第一章

第1話 それはくじら?

高校2年生の春、4月下旬に転校生がやってきた。


肩甲骨くらいまで伸びたシルクのような髪、程よい肉付きのモデルのような体型をした女子だった。


「それじゃあ自己紹介を頼む。」


担任の中牟田がそう言うと、転校生は一歩前に出て、少し強ばりながらも透き通った声が、春風の如く教室を浸した。


本郷結衣ほんごうゆいです。父の仕事の関係で静岡から文京区に引っ越してきました。分からないことだらけですが、皆さんと色々お話しできると嬉しいです。」


本郷は、話し終えるとニコリと微笑んだ。


「それじゃあ、本郷の席は、窓側のあそこの席だ。幸信ゆきのぶ、本郷の面倒を見てやりなさい。」


中牟田は本郷の隣の席に座っている五ノ神幸信に本郷の世話を丸投げした。


「幸信くんだっけ?色々迷惑かけてしまうかもしれないけど、よろしくね。」


「えっ、あっ、よ、よろしく。」


———はっきりとした鼻筋と、柔らかい目、整った口


幸信は隣に座った本郷をまじまじと見つめ、綺麗な顔立ちだなと感心し、心奪われていた。そのため、咄嗟に応対することができなかった。


特に話す内容もなく、幸信は気まずい空気を感じたが、


「それじゃあ授業を始めるぞ。」


中牟田が授業の開始を告げ、幸信は、しばしば気まずさから解放された。


——————————


昼休み、本郷はクラスの女子に呼ばれ学食へと向かった。


幸信は弁当箱を広げると、黙々と食べ始めた。

すると、幸信を急に真後ろから羽交い締めにしてきた奴がいた。それは、小学校以来の親友である吉田正樹よしだまさきであった。


「このこのこの、可愛くて美人で可愛い転校生が隣の席にやってきた強運の持ち主のゆっきー、もう、彼女とは仲良くなったのかな?恋は芽生えたかな?」


「可愛いを二回言ってておかしいぞ。まだ今日は一回しか話してないし、そんな簡単に人を好きになるわけないだろ。しかも、今は恋愛に興味はない。」


「誰か〜この唐変木が何か言ってますよ〜。長い人生、恋愛の一つや二つしとかないと退屈すぎて死んじまうよ。恋愛した方が、幸信のピアノの旋律ももっと豊かになるんじゃない。」


「それはそれ、これはこれだよ。変なこと言ってないで、さっさと昼飯でも食べたらどうだ。」


「このムッツリさんめ、じゃあまた後でな〜。」


そういうと正樹は、彼女であり、かつ、幸信の幼馴染でもある神楽優里かぐらゆりと昼飯を食べるために、教室を去った。


幸信は、さっさと弁当を食べ終わり、音楽室へと向かった。これは、幸信の日課であった。


音楽室に入ると、グランドピアノの椅子に腰掛け、鍵盤に手を置き、親指でC(ド)の音を弾いた。


——ピアノは好きだ。感情が鍵盤を通して音で表現される。いつも単純明快に。演者が悲しければ、悲しい音が、嬉しければ、嬉しい音が。ピアノから放たれた音は、時には人を魅了し、時には人を感極まらせ、誰も傷つけず、人を幸せにする。


——人と関わるのは苦手だ。人の感情は複雑すぎる。嬉しそうでも、妬みが含まれていたり、怒りだと思ったら悲しみだったり、人の機微を汲み取り過ぎてしまう自分にとっては、とてもつらい。一方の幸せを叶えれば、もう1人の人は不幸になってしまうこともある。ならば、何も行動しなければ良いと思ってしまう。


「やはり音楽が一番だな。そうだ、今日はしっとりと、ショパンのノクターン2番を弾こう。」


幸信は、感情を音に乗せて、そして身体を音で満たした。心地よい時間が流れていく。この時間が幸信にとっては至福の時間であった。


弾き終わり、余韻に浸っている時、無意識にポツリと幸信から言葉が漏れた。


「恋か。」


「誰か好きな人でもいるの?」


突然、幸信の背後から声が聞こえてきた。幸信は驚き、振り返ると、本郷が音楽室の入り口にもたれかかっていた。


「ごめんなさい、驚かすつもりはなかったのよ。ただ、あまりにも美しい音色が聞こえてきたから、聞き入ってしまってたの。そしてなんだか色っぽい音だったから、照れくさかったわ」


「え、本郷さん、音がわかるの?」


えへん!と言うと本郷は音楽室の奥へと消えていった。そして、大きな箱型のケースを持って出てきた。


「ヴァイオリンかビオラ?」


「ご名答!ヴァイオリンです!学校でも練習できるように置かせてもらってるの。」


「へ〜、本郷さんってヴァイオリン弾けるんだ。」


「昔から細々と続けてるんだ、それより幸信君って何か伴奏できたりする?一緒に二重奏しない!?君の音聞いてたら弾きたくて弾きたくて堪らなくなっちゃったの。」


「いいけど、そんなに難しい曲はできないよ、じゃあ葉加瀬太郎の『エトピリカ』とかどう?」


「おー、昔の人の曲になるかと思ったら、現代の人ね。大丈夫私は弾けるよ!それじゃあ、ごめん、A(ラ)の音弾いてもらってもいい?チューニングしたいもんで」


幸信はAの音を鳴らすと、本郷は慣れた手つきで、チューニングを始めた。ただチューニングをしているだけなのに、可憐な姿に幸信は目を奪われた。


「その弓ってくじらの髭なの?」


幸信は無意識のうちに本郷に話しかけていた。幸信にとっては無意識であったが、幸信の感情には、微かな隆起があった。


「え!?くじらの髭?あ、弓の話か、どっちだと思う?」


本郷は微笑みながら聞き返してきた。


「いや、くじらの髭を使ってるって聞いたことがあって‥‥‥」


「そうなのよね、何故かくじらの髭って噂が広がってるのよね〜。でもね実際には、これは馬の尻尾の毛だよ。一応昔は、くじらの髭がこの手で持つところに使われてたらしいけど。やっぱいくじらの髭が使われていた方がインパクトがあるよね」


「なんだ、馬の尻尾の毛が使われてるんだ。ヴァイオリンって、古くて使い込まれて、倍音がしっかり響くものほど高いって聞いたんだけど、やっぱり本郷さんのヴァイオリンも高いの?」


「う〜ん、なんとも言えないんだけど、ヴァイオリンの中では全然高くはないんだけど、300万円くらいかな。やっぱり高いよね、普通の感覚だと。音楽やってると段々と狂ってきちゃうよね。」


「300万円!?それはすごいね。やっぱりちゃんとしたヴァイオリンは値段も高いね。」


「まあ、親に買ってもらったんだけど、本当にありがたいよね。だから私もより頑張らないと。はい準備オッケー。行きましょうか!」


そういうと本郷は、弓を弦の上で走らせた。衣から奏でられる音は、軽やかにそして優雅に、結透き通って純白で、辺り一帯を優しさで包んだ。


——こんなに優しい音を俺は聞いたことがない。


幸信は、本郷の音にのめり込んでいった。のめり込めばのめり込むほど、快感が幸信を包み込んだ。


——こんなに私を自由にさせてくれる音にこれまで出会ったことがない


一方、本郷は、幸信が奏でる音に全身を委ねて、幸信の音の上で、ワルツを踊るが如く、優美に舞うような心地だった。


2人の感情は、音を通して、混ざり合い、融和していった。そして、1つになった。


一つになった時、幸信は、本郷の音の中に、哀愁が隠されていることを感じた。


一つになった時、本郷は、幸信の音の中に、悲壮が隠されていることを感じた。


だが、2人は今日出会ったばかり。お互いが感じた違和感は、口に出さないでおこうと心の中にしまった。



演奏が終わると、本郷が笑顔で近づいてきた。


「すごいよ幸信君。私、こんなに弾きやすかったのって初めて。とんでもなく高い技術力を持ってるよね。コンクールとかでないの!?」


「いや、自分は、そういうのはあまり興味なくて‥‥‥」


「そうなんだ、まあ考えは人それぞれだけど、なんか勿体無いな。幸信君なら優勝とか狙えそうなのに。」


「あははは。まあ、自分は、細々と自分や身内のために弾くのが好きなんだ。それよりも本郷さんもとても上手だよね。」


「ありがとう、嬉しい、また今度伴奏してもらってもいい?私、もっと幸信君のことを知りたい。あ、そんなやましい意味じゃないよ。幸信君の音が、その、心地よくて。」


「う、うん、また機会があれば、一緒に弾こう。」


——なんだろう、この気持ちは、胸のあたりが熱い。


本郷が放った言葉により、音楽室には気まずい雰囲気が流れていた。


だが、出会った時の気まずさではなく、少し小気味いい気まずさであった。その小気味良さを幸信が楽しんでると、



「おーーーい、俺も混ぜてくれよ!!!」


と、勢いよく音楽室の扉を開ける輩がいた。


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