第五章

 雲が厚い。朝日が昇ったはずなのに、どんよりと薄暗い天気の中、ユリウスが官舎の廊下を歩いていると、掲示板に官報がいくつか張り出されているのに気がついた。

『シャルヘン海域の激戦、制す』

『わがリヒテン・ライヒ海軍の大勝利』

 どれも、帝国の優勢を高らかに謳っているものばかりだ。ユリウスはまだ文章を読むのは苦手だが、このくらいの短い見出しなら、意味はわかる。どの部隊も着実に成果を出しているのだ。自分たちも、遅れをとるわけにはいかない。そう勢い込んでいると、後ろから、アルベルトがやってきた。

「こんな煽り文句、そのまま信じるなよ」

「煽り文句? そうなんですか?」

「おれたちはな、上が命令した通りに戦うしかない。正直、おれは、なぜデモクラティアと戦争しているのか、未だによくわかっちゃいない。大きな声じゃ言えんが、シャルヘンのあたりは惨敗したらしい。このヴェストホーフェンへの補給路にも影響が出てるだろう」

「そう言えば、ノイマン曹長が、よいオイルが手に入りにくくなっていると」

「朝メシからもチーズが消えただろ。ヴェストホーフェンは最前線で、精鋭兵を揃えてる。だから補給も優先的にまわしてもらっているはずなんだ。それでも、物資が不足し始めている。他の基地はもっと酷い状況になっている可能性があるぜ」

「おい、ユリウス、そこにいたのか?」

 掲示板の前で話している二人にむかって、廊下の奥のほうから、カールが軽く手をあげて合図してきた。

「ヘッセ准尉! ちょうど良かった。お探ししていたんです」

 アルベルトが一緒にいることに気付いて慌てて敬礼をする。アルベルトも少し笑って敬礼を返した。

「どうした。急ぎの用か」

「はい、ティーゲルハイト少尉がお呼びです。おそらく、すぐに出撃になるかと」

「こんな天気にか…?」

 爆撃作戦に雲は大敵だ。敵艦から高度を取っての爆弾の投下ができないからだ。そのため、朝食を取ったあと、ティーゲルハイト小隊の面々はつかの間の自由行動となっていたのだが、そこにこの呼び出しだったのだ。


「真っ白で何も見えません…」

 カールが無線でそう報告した通り、命令に従って出撃したものの、風防の前は真っ白だ。こうなると、方位磁石と高度計、エンジンの回転数で、おおよその方向と距離を掴むしかない。

「あいからず、うちの司令官閣下は無茶ばかりだな」

 アルベルトの声からもうんざりとした気持ちがあふれ出ている。下手をすると、敵艦を見つけることもできず引き返すはめになるかもしれない。そうなれば、燃料の無駄遣いだ。その状況をわかっていて出撃させたというのなら、それなりの理由があるのだろうが、出撃させられる側にとっては、いただけない。

 下手をすると、帰還する基地の滑走路の視認性が悪くなり、着陸時に事故を招きかねないからだ。

「天候が良くなるのを待っているのは、デモクラティアも同じだ」

「そうは言うがな、小隊長殿。これじゃ、隣を飛んでるユリウスの姿だって見失っちまいそうだぜ」

「雲中に敵影! 正面、二機です!」

 のんびりとした、アルベルトとオスカーの会話を遮ったのはユリウスだった。うっすらとユリウスの眼に映ったのは、間違いなく、デモクラティアの戦闘機だ。

「三機、五機…。いえ、八機います。正面奥からこちらに向かっています。近い!」

 雲が厚くて見えづらかっただけで、距離そのものは近い。

「散開!」

 ユリウスの報告に反応して、すぐにオスカーから命令が飛んだ。その声とほぼ同時に、雲をつんざく音がした。正面からの機銃射撃だった。

 散開の命令に反してユリウスの前から、カールの機体は動かなかった。

 時間としては、一瞬に満たないものかもしれない。しかし、それはユリウスにはずいぶんとゆっくりと見えた。

 敵の機銃が、カールの搭乗するL27の左翼脇に、ミシンの縫い目のように規則正しく並んだ穴を空けていく。

 これは、本当はユリウスが受けるはずの弾なのに。

 どうして、カールの機体を打ち抜いていくのか。

『護ってやるよ…』

 護ってくれなくて良かった。ユリウスは六歳のときに護らなくていけないものを捨ててしまった。そんな人間の命など護ってくれなくても良いのだ。


「帰還する!」

 オスカーの声が無線から聞こえる。

 ユリウスの目の前では、カールのL27が白い煙をあげながら、下降していく。被弾したのはエンジンではないが、少なくとも空戦に耐えられる状態ではないのは明らかだ。

 三角形の頂点を失い、S01シュルーケンは丸裸だ。すぐにアルベルトがユリウスの前に出たが、そうなると、右の腹は敵にさらすことになる。

「ザルツハイム二飛、シフェラー機から十分距離ができたら、爆弾を海洋に投下」

「しかし…」

「この状況では、作戦海域上まで飛ぶのは無理だ。おまえまで撃墜される」

「おい、小隊長! シフェラー機、不時着確認。距離、ヴェストホーフェン基地から西北170キロってところか」

 ユリウスとオスカーの会話にアルベルトが割って入った。海面近くまで高度を下げて、カールの状況を見てきたのだろう。

「あいつは、泳げるのか?」

「水泳も首席だったと」

「なら、不時着すれば、近くの島まで泳ぐだろう。幸いこの海域は、まだリヒテン・ライヒが押さえている。海軍に連絡しておけば、近くまで航行したときに拾ってくれるはずだ」

 エンジンや、燃料タンクに直撃して炎上しなければ、プロペラが動かなくなっても、ある程度は滑空して、水面に着陸できる。問題はその後だった。飛行機は船ではないので、一時は水面に浮かんでいても、そう長い間もつわけではない。着陸した場所が大洋のどまんなかである場合、どこへも行けず、結局命を落とすこともある。

 幸い、カールが不時着したのは、ぽつぽつと島が点在するあたりで、カールの泳力なら問題なくどこかの島に泳ぎつくだろう。

「眼がいいなら、あいつが泳ぎつきそうな島の位置を覚えておけ」

「了解…」


 基地へ帰還した後、ユリウスは飛行服のままオスカーと連れ立って、通信室へ向かった。普段ほとんど司令部のある建物によりつかないユリウスにとって、通信室にくるのも初めてのことだった。

 オスカーは、通信兵をつかまえて手短に事情を話すと、部屋の隅にある、丸めた紙を筒状にして何本も立ててある中から、ひとつを取り出した。

 テーブルの上にその筒上の紙を広げると、それは地図だった。しかし、ユリウスがこれまで見たことのある地図とは比べものにならないほど精巧なもので、ひとつひとつの島の形がまるで鳥の目で見たかのような正確さで描かれていた。

「この地図は本来軍事機密だ。ほかには言うなよ」

「はい」

「観測機に乗って計測しながら、書かれたものだからな。リヒテン・ライヒが押さえている海域なら、ほぼ間違いはないだろう」

 そう言いながら、オスカーは手元のコンパスの幅を調節し、ヴェストホーフェン基地にコンパスの針をたてると、そこからぱたぱたとコンパスを返して、進めていく。

「何をなさっているのですか?」

 その動作は、ユリウスにはまるで子供の遊びのように見えた。

「アルベルトが、西北170キロあたりと言っていたからな。このコンパスの幅を50キロに合わせてある。三回分と少しとすると、このあたりだな」

 オスカーが動かしたコンパスの先にあるいくつかの島のひとつを指さすと、ユリウスが首を横に振った。

「シフェラー二飛が不時着したのが、ここでした。なら、その島ではなく、ひとつ右隣のこちらの島へ向かったと思います」

「何故、そう思う」

「不時着した位置から一番近い島には、砂浜がありませんでした。こちらの島には砂浜があります」

 島に泳ぎ着いたとしても、そこが絶壁なら上陸できない。多少、泳ぐ距離が長くなっても、砂浜が見えていたなら、カールはそちらを選ぶとユリウスは確信していた。

「そうか」

 オスカーは、少し笑ってそう言うと、ユリウスの肩を軽く叩いた。

「おい、通信兵! 海軍に連絡。ティーゲルハイト小隊の隊員の回収を依頼。西北の海域、メンメルト諸島、北メンメルト島の砂浜あたりを探してくれ」


「聞いたか? 堕ちたんだってな。あの首席野郎」

「ああ、あのおぼっちゃんか。撃墜数ゼロのまま、L27を海の中に沈めちまったのか。もったいないことするもんだ」

 精鋭兵ぞろいのヴェストホーフェン基地にも、柄の悪い奴らはいる。通信室でオスカーと別れて、ひとり格納庫へ向かっていたユリウスを見つけて、聞こえよがしに嫌味を言ってきた。

 あまりにも特殊な機体であるS01シュルーケンに乗っているユリウスよりも、この基地にいるすべての操縦士の憧れであるL27を新兵でありながら割あてられていたカールのほうが、この手のやっかみに合っているのは知っていた。

 しかし、この言葉はユリウスには許せなかった。

 カールはユリウスを庇って、被弾したのだ。

 前方から三機、それも雲を出たところの出会い頭だった。カールの飛行技術なら十分回避ができたはずだ。しかし、それでは、操縦性に劣るシュルーケンは、敵の弾をもろに受けるはめになっていただろう。結果、カールは真っ向から応戦し、墜落することになったのだ。

 ユリウスの乗っていた、S01シュルーケンには、かすり傷ひとつつけることもなくだ。

 カールは、彼の仕事を全うしていた。誰に非難される謂われはない。

 ユリウスは、カールの陰口を叩いて兵士の前まで歩いていくと、きっとその顔を見上げた。相手は小柄なユリウスよりも、頭一つ半も高いため、どうしてもそうなってしまう。

「おい、なんだやるのか? このガキ」

 ユリウスは、相手の胸倉を掴むとぐっと引きずりおろし、背を向けるように相手の下に入り込むと、その足を払い、大柄な男を背負い投げた。

 親子ほども体格の違いがあるにもかかわらずにだ。

 投げられた相手が起き上がろうとする前に、軍靴でみぞおちを踏みつけると、さすがに気絶した。

「舐めたまねすんじゃねぇ!」

 それを目のあたりにした、もう一人の兵士は、ユリウスの顔に拳を突き出したが、それをなんなく避けたユリウスは、相手の腕の下にもぐり、そのまま相手の腕を下から取ると、相手が殴りかかろうとした勢いを利用して、この相手も投げ飛ばした。こちらも、みぞおちに一発食らわそうとしていたところで、うしろから襟首を持ち上げられた。

「見つかるぞ。当番兵だ」

 その声で、オスカーだとわかったが、そのときには、半分抱きかかえられるようにして、その場を離れていた。

「驚いた。随分と場慣れしているな」

「飛行学校でも、さんざん絡まれていたので、自分なりのやり方を見つけただけです」

 確かに小柄なユリウスは、殴り合いになったら圧倒的に不利だ。だからけんかに勝てる手段を考えた。あれだけ簡単に体格の違う男をやすやすと投げ飛ばせるのは、これまでの経験のなせる技だった。

「コツがあるんです。自分の力じゃなくて、相手の勢いを使っているだけなので、それほど難しくありません。少尉も投げてみましょうか?」

「いや、遠慮する」

 そう言うと、オスカーは腰に下げていた水筒をユリウスに渡した。そう言えば着陸してから一滴も水を口にしていなかった。

「ありがとうございます」

 冷たい水が喉を通るのが気持ち良すぎて、思わず水筒が空になるまで、飲んでしまった。飲み終わってから、もしかしたら、オスカーの分まで飲んでしまったのかもとようやく気がついた。

「すみません。思わず…」

「水ぐらい構わん。また、食堂でもらってくればいい」

 オスカーはユリウスの手から水筒を受け取ると蓋をして、また腰にさげた。

「カールは…。シフェラー二飛は、水を持っていたでしょうか」

「さあな。だが、水上着陸で、爆発もしていなかった。最低限の装備は持ち出せただろう」

「なら、いいんですが…」

「心配か?」

「……はい」

「戦場だからな。誰が堕ちてもおかしくない。だが、残されたものは辛い。おまえもわかっただろう。おれたちも、シフェラーもおまえに堕ちて欲しくない。だから、おまえも無茶はするな」

「わたしの心配は不要です」

「シフェラーもそうだろう。やつが自分の心配をしてくれと頼んだのか? 頼まれなくても、心配なものは心配だ。おまえ自身がどう思ってようと、仲間であることにかわりはない。おまえが無茶をすれば、おれたちはおまえのことを心配する」

「よく、わかりません…」

「おまえは、子どもだな」

「いえ、わたしはもう、従軍していますし、操縦士として戦果も」

「そういうところが、子どもだ」

 オスカーは胸のポケットから、煙草を取り出して、火を点けた。

「どうして、こんな子どもを最前線に送り込んだんだろうな…」

 呟くようにそう言うと、最後の一本だったからだろう、手にあった煙草の箱を軽く握りしめてくしゃっと潰した。

「わたしが、ザルツハイムだからです」

「ん?」

 ふうと煙をはきだしながら、聞き返したところに、アルベルトが通りかかった。

「おい、オスカーここにいたのか、探したぞ。朗報だ! カールが見つかったと無線がはいった」

「やけに早いな」

「ちょうど近くに調査艇が出ていたらしい。近いうちにヴェストホーフェンまで送り届けてくれる手はずになった」

 いつも冷淡で表情がほとんどかわらないオスカーの顔に、ユリウスでもはっきりわかるほど安堵の表情が浮かんでいた。


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