第11話 憧れ

「勇人、早くしなさい、コンクール始まっちゃうわよ」


「え〜めんどくさいから行きたくない」


「何言ってるの勇人、せっかくピアノの先生からチケットをいただいたんだから」


本所勇人10歳小学4年生。3歳から親に強制されてピアノを始めたが、全く面白くなく、辞める理由を探していた時期のことだった。


「サッカーとか野球の方が見に行きたい!かっこいいし、モテる。」


「何変なこと言ってるの」


「行きたくなーい。お姉ちゃんと2人で行けばいいじゃんか」


「ゆうちゃん。今日の演奏は特別なんだよ」


本所勇人の姉、本所沙耶が、勇人を宥めるように話した。


「五ノ神幸信君っていう勇人の一つ上の学年の男の子が出るんだよ。その子がものすごくてね。特級っている大人と同じ部門にでてて、今度は世界大会にもでることが決まってるんだよ。私の憧れなんだ〜」


「お姉ちゃんの憧れなだけじゃん。俺には関係ないじゃん」


「ゆうちゃんも見てみれば、虜になっちゃうんじゃない?」


「俺が〜?俺が他人のピアノに感動することなんてないよ」


「ゆうちゃんは相変わらず自信家だな〜、今日は我慢して一緒に行こ、今度野球かサッカー観戦一緒に行ってあげるから」


「え?本当に?そこまでいうならしょうがないな〜。今日は特別だからな」


沙耶は勇人をうまく誘導し、そして母親はコンクール会場に向かった。


———————

「これより、年齢制限なし、コンクール特級部門をはじめます」


——とても退屈な時間だ。大人達が、演奏を披露すふだけ、人を魅了するほどの演奏ではないな。日本のレベルはこれくらいか。


この頃の憎まれ口は今よりも井の中の蛙大海を知らずで酷かった。


「お姉ちゃん、つまんないからもう帰りたい」


「ゆうちゃん次が五ノ神君だよ。それまではお願い我慢して」


——五ノ神って粋がってるしょんない奴じゃないのか?小学生で大人の部門?ただの血迷った小僧やん。


「続いて、エントリーナンバー15番、五ノ神幸信、曲はベートーベン ピアノソナタ8番「悲愴」」


小学5年生の割に小さい体つきの少年が出てきた


——あいつが五ノ神幸信?絶対整列の時腰に手を当てる役のやつやん。何あいつ、自信満々の顔、ムカつく


小さき幸信は座席に座り、小さい手を鍵盤に置く。


1音目が奏でられ、その音が鼓膜や耳小骨を振動させ、知覚された時、全ての人を魅了した。


勇人も他の観客と同じように、目と耳を奪われた。


——なんだあの音は、なんだこの気迫は‥‥‥心が、強制的に音で犯される。だが、心地よい、この情景は一体なんだ、これは、あいつのイメージしてる情景が俺に流れ込んでいるのか。ピアノだけでこんなに人を魅了することができるのか。


勇人は、幸信のピアノから奏でられた音の激流に流され、流されるままに身を委ねた。正確には、激流のため流されざる終えなかった。そして、強制的な快楽が与えられた。だが、不思議と嫌ではなかった。


演奏は二楽章に入り、突然の静寂を迎えた。1音1音が、氷柱つららから落ちる雫のように、はっきりと美しく響き渡る。人々の心には、難聴になりどん底にいたベートーヴェンが微かな光を見つけそれを求めて駆け上がり、また立ち上がるような心象が浮かんできた。


——なんて美しく、切なく、繊細な演奏なんだ。


この時、勇人はもう幸信の虜になっていた。


——あ、また音の質感が変わった。まるでシルクのように滑らかな肌触り、あいつの奏でる音は、どうして、どうしてこんなに俺の心に安らぎを、癒しをもたらし、同時に心を強く揺さぶってくるのか。あー、ピアノが弾きたい、猛烈にピアノが弾きたい。


その後、幼き幸信は、複数の曲を1時間に渡って演奏しきった。


演奏が終わった時、スタンディングオーベーションが起き、勇人も無意識のうちに立ち上がり、誰よりも大きな拍手をしていた。


「お姉ちゃん、五ノ神ってすごいね、俺ピアノの練習してくる!」


勇人は、居ても立っても居られなくなり、ピアノを弾くために1人先に自宅に戻った。


——俺ももっとピアノが弾けるようになりたい、上手くなって、コンクールにも出て、五ノ神に俺の演奏を聴いてもらうんだ。そんで、褒めてもらうんだ。そして、一緒に弾きたい、絶対楽しい。


幸信の演奏を聴いたその日から、勇人は何かに取り憑かれたように、ピアノの練習を続けた。


今まで習っていた先生の教室を辞め、著名でピアノコンクールに生徒を輩出している先生に師事した。


そして、レッスン初日には、


「俺は、誰よりも上手にピアノを弾き、コンクールでも優勝し、誰よりも人を魅了するピアニストになります!」


と、高らかに宣言した。


勇人は、言葉だけではなく、実際に厳しいレッスンにも耐え抜き、みるみるうちに力をつけていき、2年後の小学6年生では、中高生が出場する階級で優勝した。


「勇人、来年からは、年齢制限なしの特級に出てみないか?」


師事していた先生から、特級への出場が認められ、ついに念願の幸信との勝負が叶うところまできた。


——やっと、幸信と同じ土俵まで来た。あいつは、今年も特級で優勝、負け知らずの向かうところ敵なし。俺が来年、あいつを倒してやる。待ってろ、幸信。


そして、中学一年生で迎えた大会、出場名簿に、五ノ神幸信の名前はなかった。

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