第12話 凌駕
——なんで幸信先輩は、3年前に忽然とピアノ界から姿を消したのか。なぜ、ピアノを弾くことをやめたんだ。本当にピアノを捨てたのか。俺は勝負することを楽しみにしてたのに、もっと幸信先輩のピアノを聴きたかったのに。俺の夢を奪いやがって、今日の勝負は絶対負けない!最近、本郷先輩と二重奏してたのだって知ってるんだ。羨ましい。本郷先輩の立ち位置は本当は俺が立つべき場所なのに。だから、幸信先輩への仕返しとして、幸信先輩が気に入ってる本郷先輩を奪ってやる!幸信先輩、魅力されよ、俺の全技術を持ってそしてあなたを打ち砕く!
凄まじい気迫に聴衆は気圧されていた。今や日本一のピアニストが、全身全霊で音を鳴らす。1音1音が大波のように聴衆に押し寄せ、聴衆の心を大きく揺さぶる。
コンサート会場にいる誰もが、もはや本所勇人から目を逸らすことができなかった。
——クライマックスだ、ここで畳みかけ勝利を確実にする!
おーーーーーーー!
スタンディングオーベーションの大歓声がホールに響き渡った。
「勝った」
勇人はピアノの前に立ち、深々とお辞儀をし、ニヤつきながら呟いた。
「幸信、本所君すごい演奏だったわね、鳥肌立っちゃった」
舞台袖で司会進行している待機している神楽優里が、興奮気味に幸信に声をかけた。
「本当だね。コンクール優勝も頷ける。優里、本所君の演奏ってなんだか自分の演奏に似てない?」
「あ〜確かに、なんか似てるね。どっかで幸信の演奏でも聴いたのかね」
「どうだろう、まあいいか、さて、本所君より魅力的な演奏をしてきますか」
「幸信、今日は挑発的でやる気満々ね」
「優里、久々に人前で弾けるんだ。やっぱり自分は人に聴いてもらうことが好きらしい。ワクワクするんだ」
優里と幸信が話していると、演奏し終えた勇人が舞台袖に帰ってきた。
「はあ、はあ、幸信先輩、どうでしたか僕の演奏、勝ち目はないでしょ。棄権しますか?」
息が上がりながら勇人は幸信を挑発した。
「いや、なんだか久しぶりにやる気が出たわ、勇人君、きみのおかげだよ。本当は、聴衆のため本郷さんのために弾こうと思っていたけど、君のためにも弾いてあげよう。じっくり聴くといいよ」
そこには、前までの幸信はいなかった。自分で親の遺言を乗り越えることを決め、また皆の前でピアノを弾くと覚悟したことが、幸信を変えた。
「優里頼んだ」
「え?あ、それじゃあ次ね。続いて、2番五ノ神幸信、曲目はベートーヴェン、ピアノソナタ8番「悲愴」」
幸信はステージの光の中へと歩き出した。久々のステージ、多くの観客、張り詰めた空気、全てが幸信を高揚させた。
幸信はピアノの前に着くと、華麗に聴衆にお辞儀した。そして振り返り、座席に座る前に、ピアノをそっと撫でた。
——スタンウェイのピアノか、いいピアノだ。演奏会にはうってつけやな。今日は頼むよ。
そうピアノに心で話しかけた後、座席に座り、鍵盤に指を置いた。
幸信は深呼吸する。
コンサートホールは、幸信を馬鹿にするもの、見下すもの、幸信の演奏を楽しみにするものなど、玉石混交な気味の悪い空気が漂った。
——この空気感、コンクールに似てるな。優勝を狙うために、他の演者を憎み、だが尊敬もし、憧れもする。様々な感情が乱れ飛び交うあの戦場に似てる。それじゃあ、始めますか。
ポーン
幸信が1音目を弾いたその瞬間、風が吹いた。コンサートホールにいる誰もが暖かく優しい風を感じた。
——なんだ、この音色は‥‥‥
本所勇人ももれなく風を感じ、そして優しく包まれた。
幸信が起こした音の風は、聴衆を艶やかに優しく包み込み、聴衆は皆、一瞬にして幸信に魅了され、まるで赤ん坊が母の腕の中で安らかに眠るような感覚になった。それは、とてもとても心地よいものだった。
幸信は、幸信を馬鹿にしていた者も、一瞬で虜にし、一瞬にして全ての聴衆の心を手中に収めたのである。
「この俺はまだ幸信先輩に追いついていないのか。幸信先輩の音がどんどん体に流れてくる。心がピアノの音に呼応して揺さぶられる」
「今日の幸信はすごいはね。幸信はね、音色で、人の感情を自由自在に揺さぶることができるのよ。嬉しさも、イラつきも、悲しみも、おかしさも全てを自由自在に人に享受することができるの」
「そんな、そんな人間離れしたことを‥‥‥」
「だから幸信はピアノの天才なのよ。小学生の時に特級で優勝してるんだから」
優里からの説明を受けた本所は唖然とした。
本来ならば勇人にとって、この現状は悔しいはずであった。しかし、幸信の音がそれを妨げ、勇人を強制的に快楽の方へと導いた。
——久々に、みんなの前でピアノを弾いてる。昔は当たり前だと思っていたけど、やっぱりこんなに気持ちいいものだったんだ。みんなが自分の音で魅了されている。もっと気持ちよくなってくれ。
全てのフレーズがゆったりと滑らかに、まるで大河を流れる水のごとく奏でられていく。そして、1音1音に心が込められ、人々を幸せに導いていく。
時同じくして、舞台袖で幸信の演奏を聞いていた本郷も、幸信の演奏に心を奪われていた。
「幸信君って、本気でピアノを弾くとこんなに多彩で優しく、1人も残さず魅了する音を奏でるんだ。今日で、みんなが幸信君の魅力や凄さを再認識しちゃうな。嬉しい反面、少し嫉妬しちゃうわね。あっ、第二楽章に入った。私が1番好きなところだ」
本郷はポツリと呟いた。
ポタリ
本郷が呟いた時、一粒の雫が、舞台袖の床を濡らした。
「これだ、俺が昔聴いたのは、憧れたのはこの音だ、え?俺泣いてるのか?」
勇人が泣いていた。昔、自分の人生を変えた感動的な演奏にまた出会えた、その感動が心を躍動させる。
これまで散々憎まれ口を叩いてきた勇人だったが、幸信のピアノの前には無力であった。勇人の心のアラは全て洗い流されてしまった。
幸信は、聴衆全員の心を引き連れて、演奏を進めていく。
そして、幸信がピアノから手を離した。音が止んだ。
しかし、誰も動こうとしない。拍手もしようとしない。誰も演奏が終わったことに気づいていなかった。
沈黙が流れる。聴衆は皆、幸信に心を奪われ我を失い、唖然としている。
パチパチ
演奏後数秒経ち、舞台袖にいた優里が正気に戻り、拍手をし出した。
その拍手の音に、気づいた他の聴衆も我を取り戻し、拍手した。そして、特大の大歓声に変わっていった。
「え?終わったの?」
「私、今、何してたの?無意識だったわ。もっと、演奏を聴いていたかったわ」
「こんな演奏聞いたことがない」
「こんなに澄み渡った演奏、凄すぎる」
など、皆が感想を口にしながら、幸信に歓声を送った。
「こんな演奏、俺もしてみたい‥‥‥」
そして、勇人もポツリとつぶやきながら拍手した。
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