終章

 ユリウスは、S01シュルーケンの折れた翼とともに、無人島に打ち上げられていた。

 アーレたち整備班の努力により軽量化が図られていたシュルーケンの翼は、中が空洞になっており、しかも、急降下時の衝撃に耐えるため、合板による区切りが入れられていたのだ。そのため、中にまで海水が入らず、水に浮いたのだった。

 無意識のうちにその翼に掴まっていたユリウスは、頬を焼く光で目を覚ました。

 一度目を開いたものの、眩しすぎてもう一度閉じた。ひどい頭痛と眩暈がする。体を起こすこともままならない。

 それでも、波が足元にかかり、徐々に濡れる場所が広くなっている。潮が満ちてきているのだ。このままでは、せっかく助かったのに、また海に沈んでしまう。

 ユリウスは、ゆっくりと眼を開いた。

 しかし、そこには、海はなかった。


 ただ、ぼんやりと白い世界が広がっているだけだった。


 もう一度、眼を閉じて、砂にまみれた手をはたき、ぐいぐいと強めに眼をこすってから、眼を開いた。

 白い世界が変わることはなかった。

 覚悟していたことだった。

 ザルツハイム研究所を出て、飛行学校へ入るとき、視力はもって四年だと言われていた。飛行学校を卒業して任官した後、眼を酷使した。だから、もっと早く視力を失うかもしれないと覚悟はしていた。

 ユリウスは、敵の母艦が沈むところまでは、戦況を確認していた。今、空は静かだ。ということは、戦いにひと段落ついたことは間違いないだろう。自分の役目は果たしたのだ。

 だから、もうこの特別な眼は必要ではなくなった。

 頬を照らす日光は、今日も快晴であることを教えてくれる。

 けれど、ユリウスは、もうその青い空を見ることはないだろう。

 白い世界だけを映しているユリウスの眼から、一筋涙がこぼれおちた。


 波の音の向うに、軽いエンジンの音がする。航空機のようにも思えるが波を切る音もしている。

 ぷすんとエンジンがとまり、誰かが海に降りた。ざぶざぶと波をかき分け、こちらに向かってきている。波をかき分ける音は、やがて砂を踏みしめる音にかわり、ユリウスの正面で、その足音は止まった。

「無事でよかった……。ユリウス」

 その声は、オスカーだった。

 ユリウスのことをぎゅっと抱きしめてくれた。その肩が少し震えているのがわかった。

「墜落した後、沈没の渦におまえが巻き込まれたのを見たとき、心臓が止まるかと思った。停戦の後、調査機がおまえを見つけたと連絡が入った。海軍が回収に向かうとわかったいたが、待ってなどいられなかった。いてもたってもいられなくなって、こいつで来てしまった」

「こいつって、なんですか?」

「P38。水陸両用のこいつなら、海軍の調査艇より、早くおまえのもとにいける」

 P38は、民間でも使用されている旧型の機体だ。おもに郵便飛行機として使われている。水陸ともに離着陸が可能で、滑走路がない離島でも、海面に着水できるため、いまだに使われている。

 本当は、キリエが回収に出ると主張していたのだが、基地に一機しかないP38を無断で持ち出したというのだ。

「戻ったら、命令違反で独房だな」

 これまで何度もユリウスに独房行きを命じていたオスカーは、冗談めかして笑って言った。

 ユリウスは、オスカーの腕の中から、少しその身を離し海のほうを見てみたが、やはり白い世界に、P38の姿はなかった。

「ユリウス、もしかして、その眼、見えていないのか」

「…はい」

「おれのことも」

「ただ、白くて。それだけです」

「紅かったお前の眼が、銀色に変わっている。色が抜けてしまったみたいに」

「そうですか…」

「そうですかって…。それでいいのか!」

「いいのかと言われても、仕方がありません。作戦が終わるまでは見えていました。だから、もう、それで…。本当に戦争が終わったのなら、あの眼も役割が終わったのでしょう」

「ユリウス…」

「シュルーケンも沈んでしまいましたね」

「ああ」

「シュルーケン……」

 役目を立派に果たしてくれたのだ。その働きを自分が労ってならなくてどうする。ユリウスは、シュルーケンのことを思うと、涙がとまらなくなった。

「泣けばいい。シュルーケンはもうない。もう、作られることもない。永遠にお前の心の中にだけある。それでいいんだ」

「ティーゲルハイト少尉…」

「オスカーでいい」

 ユリウスは、オスカーの胸の中に、顔をうずめると、ただ静かに涙を流した。自分の眼を失ったことよりも、シュルーケンを失ったことのほうが、ずっとずっと哀しかった。


 どのくらいの時間がっただろう。

 涙が涸れるまで泣くと、少し気持ちが軽くなっていた。

「みんなは無事だったのですか」

 ユリウスは一番気になっていたことを聞いた。

「不時着した機体は多かったが、犠牲者はそれほど出なかった。ティーゲルハイト小隊はおまえを除けば無傷だ」

「良かった」

「それと、ツェッペンベルグ少佐だが」

「…?」

 オスカーが嫌な言葉の切り方をするので、思わず息を飲んだ。あれだけ激しい空戦をくりひろげていたのだ、何があってもおかしくはない。

「結婚するそうだ」

「え?」

 あまりの予想外の答えに、頭がついていかなかった。

 停戦の後すぐに、リヒテンヴァルト大公であるゲオルグが、ノルトシュットランド基地に押しかけ、求婚したというのだ。

「大公は、これからは家族で暮らしたいと言っておられるそうだ。ユリウスが戻ってきたら少佐と式を挙げると。だから、ユリウス、絶対に帰らなくてはな」

「……了解」

 オスカーが目の見えないユリウスの手を引いてくれる。砂浜から、波打ち際へ、波打ち際から浅瀬へ。見えなくても、その手の温かさからか、不安はなかった。

「P38は複座だ。後ろに乗れ」

 そう言うと、オスカーはユリウスを抱き上げて、副操縦席へ乗せた。

「確かに、少しは重くなったようだな」

「ティーゲルハイト少尉!」

「オスカーだ」

「そんな! 呼べるわけありません!」

「戦争が終わったら、少尉じゃなくなる。だから、慣れろ」

 水が撥ねる音がして、ほどなく機体が揺れた。オスカーが操縦席に座ったのだろう。

 プルプルと軽い音がしてプロペラがまわり始めた。S01シュルーケンと比べると、なんとも暢気な優しい羽音だった。

 水面を走り、機体がふわりと浮く。ユリウスはこの瞬間が大好きだった。

「後ろに誰かを乗せて飛ぶのもいいものだな」

 オスカーが穏やかな声でそう言った。P38は低空を飛ぶ機体なので、風防もなく、その声が直接、後ろにいるユリウスに聞こえた。

「わたしは、もう自分では飛べませんから、また一緒に乗せてください」

「ん? 何かいったか?」

 オスカーとユリウスを載せたP38は、朱く染まり始めた空の向うを目指して飛んだ。仲間の待つ場所へと。

「オスカー。わたしは、空を飛ぶのが大好きなんです」

 浜辺に打ち上げられていたシュルーケンの翼が、やがて満ちてきた波にさらわれ、海へ沈んでいった。



 ノイエ・デモクラティアの航空母艦の沈没により、ノルトシュットランド襲撃戦、およびキッツィンゲン列島の戦いは終結した。

 リヒテン・ライヒ、ノイエ・デモクラティア両国はこれ以上の戦闘を続けることは、難しいとして、お互いに軍を引いた。

 これにより、両国の間に講和条約が結ばれ、長い戦争に終止符が打たれたのだった。

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海燕 ーシュルーケンー  リヒテン・ライヒ空軍記 源宵乃 @piros

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