第7話 思い出
「確かここら辺に、っと」
幸信は、自宅の押入れにしまってあるはずの『悲愴』の楽譜を探していた。
「あれ〜おかしいな、ここら辺に閉まったと思ったんだけど、あれないな〜、おばあ!悲愴の楽譜ってどこにやったっけ」
「悲愴なら、賞状の額の中に一緒にしまってたじゃない。記念の楽譜だから一緒にしまうって」
「あー、そうだった!えっと、初めて小学生で優勝した時の賞状と一緒かな?あ、あった!」
「昔の楽譜引っ張り出してどうしたの」
「えっとね」
幸信はバツが悪そうに言葉を濁した。
おばあは訝しそうに幸信を見つめている。
「今度、ちょっと人前で弾くことになって」
「人前で弾くの?それはおじいに言ったの?」
「いや、これから言う。やっぱり駄目かな」
「おばあにとっては、とても嬉しいことよ。幸信がもう一度ピアノを心の底から楽しんでくれるならば。おじいも同じ気持ちだろうけど、遺言があるからね。おじいがなんというか」
「今からおじいに言ってみようかなとは思ってるよ」
「そうね、早めに伝えた方がいいわ」
——人前でピアノを弾く、両親に目立つなと言われたあの日から、ずっと避けてきたこと。両親の言いつけを破ることにもなるが、心の中では、『弾きたい』と叫ぶ自分がいる。
幸信はもはや自分の内なる声を無視することができずにいた。幸信はおじいの部屋の前に立った。息を飲み、修羅への道を歩むかのように全身がこわばっていた。
——やるぞ
「おじい今いい?」
「おう、幸信かどうした、入ってこい」
幸信は襖を開け、部屋の中に入った。
おじいの部屋は、おじいの趣味が詰まった部屋だ。アンティークや、昔の遺跡から出土された石版、代々伝わる宝刀など様々なものが整然と並んでいる。
おじいは、椅子に座り、クラシックをかけながら稽古用の刀を入念に拭いていた。
「どうしたんだ、稽古のことか?」
おじいは幸信の居合の師匠でもあった。両親が亡くなった日から、幸信を精神的にも肉体的にも強くするため居合の稽古を毎日つけていた。
「いや、違くて、その」
「ピアノのコンサートを開くことか?」
「どうしてそれを?」
「さっき、正樹君と神楽さんがここにきてな、事の経緯を説明してくれたんじゃよ。そして、どうか幸信にピアノを弾かせてやってほしいと懇願してきたのじゃ」
「正樹と優里がここに?自分が自主練している時か」
「それでお前はどうしたいんじゃ」
「自分は、弾きたい」
「それは、親の遺言に逆らうと言う事じゃな」
「お父さんやお母さんの遺言を破るつもりは毛頭ないけど、結果的にそうなってしまう。だけど、やっぱり自分は、人のために弾きたいんだ。誰よりも上手くなり、誰よりも多くの人を幸せな音で包み込みたいんだ。それが、自分の生きる目標なんだ」
「そうか、初めてだな、幸信が自分の意思で自分のやりたいことを言ってきたのは。しかも、親の言いつけを破ってしまうことについて、自分はこうしたいとはっきり言った。幸信の親がどんな意図で、幸信に「目立つな」と言ったかは定かではない。しかし、死者の言葉は生者を縛る権利を持たない。いいんじゃないか、自分で決めたことならば、自分で責任を負う限り、やりなさい」
「おじい、ありがとう、精一杯頑張る」
幸信は勢いよくおじいの部屋を飛び出し、グランドピアノがある部屋に入った。
長らく触っていなかったが、おばあは、いつかこうなることを見越していたように、定期的に調律師に調律を依頼していたため、すぐにでも弾ける状態であった。
「おじい、おばあ、ありがとう、よし始めようか」
幸信は悲愴の楽譜を譜面台に広げた。小学生の時夢中になって練習した時の軌跡が、そのまま楽譜に残っていた。
——懐かしい記憶、初めはお母さんやお父さんが、自分がピアノを弾くと喜んでくれるのが嬉しくて、頑張って練習したんだっけな。そしたらいつの間にか、コンクールで優勝できるぐらいになってたんだよな。それから、みんなが楽しそうに聴いてくれるのが嬉しくて、もっと上手くなるために頑張ってたっけな。
幸信は、昔を懐かしみながら譜面に向き合い、どのように弾きどのように魅せるか念入りに検討した。ベートーベンのピアノソナタ8番「悲愴」、難聴で音楽家人生を断たれそうになりどん底にいながらも、その逆境に打ち勝とうとする、そんなベートーベンが作曲したこの曲が大好きだった。
特に2楽章の天に昇るようなフレーズが、悲しみからそれを克服し、幸福の方へと登っていくようなフレーズが、幸信にとっては堪らなかった。
親を失い、親の遺言を破ってまでも現状を打破し、抗おうとする自分の姿も、この曲に重ねていて、さらに思い入れが強くなっていた。
幸信は、譜面をさらい、感情の込め方を考えながら練習に努めた。
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