第3話 1812
土曜日、いつもならぐうたらな生活をして、飽きたらピアノを弾くという一日を送っていたが、今日の幸信はいつもと違った。
———今日の俺は一味違うぜ。
「おじい、おばあ準備ができたで〜早く行こう!!」
「はいはい、今行きますからね。おじいさんも行きますよ」
祖母である五ノ
そして、朝から幸信はハイテンションである。それもそのはず、今日は、幸信がずっと楽しみにしていたコンサート、小沢雄一による、チャイコフスキー「1812」の公演日であった。
「いや〜生きてる時にこの名曲が聴けるなんて、しかも小澤さんの指揮で」
「お〜、幸信は今日一段と張り切ってるな」
祖父である五ノ神鍛造が嬉しそうに幸信に話しかけた。
東京芸術劇場に到着すると、幸信のテンションは最高潮に達し、「先に言ってるね」と祖父母より先に座席へと向かった。
久々のコンサートホール、座席がずらっと並び、音が心地よく反響するように設置された反響板、この空間が幸信は大好きであった。
しかも今回は昔馴染みのおかげで、S席のチケットを手に入れることができており、それもさらに幸信のテンションを上昇させた。
「いや〜いや〜こんないい席で、こんないい演奏を聴けるなんてなんて幸せ者なんだろう。え〜っと、席は確かここかな?」
座席を見つけ、着席したのち、パンフレットを眺めて、演者情報を確認し始めた時‥‥‥
「幸信くん?」
横に座っていた人が話しかけてきた。
「え!?」
横を振り向くと、本郷さんが綺麗なドレスのような服を
きて座っていた。
「本郷さん、どうしてここに」
「幸代先生が小澤先生と知り合いで、チケットをいいただいたもんで、見にきたの。幸信くんは?」
「自分も、昔馴染みからチケットをいただいたから、見に来たんだ」
「結衣どうしたんだい?知り合いかい?」
本郷の奥側から、男の人がにゅっと顔を出してきた。
「あ、お父さん、こちら同じクラスの幸信くん、あれ、苗字ってなんだっけ、そういえば聞いてなかった!」
「あ、そういえばそうだね、ごめん自分も伝え忘れてた。あの、五ノ神幸信と言います。本郷さん、あ、結衣さんとは席が隣同士で、」
「五ノ神‥‥‥珍しい苗字だね、つかぬ事を聞くけど、君のお父さんとお母さんって、国の機関で働いたりしてた?」
本郷のお父さん、
「すみません、父と母は自分が小学生の頃に亡くなっていて、そのような話は聞き覚えがないです」
「お父さん、何聞いてるの」
結衣は、目を伏した幸信を見て、とっさにお父さんをたしなめた。
「幸信くん申し訳ない、配慮を欠いたことを聞いてしまった」
結衣の父親は頭を下げ、非礼を詫びた。
「いえいえ、初対面ですし、結衣さんにもこのことはまだ話してないので、お父さんには何も非はないですよ」
「いや、本当に申し訳なかった、今後とも娘と仲良くしてやってください、今日は、お互い演奏を楽しみましょう」
「おやおや、幸信、お知り合いかな?」
やっと、おばあとおじいが座席を見つけ幸信の元にやってきて、幸信が隣の席の人と親しげに話すところを見て尋ねてきた。
「あ、おばあとおじい、こちらは同じクラスの本郷結衣さんで、その隣が結衣さんのお父さんです」
「初めまして本郷結衣と申します」
結衣は勢いよく立ち上がり、おじいとおばあに向け丁寧にお辞儀した。
さらに、結衣のお父さんも立ち上がりゆっくりと会釈した。
「これはこれはご丁寧にありがとうございます。幸信の祖母の久代と申します。こちらは祖父の鍛造です。どうぞお見知り置きを」
そういうと、おじいとおばあ、結衣とお父さんは着席した。
「本郷さん、珍しい苗字ですね。文京区に本郷という地名がありますが、何かゆかりでもあるんですか?」
おじいが結衣のお父さんに向かい、笑みを浮かべながら尋ねた。
「私も詳しくは存じ上げないのですが、祖先が本郷地区の守り人をしてたらしく、その時に頂いた苗字とは聞いております」
「おー由緒正しきお家柄なんですね」
「いやいや、滅相もありません。今はもう落ちぶれた家であります」
「本郷さんは、官僚をなされているんですか?」
突然おじいが脈略のない話を切り出した。幸信は、おじいが辻褄が合わない話をすることが多々あったが、いきなり職業を聞くのは失礼だと思い、制止しようとしたところ、結衣のお父さんが勢いよく返答した。
「え!?どうしてお分かりに?」
「いや、この年まで生きていると、雰囲気でわかるものです。国のために直向きに務めてらっしゃる雰囲気がしたもので、もしやと思いまして」
「すごいですね、そうです、総務省に勤めております」
「おーー、総務省とはご立派ですね。幸信にも勉強を頑張ってもらって、あなたのように立派になって欲しいものです」
「いやいや、そんな立派な職業ではないですよ。皆さんの税金があってこそ、生活できているので、本当に皆さんには頭が上がらないです」
初対面にも関わらず、おじいと結衣のお父さんは話が盛り上がっていたが、開演を知らせるブザーが鳴り響き、話は強制的に終わりを告げた。
—————————
1812は、言葉で言い表すことができなかった。
幸信は、自分の語彙力が足りないだけなことには目を瞑り、演奏の余韻に浸っていた。
本郷とは、終演後、「じゃあまた月曜学校でね」とだけ話して別れた。
「幸信どうだった?」
おばあは、薄笑いしている幸信に向かって嬉しそうに話しかけた。
「いや〜ほんと最高だったよ。生きてるうちに実際に演奏を聞けてめっちゃ嬉しい」
「幸信、本郷さんってどんな子なんだ?」
おじいが突然本郷さんのことを聞いてきた。
「本郷さんはつい昨日転校してきた子で、お父さんの仕事の関係で静岡から文京区に引っ越してきたんだって、あの有名な中牟田幸代先生のもとでヴァイオリンの修行をしていて、将来はプロのヴァイオリニストになりたいんだって」
「そうか、そうなのか、プロの音楽家を目指しているならば、幸信とも話が合うんじゃないか?」
「そうなんだよ、本郷さんは音がわかるんだよ。それで、昼休みとかは一緒に二重奏をしたりしたんだ」
「二重奏か、それはいいな、だけど、幸信、分かっているよな、お前の親の遺言を忘れてはないよな。あまり目立つようなことはするなよ」
幸信のお父さんとお母さんがいなくなった最後の日、幸信は鮮明に覚えていた。
お父さんとお母さんは出勤する前に珍しく、幸信のところにやってきて、幸信を抱きしめ、二言だけ言って去っていったのだ。
———愛してる、どうか目立たないでくれ。
幸信には意味が分からなかった。今まで優しく、コンクールで優勝した時には、人一倍喜んでくれた両親に、急に目立たないでくれと言われた。
訳が分からなかったが、その夜、お父さんとお母さんの死体が神結神社で見つかったと報告を受け、幸信は全てに絶望したのだった。絶望し人との関わり合いを極力避け、感情を殺し生きてきた。結果、音楽とも距離を置き、1人で嗜む程度に続けてきた。目立つこともなくなり、親の最後の遺言を守るように生きてきた。
「それは、分かってるよ、だから2人でひっそりと二重奏を楽しんでるだけだから」
「そうか‥‥‥」
おじいは、言葉とは裏腹に少し悲しかった。死者の言葉に生者が縛られることを。本当は、幸信には自由に生きて欲しいと腹心に抱いていたが、おじいにもどうするのが正解か分らなかった。
「そういえば、本郷さんのお父さんとは何か話したのかい?」
「本郷さんのお父さんとは、今日初めて会って、そういえば、五ノ神って苗字を聞いた後に、お父さんとお母さんが国の機関で働いてたかって聞かれたっけ、お父さんとお母さんって医師だったんだよね。なんか知り合いかと勘違いしたみたいだったんだけど」
「そうか、確か総務省に勤めてらっしゃったよね。そんで本郷姓か、昔の噂を思い出すな」
おじいは、急に昔話を口にし始めた。
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