第六章
「さすがにL27は、すぐにまわしてもらえそうにないか…」
キリエ・ツェッペンベルグは、煙草を燻らせながら、そう呟いた。
「どうだ、一本。最近じゃ、貴重品だぞ」
オスカーは自分に向かって差し出された煙草の箱から、上等の白い紙巻の煙草を一本取り出すと、灰皿の脇にあったマッチをすった。兵士に支給されるのは、基地で栽培している屑葉がまぜこまれたまがい物の煙草だが、キリエが吸っているのは、帝都から送られてきた本物の煙草だった。
「シフェラー二飛は?」
「ピンピンしてます」
「運まで首席というわけか」
そう言うと、キリエは、出撃していく部隊を窓から見送った。ここ一か月で戦況はかなり悪くなりつつある。いま離陸していった者たちも、いったい何機が無事帰還してくるだろうか。
「機体より、操縦士だ。何と言っても育成に最低でも二年はかかるからな。それにシフェラーのような優秀な奴となると、何年かに一人だろう」
「ええ」
オスカーはそう短く答えた。カールには編隊の先頭位置を任せているが、本来、新兵が飛べるほど簡単なものではない。どれほど飛行技術があったとしても、敵と鉢合わせしても動じないだけの度胸も必要だ。オスカーは、最初自分が先頭を飛ぶつもりだったが、初めて編隊訓練で飛んだとき、カールなら任せられると感じたのだ。オスカー自身は後方に下がったことで、確実に敵を狙うことができた。オスカーの撃墜数は、カールがもたらしてくれたものでもあったのだ。
「旧型なら、何とか空いているものを回してもらえるでしょうが…」
「そんな機体で、シュルーケンの護衛が務まるものか」
キリエは、少し苛つき、火のついた煙草を指にはさんだまま頭を掻いた。そして、もう一度口に煙草を咥えてから、煙を長く吐き出すと、オスカーの顔を見てにやりと笑い、こう提案した。
「わたしのL25を貸してやる」
「あの機体をですか…?」
「この状況で飛ばしもせずに格納庫にしまっておいて何になる」
「そうですが」
「どうせ、誰も乗りたがらんだろうと思って、使ってなかったが、あの坊やならうまく飛ばせるだろ。なんなら、おまえが乗ってもいんだぞ」
「いえ、わたしはL27で十分です」
「そうか。なら、シフェラーに言っておけ。今度は堕ちるなとな」
カールがヴェストホーフェン基地に帰還したのは墜落してから、五日後のことであった。司令部に帰還の報告をした後、すぐにシュルーケンの格納庫に向かった。自分が墜落した後、シュルーケンがどうなったのかがずっと気になっていたからだ。オスカーからは、傷一つないとは聞いてはいたが、どうしても自分の目で確かめたかった。
空きっぱなしの格納庫の扉から、体をすべりこませると、細身のシュルーケンの機体が目にはいった。確かにオスカーの言った通り、傷ひとつないようだった。
ユリウスは、シュルーケンの操縦席に潜り込んで、整備を手伝っているようだった。時間があると、常に愛機のそばにいるのが習慣になっているユリウスだ。ここにくれば会えるとわかっていた。
「ラダーは問題ないようですね。ん。でも、ちょっと動きが固めかな。ペダルの踏み込みもう少し軽くしてみますか?」
あいかわらず、アーレの整備は痒い所に手が届くほど、きめ細やかだ。
「シュルーケンはしばらく出撃しないと思うので、そこまでの整備はいいです」
「ザルツハイム二飛、だめですよ。機械は常にいじっておかないとダメになります。ちょうどいい、座席位置の調節もやりませんか?」
ユリウスとアーレは、操縦席の風防を開けた状態のままで、ああだこうだと言い合っているようだった。
「そう言えば、ティーゲルハイト少尉が呼び出されていましたね」
「少尉の乗っているL27はもともと戦闘機ですから、爆撃とは別の任務があるのかもしれません」
ユリウスはそう言って、操縦席から出てきた。
「このままシュルーケンが出撃できなくなったら…」
「そんなことありえませんよ。これまでの戦果からして、ここに眠らせておくわけないです」
「当たり前だ。おれがそんなことさせるかよ!」
「カール!」
ユリウスは、格納庫の入り口に立っているカールを見つけると、まるで小動物のように駆けだした。たった数日のことなのに、最後に会ったときよりも、少し痩せたように見えた。
その勢いのまま、子どものように自分の胸に飛び込んでくるかと思ったが、ユリウスはカールの正面でぴたりと足をとめた。その後、何度か手をだしたり、ひっこめたりした後、カールの袖口をぎゅっと握りしめてきた。
「無事でよかった…」
「ああ…」
ユリウスはうつむき、そのまま言葉をなくしているようだった。
「ティーゲルハイト少尉が呼び出されたのは、おれが戻ってきたからさ」
「シフェラー二飛! お帰りなさい。怪我もないようですね。本当に良かった」
「ノイマン曹長。…その、すみませんでした。大切に整備してくれていたL27を堕としてしまって」
「L27のことは残念でしたが、それは仕方がありません。ここは最前線なんですから。なによりもシフェラー二飛が無事であったことが一番ですよ」
そう言うと、アーレはカールの肩を叩いた。
「それにしても、随分日にちがかかりましたね。見つかったという連絡が入ったのは早かったのに」
「まさか、ここまで馬車で帰ってくるはめになるとは思わなかったよ」
カールは墜落した日の夕方に、リヒテン・ライヒ海軍の調査艇に回収されたものの、連れていかれたのは海軍の軍港だった。そこから、このヴェストホーフェンまで、車ならば一日もあれば十分到着するところを、馬車を乗り継いで帰ってきたのだ。
「いや、二飛ひとりのために、車を出すわけないですって」
「とは言っても、乗合馬車で三日もかかったんだ。まいったよ」
カールとユリウスがここに配属されたころには、基地に運び込まれる食料や日用品は軍用トラックを使っていた。それが、ここ数か月のうちに馬車に変わってしまい、カールもその馬車の荷台で揺られることになった。
少しずつ、このリヒテン・ライヒの状況は悪くなっているのだ。
「おい、アーレ! どこにいる?」
「ああ、はい。おやっさん、こっちですよ」
アーレがおやっさんと呼んだのは五十がらみの頑固そうな小柄な男だった。ぱっと見たところでは、軍人とは思えない垢ぬけない容貌をしていた。
「おい、おまえは、ティーゲルハイト小隊の機体を整備していたな」
「ええ、そうですが、何か?」
「シフェラーっていう二飛を知っているか? 今年配属されたばかりのひよっこだ」
「あの、シフェラーはおれです」
カールがそう言うと、その男は格納庫の入り口からシュルーケンのそばまで大股で歩いて来た。空軍の中でも長身のうちに入るカールの前に立つと、頭ひとつほど低い。見上げるようにして、カールの顔をまじまじと見た。
「おまえか、L25に乗るって決まった若造は」
「L25…? たった今ヴェストホーフェンに帰ったばかりで、まだ何も聞いていないのですが…」
「細っこいやつだな。いくつだ?」
「十六です」
「背ばかりひょろひょろ伸びやがって。こんなんでキーリャを操れるのか?」
「おやっさん、ちょっと待ってください。L25って、まさかL25改のことじゃないですよね?」
「そのまさかだよ。あいつを格納庫から出せとさ。アーレ、手伝え!」
そういうと、男は、隣の格納庫へと行ってしまった。
「なんなんだ、あの人?」
「整備士長のグスタフ・シュナイダー曹長です。いっときますが、階級こそわたしの一緒の曹長ですけど、あの人はリヒテン・ライヒに空軍ができたときから、ずっと整備士長ですからね。現場にいたいから、昇進を断っているだけで、整備士として空軍の伝説になっている人なんですよ。それにしても、シフェラー二飛がL25改に乗るんですか?」
「いや、本当に、おれはまだ何も知らないんだ」
「命拾いしたばかりだっていうのに、ご愁傷さま…」
アーレはそう言い置いて、隣の格納庫に走っていった。
「ご愁傷さまって…?」
ユリウスがカールに聞いたが、カールも意味がわからず、首を振り返すしかなかった。
「カール、隣の格納庫に行ってみよう」
「そう言えば、隣っておれも行ったことがないな」
最前線のヴェストホーフェンでは。出撃の頻度が高いL27は、外の駐機場に出したまま整備をするのが常だ。S01シュルーケンは、細かな調整が必要な難しい機体のため、格納庫で作業することがあるが、それは例外的なものだった。
ユリウスとカールの二人が、シュルーケンの格納庫から出ると、外はちょっとした騒ぎになっていた。
人だかりの端に、格納庫にもたれかかって様子を見物しているオスカーの姿が見えた。ユリウスたちが敬礼をすると、オスカーは目立たないようにふたりを手招きした。
「シフェラー二飛、ここにいたのか」
「ティーゲルハイト少尉。あの、お聞きしたいことが」
「シフェラー、おまえの新しい機体はあれだ」
そう言って目線で合図をすると、ちょうど格納庫から機体が引き出されたところだった。
その機体の尾翼には連なるように描かれた二つの星。
「撃墜章がふたつ? まさかあの機体!」
「ああ、我らが司令官殿の愛機だ。おまえに貸してくれるそうだ」
それで、この騒ぎだったのかと、ユリウスとカールは顔を見合わせた。
「ツェッペンベルグ大佐が司令長官になって戦場に出る機会がなくなってから、文字通りお蔵入りだった機体だ」
尾翼の二つの星は、
引き出された機体に圧倒されているところへ、グスタフが歩み寄ってきた。
「なんだ、オスカーもいるじゃねぇか」
「お世話になります」
ユリウスは、誰に対してもどこか冷徹な雰囲気を漂わせているオスカーが、柔らかな表情で挨拶したことに少し驚いた。
「キリエが乗らないなら、おまえが乗ると思ってたぜ」
「わたしには、あの機体は操れませんよ」
「ちょっと、待ってください! 少尉ほどの人が操れない機体ってどういうことですか?」
カールが慌てて話に割って入った。
塗装は少し異なるが、見たところは、ふたつほど旧式のL25だ。撃墜王であるオスカーですら搭乗を断るような機体とうことは、何がどれほど違うのか、想像もできなかった。
「まあ、飛べばわかるってんだ。とっとと飛行服に着替えて来い!」
グスタフにそう言われたカールは、ユリウスをそこに置きざりにして、官舎に走って戻っていった。
「どう違うのですか?」
眼の前のL25に乗ることはないユリウスが、グスタフに問いかけた。
「おお、こりゃまた小っこいな。これが例のツバメの操縦士か?」
「はい。ユリウス・ザルツハイム二飛です」
そう言って、ユリウスが敬礼をすると、グスタフは頑固面を崩して、笑いながら敬礼を返してくれた。まるで孫をみる祖父のようなまなざしだった。
「あれは、L25改キーリャだ」
「キーリャ? あの機体の愛称ですか?」
S01がシュルーケン、海燕と呼ばれるように、機体に愛称がついていることは珍しくない。
「あの機体の愛称でもあるがな。L25に限らずキリエが乗る機体の愛称だ。キリエだから、キーリャ。可愛いキリエちゃんってな。まあ、実物はちっとも可愛げがないが」
「ツェッペンベルグ大佐をキーリャなんて呼べるのは、シュナイダー整備士長だけでしょう」
オスカーがそう言うと、グスタフは、ごま塩のように白髪まじりの顎髭をさすりながら、にやりと笑った。
「そうかもな」
グスタフとキリエは、このリヒテン・ライヒに空軍ができたときからの腐れ縁だった。ただの飛行士だったキリエが女でありながら軍に入隊し、海軍の兵器工廠にいたグスタフが、機体の整備のために新設された空軍に異動になった。それから、ずっと、キリエの機体はグスタフが面倒をみてきたのだ。
二年前、キリエが中佐から大佐に昇進し、ヴェストホーフェン基地の司令官となるまで、これまで歴代のキーリャと呼ばれる機体は、グスタフの整備のもと燦然たる戦果をあげてきたのだ。
「長い間、格納庫にあった機体なのではないですか? すぐに飛ばせるのでしょうか?」
アーレから、機体は日々の整備が肝心だと、いつも聞かされてるユリウスには、二年も飛んでいない機体にいきなりカールを搭乗させるというのは、腑に落ちなかった。
「二年間飛んでないなんて、誰が言っている? 二年間、作戦で出撃していないだけだ。あのキリエが地上で二年もおとなしくしているわけがないだろう」
その言葉に反応して、オスカーが口をはさんできた。
「やっぱりですか。燃料不足が厳しくなっている最近でこそ見なくなりましたが、時々人目を盗むように飛んでましたからね」
「わかるやつにはばれているというわけだな。飛ぶのには問題なかろうが、あの細っこい兄ちゃんは、背が高いからな。体格が違うということは、いろいろ調整が必要になるだろう。次の出撃はいつだ?」
「さあ、それは敵に聞いてみないことには?」
「オスカー。その言い方、キリエに似てきたな」
「それは困った。わたしは司令官殿の無茶なやり方には、どうにもついていけないんですよ」
「それが、似てるって言ってんだ。てめぇ、わかってやってんだろ」
その言葉を聞くと、オスカーは小さく声を立てて笑った。
離陸したL25改キーリャは、ユリウスが下から見ている分には、何てことはない、ごく普通の機体に見えた。ただ、旋回を始める瞬間や、急降下の後に機首をあげる際に、カールには珍しく、少し体勢を崩しかけている様子が見て取れた。
訓練を終えて、着陸してきたカールは、操縦席から降りるなり、飛行帽を脱ぎすてた。その額は、今にも滴になってしたたり落ちそうなほどの汗にぬれていた。
「あの機体、正気の沙汰じゃない…」
「どういうこと?」
「なにもかもが、めちゃくちゃ軽いんだ。ほんの少し力をいれるだけで、ラダーやフラップが動いちまう。神経がすり減りそうだ」
「迅速で、機敏な操縦が可能になっているってことさ。あれで操縦できれば、正面から至近で撃たれた機銃も避けられるってキリエは言ってたがな。キーリャに初めて乗って、あそこまで操れるんなら、まあ合格点だろ。オスカー、キリエにそう伝えとけ」
「了解しました。シュナイダー整備士長」
そう言うと、オスカーはグスタフに敬礼をして司令部に戻っていった。
「おい、シフェラー、今日中にあと二本飛ぶぞ。その前にラダーの微調整をしてやる。さっさと操縦席に戻れ」
「え、今すぐにですか?」
「聞いてなかったのか! それとも帝国語がわかんねぇってのか!」
「あ、いえ、了解。ですが、あの水を」
「カール、これ」
そう言うと、ユリウスは自分の腰につけていた水筒を手渡した。シュルーケンの整備に時間がかかると思って、格納庫にくるときはいつも持ち歩いているのが、役にたった。
「ありがとう、本当、助かる」
そう言うと、水筒に水を一気に飲み干した。あれだけの汗だ。よっぽど喉が渇いていたに違い。
水を飲み干してすぐ操縦席に戻ったカールは、結局、夕陽が水平線の向うに沈むまで訓練を続けたのだった。
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