三章 1

 紙芝居の再演から早一日。文化祭の時と同様の興奮を思い起こしながら、新は一人で美術室にて昼食を頬張っていた。

「母さんのお弁当って、こんなに美味しかったんだ……」

 一人暮らしを始めてからというもの、誰かの作ったご飯を食べるという機会に恵まれず、自炊や外食で済ましていた新にとって、母の料理の腕が特別良いというわけでなくとも、世界に二つと無い味わい深いものに感じられていた。

(それにしても、これはどうしたものかなぁ……)

 新は、机の上に置かれた携帯電話の画面に打ち込まれた番号を見つめて溜息をつく。家に帰ってからすぐに電話をしようと思ったが、全くもって踏ん切りがつかなかった。まさか自分がこんなにもヘタレだと思いもしなかった。確かに、恋愛経験など数えるほどしか記憶に無いが、それでもただ電話をするだけという行為すらためらってしまう。何よりも、彼女に言うべき最初の一言が思いつかなかった。


「……何やってんだ、新?」

 右手に箸を、左手に携帯電話を持ったまま額を机に乗せ、弁当を食べる様子も見せず微動だにしない新を心配した竜司が声を掛けた。

「竜司……来たなら、ノックくらいしてよ」

「ここはお前の家じゃねぇんだ、ノックは必要ないだろ。それより、弁当食わんなら貰うぞ」

「……駄目、これはあげらんない」

 新は昼食を再開しながら、竜司と会話をしていた。だが、当人にとってはいつも通りの会話をしていると思っていても、返事は明らかに適当で、誰が聞いても普通の対応は出来ていなかった。

「ほんっとに、お前は分かりやすい奴だよな……当ててやるよ、昨日の子の事だろ」

「違う、ってわけじゃないけど。いや、違うと言えば違うし、違わないと言えば違わないこともないけど……」

「……マジで、大丈夫か?」

 自分の支離滅裂な言動を、訝しげに見つめる竜司の顔が印象的だった。もはや、新自身にもわけが分からなくなってきており、これは限界だと悟った竜司が助け舟を出す。


「番号、これでいいのか?」

 その手には、いつの間にか携帯電話が握られていた。一瞬、竜司の携帯電話が自分のモノとよく似ているなぁ。などと考えていたが、不敵な笑みを浮かべる竜司の顔を見て、すぐにそんなわけがないことに気が付く。

「なに、してるの……?」

 新が引きつった顔で言った時にはもう遅く、目に入った携帯電話の画面には発信中の三文字が刻まれていた。そして、無情にも呼び出し音が鳴り始めた。

「ほらよ、後はお前次第だ」

 竜司はそう言いながら、呼び出し音を鳴らし続ける携帯電話を投げつけてきた。一音一音が鼓膜を叩きつけ、緊張と不安で口から心臓が飛び出してしまいそうだった。それでも、電源ボタンを押そうとはせず、表示された名前だけを見つめながら握り締めていた。何度鳴ったかも分からないその音が止み、代わって新の耳に入ってきたのは、女の子の声だった。


『はい、立花です』


 聞き間違いではない、確かに穂乃果の声であった。少し元気が無さそうに思えたが、そんな事よりも本当に電話に出たという事実が信じられず、数秒の沈黙が流れてしまった。だが、竜司が携帯電話を指差し、早く出ろ。という言葉で、慌てて言葉を返す。

「も、もしもし。ど、どうも、昨日の、金待です」

 挙動不審になって裏返った声で変な紹介をしている新を見て、竜司は横で声を出さないように口を抑えて笑っている。


『よかったぁ、金待君で。声がするまでドキドキでしちゃいました』

「すみません、ご飯時に電話して……お忙しいところ」

『全然! ちょうど暇してたところなので、大丈夫ですよ』

 そんな自分とは対照的に、電話の向こうの声は落ち着いており、昨日に比べて明るく穏やかだった。新は、自分を情けなく思いつつもその声を聴いて少し安心した。とはいえ、それからは良い天気ですね。ご飯はもう食べましたか。など、意味も無い言葉しか出てこず、ついに会話が止まってしまい、無音の時間が数秒ほど続いてしまった。

 何を言えばいいのか分からなくなり、頭が真っ白になる。そして、思考の容量を超えた新は、もうなるようになれ。と言わんばかりに大きな声で問い掛ける。

「今日、会えませんか!」

 自分でも、どうしてこのような事を口走ってしまったのか分からない。しかし、これは紛れもない本心からの言葉であった。

(断られてもいい。嫌われてもいい。それでも、もう一度会ってみたいんだ)

 沈黙が続き、この時間が永遠のように感じられた。


『うん、いいですよ。何時にしますか?』

 だが、その沈黙と恐怖は意外にもあっさりと破られた。二つ返事で了承されてしまったのだった。今すぐにでも踊り出してしまいそうな心を抑え、冷静に言葉を繋ぐ。

「今日は十五時に学校が終わるので、十五時半に駅前でどうですか?」

『分かりました。それじゃあ、駅前で待ってますね』

「はい! よろしくお願いします!」


 元気よく返事をし、新は電話を切った。そして、小さくガッツポーズを取った。

「いやぁ、おめでとさん」

 隣にいた竜司からも、賛辞の言葉が贈られる。無理矢理だったとはいえ、きっかけを与えてくれた生涯における唯一無二の大親友に感謝を述べようとする前に、竜司が言葉を続ける。

「ところで、さっきの会話の録音あるんだけど、聴くか?」

――この男との、再びの決別は案外近いのかもしれない。



 それからというもの、午後の授業は全く頭に入ってこなかった。気が付いた時には既に最後の授業が終わっていた。

「口元、気持ち悪ぃくらい緩んでんぞ」

「そ、そんなことないから」

 終業のチャイムが鳴ったというのにも関わらず、座ったまま窓の外を見つめている新の肩を竜司が小突きながら言った。実際、かなり浮足立っている事は否定出来ない。ほとんど知らない相手であっても、やはり楽しみである事には変わりなかったからだ。

「初デート、なんだから気張りすぎんなよ。楽にいけ、楽に」

「だから、そういうんじゃないって……じゃあ、そろそろ行ってくる」

 時間を確認し、心の中で竜司に感謝をしてから新は立ち上がり、待ち合わせ場所へと向かう為に歩みを進めた。

「大丈夫か、アイツ……」

 そんな新の後姿と教室に置いて行かれたカバンを見て、竜司は心配そうに呟いた。


 軽い足取りで集合場所の駅に向かう途中、多くの人々とすれ違った。老人、若者、下校中の小学生の少年少女、老若男女問わず多種多様な人間が過ぎていく。夜勤で働くようになってからは気にもしていなかったが、当たり前のように人が居るということ、ただそれさえも今は嬉しく思えた。そうこうしている内に、いつの間にか目的の場所へと辿り着いていた。

(ちょっと、早く着きすぎちゃったかな……)

 駅の時計を確認すると、集合時間よりも十五分ほど早かった。仕方なくどこかで時間でも潰そうかと考えていた時、ようやく自分がカバンを持っていない事を思い出した。新は、何と自分は愚かなのだろうか、などと途方に暮れていたせいで、こちらに近づいてくる足音に気が付かなかった。


「こんにちは。待たせちゃったかな?」

 突然自分に向けて掛けられた声の方を振り向くと、少し照れたような笑顔を浮かべる穂乃果が居た。

「いや! 自分も、今来たところですから」

 その表情を一目見て、目を合わせることも出来ずにキョロキョロしながら答える新の動きが、穂乃果には面白く映っていたであろう。

「改めまして、立花穂乃果です。金待……新君でいいんだよね?」

「はい! あたらしいって一文字で書いて、アラタです。あの、わざわざ来てくれてありがとうございます」

 新は小さくお辞儀をした。顔を上げた時に目が合い、気恥ずかしさから二人は同時にはにかんだ。それがどうしてか余計に面白く、二人は同時に小さく声を出して笑った。そのおかげもあって、いつの間にか緊張はほぐれてきていた。


「それで……急に呼び出したのはオレなんですけど、まだ何も決めてなくて。おまけに、カバンを持ってくるのも忘れちゃって……アハハ……」

「新君、よく抜けてるって言われるでしょ。じゃあ、少し散歩でもしてみない?」

 既に警戒心を解いてくれたのか、その言葉は敬語ではなくなり、不甲斐ない自分に代わって挙げてくれた穂乃果の提案を断る理由など、何処にもなかった。そして、新と穂乃果は町の中へと歩き出していった。


 目的も決めずに人と歩く事は、とても久し振りだった。というより、最後に他人と肩を並べて歩いた記憶自体もう覚えていない。そんな事を考えながら新は、隣を歩く穂乃果の方へと視線を向けた。

 唯々、彼女の横顔を見つめるだけであって、何かを話し出そうとしても話題が見つからず、口を噤んではまた前を向いて歩く。そのような無駄な行為を数度繰り返していたら、思い出したかのように穂乃果が口を開いた。

「あ、そうそう。制服着てるってことは、キミ、高校生なんだよね?」

「そうです。一応、高校の二年生になります」

 またしても不甲斐なさを発揮する自分を恨めしく思いながらも、会話をリードしてくれた穂乃果に内心で感謝をして、新は返答した。

「そっかぁ。うん、若いっていいよね」

「立花さんも十分若く見えますけど……? ちなみに、おいくつなんですか?」

 今の自分とそうは年齢が変わらないと思っていたが、新はつい気になってデリカシーの欠片もなく尋ねた。


「え……あ、いや。わたしは、今大学生やってるんだ。それでほら、大学生ってね、若いねー。が口癖になっちゃってて……」

 そういえば、大学生当時の周りの見知らぬ学生も、皆一様に何かにつけそのような事を口走っていた気がする。当然、本心では自分もまだ若いという自覚があってこその言葉である。

 現実では、とうに大学を卒業してしまった自分としては、やはり実際は穂乃果の方が年下なのだと実感させてくれて、それが妙に微笑ましく思えた。

「そ、そんなことより! 立花さんなんて堅苦しいから、穂乃果でいいよ」

「……穂乃果、さん。でもいいですか?」


 新は照れくさそうに取り繕う穂乃果の態度が面白く、多少のぎこちなさは残れども、いつの間にか余計な事を考えずに自然な態度で話をするようになっていた。思えば、昨日は見る事の出来なかった明るい表情が嬉しかったのかもしれない。

「それで、キミの高校ってどんなところ? 学校は楽しい?」

「今は、すごく楽しいです。でも昔は……」

 会話の流れで学校の事を聞かれて普通に答えようとした時、新はうっかりと口を滑らせてしまう。この世界でのルール『現実の話をしてはいけない』という事を忘れかけていたのだ。


「……昔は、って中学生の頃の事なんですけどね! こんな高校生活をしてみたいっていうのがあるじゃないですか。それを叶えられているかと聞かれると怪しいんですけど、そうじゃなくても今は楽しいなって、そんな気がしてます」

「そっかぁ。うんうん、分かる分かる!」

 ギリギリセーフという事なのだろう。穂乃果が気に留める様子はなく、何事もなかったかのように会話が続いた。それからは、お互いの学校であった出来事、好きな食べ物、最近流行っているテレビの番組や芸能人の話など、高校生がしそうな会話を、当時の事を必死に思い出しながら、ただし記憶が曖昧な部分は適度に誤魔化しつつ二人で町を歩いて周った。


 歩いている途中、知らない建物や知らない店が目に映った。どうやら気付かぬ内に、大分遠くまで来てしまったようだ。しかし、そんな知らない場所で唯一知っている場所を、二人が同時に見つけた。昨日、新が穂乃果と出会った公園であった。歩き疲れた足を休める為、ベンチに腰掛けて一息をついた頃には既に日が落ち始め、辺りは夕焼けに染まっていた。

「夕日ってさ、なんか良いよね」

 ふとした瞬間に穂乃果が言葉を零し、それに釣られて新も空を見上げる。確かに、綺麗な夕焼け空であった。二人してぼんやりと空を仰ぎ、そこには一切の言葉が無い沈黙の時間が訪れた。いつもは白く自由気ままな形で流れる雲は夕日の光を受け、とても鮮やかな橙色になっている。

 風は全く吹いておらず、まるで雲が二人と同じように沈黙をしているように止まっていた。穂乃果の指し示す、その言葉通りの光景を表す感想を見つける事が新には出来ず言葉が詰まってしまう。だが、秋の夕暮れに染められた二人の沈黙を終わらせたのは、意外にも新の方だった。


「そういえば……穂乃果さん。昨日、何があったの?」

 新は、空を見上げながら問い掛ける。どうしてもそれを聞かずにはいられなかったのだ。昨日、この場所で見た穂乃果の目を忘れる事が出来ない。絶望に取り憑かれ、何もかもを諦めてしまった、かつての自分と同じ目を。


「『きのう見た雲と、同じ雲には出会えません。今、この時だけのおくりものです』だっけ?」


 しばしの沈黙の後、穂乃果の口から出てきたのは、聴き間違えるはずもない自分が何度も練習したあの絵本の中の言葉だった。新はその事に驚く暇もなく、続けて語られた真相に打ちひしがれることになる。

「わたしの大好きだったおばあちゃんがね、急に亡くなっちゃったの……もう全部が嫌になって逃げだして、気が付いたらここにいた……そしたらね、キミたちがお芝居をやってて、この言葉を聴いて思ったの。あぁ、わたしは今を生きていないんだ。って……」

 声が震えている。顔を見なくとも、穂乃果が泣いているのは明白だった。


「……ごめん」

 穂乃果の胸の内を思うと、ただ謝る事しか出来なかった。そして、新は竜司の言葉を思い出し、自分の浅はかさを呪った。『半端な気持ちで他人を助けたいと思うな』その言葉が深く刺さり、再び沈黙が流れた。すると、

「ううん。キミが謝ることじゃないから……今日は、ありがとね」

 穂乃果はそう言い残して、顔を見られないようにと早々にこの場を立ち去っていく。その後姿を引き留める言葉が見つからなかった。別に、軽い気持ちで助けたいと思っていたわけではない。だとしても、ここで何もしてあげられないのであれば、警告通りの半端な気持ちであった事を否定する事など出来るのだろうか。一人で公園に残った新は、日が落ちて暗くなるまでその場を動けなかった。

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