く、気が付けば葬儀が終わってしまっていた。喪主をしてくれた伯父に後から聞いた話だが、あまりにも冷静な立ち振る舞いだったので、誰も声を掛けられなかったらしい。その話を聞いても、特に疑問には思わない。悲しいとさえ、感じていなかったからだ。それを裏付けるように、会社へも早めに復帰していたし、夜も眠れてしまっている。

 私は、冷たい人間だ。きっと、他人からの関心がどうでもよくなっていく内に、他人への関心も失ってしまったのだろう。



 翌朝、いつも通りの倦怠感と吐き気で目を覚ます。すぐに時計を見て、寝坊していないことを確認すると、体を起こして会社へ出勤する為の準備をする。

「……おはよう。おばあちゃん」

 いつも通りの朝のはずだったが、何かが違う。強烈な違和感は、すぐに姿を現した。玄関を出ようとドアノブに手をかけても、扉が開かない。まだ寝ぼけているのだろうかと、目をこすって扉に向き直すと、

「あれ……?」

 不意に涙が流れる。予想外の事に、自分でも驚いてしまった。祖母が亡くなった時には涙一つも流せなかった、薄情者のくせに。


 居ても立っても居られなくなり、とにかく外へ飛び出した。電車に乗れば冷静になるだろうと、走って駅まで向かう。改札を早足で駆け抜け、特急電車に乗り込んだ。いつもより人が少なかったのは、好都合だった。未だにぼやける視界を気にも留めず、周りの風景だけを頼りに歩みを進める。そうして、やっとの思いで辿り着いたのは会社ではなく、今は誰も住んでいない、亡き祖母の家であった。扉の前に行き、立ち止まって冷静さを取り戻してしまう。


――なんで、ここに来たの? おばあちゃんは、もういないのに。


 自分自身がもう限界なのだという事を悟ってしまい、崩れるようにしてその場に座り込み、人目を気にする余裕もなく声を上げて泣いた。ポケットに入っている携帯電話が震えながら鳴り響き、着信を知らせている。おかしなことに、会社からの連絡であろうその音を今は聞き取る事が出来ない。それどころか、泣き喚いている自分の声さえ――聞こえない。そして、私は糸が切れたように倒れ、異常を察して駆け寄ってきた人の音も聞こえないまま、気が付くと病院にいた。


 しかし、話をしてくれている医者の声も遠く、詳しい話はよく分からなかったが、機能性・突発性の難聴、うつ病。今更どうしようもないのに、そんな事を言われた。会社の方には連絡をしてくれたようで、一か月の休職を言い渡された。しかし、何をしていいのかも、何をしたいのかも分からない自分にとっては、唯々この先の一か月が苦痛に思えた。

 家のベッドに寝転びながら天井を眺めて過ごしたり、溜まった洗濯物を片付けたり、意味も無く私物の少ない部屋の片付けを繰り返していた。そんなある日、このまま何もしないでいるのも良くはないと思い立ち、外に出てたまたま訪れた公園で不思議な出会いを果たす事になった。



 その小さな公園では、子供たち遊ぶ声で賑わっていた。そんな声を煩わしく思う人もいるだろうが、私にとっては微かでも聞こえるその声に安心感を覚えていた。このままずっと耳が聴こえないのではないかという不安が少しでも紛れるような気がしたからだ。そういえば、最後に遊んだのはいつだっただろうか。就職をする前、高校生の頃には友人もいた。普通の高校生らしく、ショッピングモールに行って映画を見たり買い物をしたりもした。

 だけど、卒業をしてからは、友人は進学で自分は就職という道を選んだ事もあって会う回数は次第に減っていき、たまに会ったとしても、向こうの楽しい話を楽しいフリして聞いているばかりで辛い事を相談など出来ず、いつしか会う事もなくなってしまった。だから、今この状況を誰かに頼る事も出来ない。自分自身で解決するしかないのだ。


 一人でベンチに座って音の無い景色をぼんやりと眺めていた時、ふと隣に誰かが座りこちらに声を掛けてきた。ただ、私にはその声が聞こえていなかったので、初めは意図せず無視をしてしまっていた。そんな雰囲気を察してか、今度はメモ帳を取り出し、そこに文字を書いてから私の肩を叩き、何かを伝えてきた。


『過去の清算をしてみませんか?』


 メモ帳に書かれたその言葉の意味が分からず、気になって隣を見てみると、綺麗な女の人がこちらに笑顔を向けていた。すると、

『興味はありませんか? もしよければ、詳しい話をしたいのでお時間をいただけますか?』

 続けて文字を書き、また私に見せてきた。明らかに怪しい女の人の行動に、少し戸惑ってしまう。でも、言葉の響きが心を揺さぶっていた。これがたとえ詐欺であろうと、質の悪いいたずらであろうと何でもいいから誰かに助けを求めたかった。

 後日、指定された場所に呼び出され、過去の追体験を出来るという《PTBY》の話を聴くことになった。ゆっくりと、それも筆談ではあったが説明をされていくと、


1. 期間は約一か月

2. その間、現実でも同じ時間が流れる

3. 過去に戻るのではなく、記憶を頼りに追体験をするだけ

4. あくまで、実験なので過去の世界の人々に未来の話題を絶対にしてはいけない

5. 一日毎にデータを更新するので、夜間の外出は控えた方がよい


 このような概要である事が分かった。どんな過去に戻るって何をするのかは自由に選べるらしいが、私が過去に戻ってまでやりたい事など一つしかなかった。もう、この現実で自分を待ってくれる人はいない、何よりもおばあちゃんにもう一度だけ会いたい。辛い事など考える必要も無い、楽しい記憶だけの日々をもう一度送りたい。ただそれだけだった。それに、現実ではない過去の追体験という事も、かえって気が楽に思えていた。

『それでは、立花様。いつ、どんな場所での過去を体験されますか?』

 不純な動機、決して綺麗な目的じゃない。それでも私は、過去へと戻りたい。たとえそこに、意味など無いとしても。

 閉ざされていく意識の中、私の頭にはまだ生きていた頃の、最後に会ったおばあちゃんの笑った顔だけが思い浮かんでいた。待ってておばあちゃん。今、会いに行くから。




 穂乃果が目を覚ますと、そこはかつて暮らしていた実家の自分の部屋だった。体の感覚を確かめながら立ち上がり、状況を知るために机の上に置かれている携帯電話を手に取った。そこに表示された日付を見てみると、七年前の十月を間近に控えた日であった。つまり、穂乃果がまだ高校三年生だった頃という事になる。当然、一人暮らしを始める前なので家には誰かいるはずだが、家には人の気配が無く静かであった。恐らく、皆外出をしているのだろうと思い、すぐにでも家を出ようと準備を始め、手当たり次第に荷物を整えていた最中にふとある事に気が付き、窓の外を見た。

「これって、鳥の鳴き声?」

 現実では聞こえなくなってしまったはずの音が、今の穂乃果にははっきりと聞こえていた。窓を開けてもう一度耳を澄ますと、風に揺れて木々の葉がこすれる音、道路を走る車の音、遠くで工事をしている機械の音。日常に溢れている様々な音が、確かに耳に届いていた。耳が聞こえるという事が、ほんの些細な事だけれど、穂乃果にはそれだけでも嬉しかった。高鳴る気持ちを抱えながら身支度を終え、玄関へと足早に向かった。


『しばらく、おばあちゃんの所に行きます』


 心配はされないだろうが、念のためにと書置きを残してから扉を開けて、

「……いってきます」

 穂乃果自身、最後にその言葉を発したのが何年前かは覚えていない。だが、そう言わなければならない気がしていたのだ。誰もいないと分かっていても喉を震わせ、くすぐったい気分になりながら外に足を踏み出した。

 穂乃果は祖母の家へと歩きながら、目に映り込む景色に感心していた。

「すごい……あの壁の落書きもあるんだ」

 夢の中の世界だというのに、周りの景色は驚くほど当時のものと同じだった。同じ景色のはずなのに、今は憂鬱な気分ではないからだろうか、穂乃果には懐かしさを感じる余裕があった。しかし、乗るべき電車が来る駅が見えた時、ついこの間の現実で起きた出来事を思い出してしまう。


(おばあちゃんは、家にいるのかな……?)

 日常でのストレスが限界を迎え、逃げるようにして向かった祖母の家。もちろん、そこには誰もいるはずなどなく、その場で泣き崩れる事しか出来なかった。穂乃果の頭の中にはその光景がよぎっていた。

(……おばあちゃんは、私の知ってるおばあちゃんなのかな? それにもし、わたしの事が分からなくて、会いに来たのを断られたら……? ううん。そもそも、急に行ったりしたら迷惑かもしれない)

 一度悪い予感が浮かんでしまうと、次から次に嫌なイメージだけが湧いてくる。穂乃果は自分の心の弱さが情けなくなり、折角来た電車を見送って駅のホームで足を止め、ベンチに座ってしまう。ここで考え込んでいても何かが変わるわけではないと、頭でそれを分かっているつもりなのに、体は重いままだった。

 それでも、いつでも会いに来なさいと言ってくれた言葉だけを信じて電車に乗り込み、ようやく祖母の家に辿り着く事が出来た。そして、自分の心を占領する負の感情に押しつぶされそうになりながらも、縋るようにインターホンのベルを鳴らした。

(お願い……!)

 祈りが通じたのか、はい。と応じた声は、忘れるはずのない祖母の声だった。

「あの……わたし。立花、穂乃果です」

 悪い予感の一つは外れた。だが、まだ安心をしてはいけないと、穂乃果は必要以上に丁寧に話した。その言葉に返事は無く、代わりに慌てた足音が徐々に近づいてきた。


「穂乃果ちゃん! どうしたの急に!?」

「……少しだけ、ここにいてもいい、おばあちゃん?」

 祖母は勢いよく玄関の扉を開けて迎えてくれた。懐かしい声を聞くこと事が出来たのが嬉しく、穂乃果は泣きそうになるのを堪えて頼んだ。

「えぇ、もちろん! 穂乃果ちゃんなら、いつまでここにいたっていいのよ。さ、早く上がって」

「うん、ありがと……ただいま、おばあちゃん!」

「……おかえりなさい、穂乃果ちゃん」

 事情も聞かず、自分の中の記憶と同じように、祖母は優しく受け入れてくれた。その事に穂乃果はようやく安心をし、自分でも驚くほど自然に口が開き、ただいまという言葉が出てきた。

(わたし、帰ってきたんだ……もう何も心配なんか必要ない、この場所、この時間に)

 祖母の家の懐かしい廊下を歩きながら、穂乃果はこの世界に来られた事に感謝をすると、

(ここでの一か月は……昔みたいに、おばあちゃんに思いっきり甘えて過ごそう)

 そう、心に誓うのだった。

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