第九章

 ヴェストホーフェンよりもやや内陸に位置するマールスフェルトは、空軍の航空工廠がおかれている大きな基地だ。

 すでにS01シュルーケンの燃料は尽き、風に任せて滑空している状態だった。

「ヴェストホーフェン基地所属、ティーゲルハイト小隊、四機。着陸を願う」

 オスカーが基地への着陸の許可をとるために無線で連絡を取っている。ユリウスはどこか、空虚な思いで、それを聞いていた。

「ヴェストホーフェン? 何かあったのか?」

「話は後だ。S01が燃料切れだ。すぐに降ろしたい。滑走路を空けてくれ」

「三番が空いている、そのまま降りてもらって構わない」

「了解。ザルツハイム二飛」

 空は何事もなかったように青い。

「ザルツハイム! 聞いているのか!」

 ここは海の上ではなく陸の上だ。畑の麦がまだ青い。風に揺られてまるで波のようだ。

「ザルツハイム! 応答しろ!」

 どうして、自分は陸の上を飛んでいるのだろう。シュルーケンは海燕なのに。

「ザルツハイム!」

 急に左隣の機体から、機銃が発射され、その音に驚いたユリウスは、ようやく我に返った。

「少尉! 敵ですか!?」

「何を呆けている! 三番滑走路に降りろ。場所はわかるか?」

 オスカーの声にはっとすると、ユリウスは地表を見おろした。基地が見える。あれがマールスフェルト基地だろう。ヴェストホーフェンより二回りほど大きい。滑走路に白い文字で大きく番号が描かれている。

「了解」

 ユリウスは短く返事をすると、ゆっくりと旋回しつつ、着陸体勢に入る。すでに燃料がきれているので、風に任せながらの飛行だ。流されていく距離をエンジンで調整することはできないため、風を読むのに神経を使う。

 それでも、なんとか滑走路に基準を合わせると、静かに車輪を地面に降ろした。オスカーほどではないが、滑らかに機体がすべっていく。

「今降りた機体は燃料がない。自走して駐機場に行くのは無理だ。悪いが牽引してもらえないか?」

「わかった。残りの三機は、それまで待てるか? 待てないようなら、一番に降りてくれ。もう少しすれば空くはずだ」

「わかった。一番滑走路に降りさせてもらう。われわれも燃料がこころもとない」

 オスカーの無線の音が途切れ、順番に一番滑走路に降りて行った。ユリウスが降りた三番滑走路からは、少し距離があるように見えた。

 ぼんやり待っていると、飛行機用の牽引車がS01の前にきて、フックをかけた。

「悪いけど、降りてもらえませんかね」

 整備兵と思わしき一人の兵士が、ユリウスに声をかけた。

 その瞬間、ユリウスはアーレのことを思い出し、自分に流れているすべての血が抜け出てしまったかのような感覚に陥った。

「あの、聞こえてますかね?」

 機体の腹にある足場を上がってきた整備士は、S01の風防をこつこつと叩いた。自分がここにいては、整備の邪魔になる。わかっている、それでもユリウスは動くことができなかった。

「怪我でもしてるんですか? 医務班呼んだほうがいいですかね?」

「いえ、怪我はありません」

 絞り出すように、なんとかそれだけ答えた。

 緩慢な仕草で、安全帯を外し、風防を上げ、席を立とうとしたとき、脛のあたりに何かがあたった。搭乗するときにアーレが渡してくれた水筒だった。

「ノイマン…曹長……」

 喉の奥につかえるような嗚咽が、ユリウスを押しつぶしてしまいそうだった。

 また、自分はかけがえのないものを見捨ててしまった。

「ちょっと、困りますよ。機体の中に水筒とか持ち込まれちゃ。搭乗規則知らないわけじゃないでしょ」

 そう責めるような口調で問い詰められた。ユリウスが水筒を抱いて操縦席から地面に降りると、整備士はユリウスの姿を見て、呆気に取られた。

「なんだ…? こども、か…?」

「ヴェストホーフェン基地所属、ユリウス・ザルツハイム二飛です」

 今のユリウスには、ただそう名乗って、敬礼をするのが背一杯だった。


 ユリウスはヴェストホーフェンにいた仲間を見捨ててしまった。

 八年前のあのときと同じように、捨ててしまった。


 ユリウスの一番古い記憶は、妹の手のぬくもりだった。いつもさみしくなると、ユリウスを探して、その小さな手でぎゅっと握ってきた。親の記憶はない。いつも夜になると、膝の上に温かくて小さな妹をだきかかえて、冷たい風を避けるように物陰でうずくまっていた。

 ノルトシュットランドは、帝国の最も西に位置する軍港の街で、道端に戦災孤児などいくらでも溢れていた。ユリウスもきっとその一人だったのだろう。

 ユリウスが六歳になるころには、すでに年季の入った屋台のかっぱらいで、なんとか食つなぐことができるようになっていた。路上で生活している孤児たちの中でも、小さな妹を抱えているユリウスはいつも割りをくう。

 収容所のような孤児院にほうりこまれたこともあったが、四歳になるかならないかのクラリスを奪われそうになって、飛び出してきた。妹と引き離されることに耐えられなかったのだ。

「クラリス、ここにいて、絶対にわたしが帰るまで動かないで」

 いつもそう言って、廃工場の片隅にある、倉庫に妹を押し込んだ。

「おねぇちゃ、ここ、くさい。いやぁ。いっしょにいく」

「だめ。ここにいて、食べるもの持ってくる。だから」

 ユリウスは、そういって倉庫のドアを閉めると、表から箱をいくつか積み上げて、クラリスの力では、開かないようにした。

「いやぁ。まっくらいやぁ。あけて!、あけて!、おねぇちゃ!!」

「大きな声をだしちゃだめ。変な奴らに連れていかれるよ」

 孤児院に押し込まれたとき、無理矢理に大人に抱え上げられたことがあるクラリスにとって、この言葉は絶大だった。急に倉庫の中が静かになる。

 背中を預けていた戸の向うでそれを感じ取ると、ユリウスは、ふたりぶんの食いぶちを稼ぐために、街へ出て行った。


「この、クソガキが!」

 聞きなれた罵声と一緒に、屋台の親爺のつま先がユリウスの腹にめりこんだ。三発蹴られたところで、ポケットに入れたパンを親父に返した。

「ごめんなさい。もう二度としません…。でも、小さな妹がおなかを空かせているんです」

「腹減ってんのは、おまえらだけじゃねぇ! おれの女房だって、息子たちだって、いつでも腹ぺこだ!」

「どうか、半分だけでもいいんです」

「消えろ! 二度とくんじゃねぇ!」

 そう言って、ユリウスの頬を張り飛ばした。小さなユリウスが通りまで吹っ飛ぶほどの勢いだ。

 ユリウスは、顔を伏せたまま腹をおさえ、痛みに耐えながらパンの屋台を後にした。パン屋の親爺の手の形がはっきりと残った顔に、にやりと笑みがうかぶ。

 よろよろと歩きながら屋台が見えなくなるくらいまでくると、小走りになって、クラリスを隠した廃工場裏の倉庫まで帰ってきた。積み上げていた箱を横におき、扉を開けると、クラリスは泣きつかれたのか、涙の跡をいっぱいつけたまま、眠っていた。

「クラリス、起きな! 今日はすごいよ!」

「ん……、おねぇちゃ? おねぇちゃっっ!」

 目を覚ましたクラリスがユリウスに抱きついた。

「ほら! 見てみな」

 ユリウスは懐から、握りこぶしふたつ分ほどもあるパンを取り出した。パン屋の屋台でかっぱらいをしたとき、大きなパンは懐に、小さなパンをポケットに入れたのだ。そして、見つかったとき、ポケットから小さいほうのパンをだし、わざと、その半分でもいいからわけて欲しいと食い下がってみせたのだ。

「わぁ、おおきい!」

「だろ! これくらいの大きさがあれば、ふたりで食べてもお腹いっぱいだ!」

 このくらいのパンで、ユリウスのお腹がいっぱいになるわけはないが、なんとかクラリスの空腹なら満たしてやれる。

「ほら、カップを持って」

 ゴミ捨て場で拾ったブリキのカップは、底にへこみがあったが、水をのむくらいならなんとかなる。

 廃工場の手漕ぎポンプはまだ生きていて、錆の臭いは酷いが、水は上がってくる。ユリウスが、ポンプの取手に体重をかけた。錆びついているので、最初のひと漕ぎは力が必要なのだ。耳が悲鳴を上げそうな甲高い金属音とともに、ポンプが動きだすと、ようやく取手が軽くなり漕ぎ続けられるようになる。水がざっと出始めても、最初のうちは金茶に濁っていてとても飲めるものではない。何度も何度も繰り返し漕いでいるうちに、水が透明になってくる。そのころにはもうユリウスは汗だくだ。

「ほら、顔と手を洗って」

 ユリウスは、クラリスの背にまわって、後ろから、両手を取ってやる。真っ黒な手をごしごしと強く洗ったあと、ユリウスの手で水を掬ってやって、クラリスの顔を洗う。十分に食べるものもないのに、ふっくらとした丸い頬に水の滴がすべっていく。

 水がとまると、またポンプを漕いで水を出す。今度はユリウスも顔を洗い、腰に下げていた手ぬぐいでクラリスの顔を拭ってから、自分の顔を拭いた。

「おねぇちゃ、ほっぺのあかいおてて、とれてないよ」

 そういって、クラリスが、ユリウスの手から手ぬぐいをとって、殴られた手形の痕をごしごしと拭いた。まだ腫れがひいていないから、こすられるとたまったものではない。ユリウスは妹の手から手ぬぐいを取り上げてやめさせようとすると、クラリスはぷうっと頬を膨らませた。

「ああ、もう、これは取れないって」

「だめ、だめ、もういっかいあらって、きたないよ」

 クラリスは、汚れたままの小さな手を叱るときの姉の口調をまねてそういった。

「洗ってもとれないんだって」

 さらにこぎ続けて、これだけ水をだして、ようやく飲めそうな水が上がってくる。へこんだブリキのカップを軽くすすいでから、水をためた。

 カップはひとつしかないから、まずクラリスが水を飲んで、それからユリウスが飲む。錆臭い水だが、かっぱらいをするために走り回った後だ。カップ二杯の水を続けて飲んでようやく人心地がついた。

 改めて水をくむと、もとは花壇だったのだろう、レンガが積み上がった縁に、二人で腰をかけた。ここがユリウスとクラウスの食堂だ。ふところに大事にしまっていたパンを取り出すと、真ん中で二つに割る。いつもちょっとだけ大きいほうがクラリスだ。足りない分は水を飲めばいい。幸いここのポンプは、忘れられているようで、水だけは飲み放題なのだから。


 道端で暮らす孤児でも、ときには割のいい仕事にありつくこともある。軍需工場の下働きで手がたりないときに、声をかけられたりするのだ。

 ユリウスも毎日のように、クラリスの手を引いて、軍需工場の門のあたりを何度も通る。昼までに声をかけられなければ、その日は空振りだ。また、街へ出てどこかの屋台でかっぱらいをするか、食堂の裏で、物乞いをするしかない。

 その日は運よく、軍需工場の裏でネジの仕分けの仕事にありつけた。先の欠けたネジや、ネジ穴がつぶれた不良品を選別する仕事だ。こどもたちは給料をもらえるわけではないが、ここで仕事をすると、工員たちと一緒に夕飯にありつける。だから、孤児たちの中では、軍需工場の下働きは人気があるのだ。

 雲一つない快晴だった。

 数日前に、出航していく大艦隊を送り出した後で、海軍と空軍が駐留している賑やかな、ノルトシュットランドも静かなものだった。

 天気がいい日は、外に椅子替わりのコンテナを出して、そこでネジの選別をする。屋内でするよりも、明るくて、作業がはかどる。そばにクラリスを座らせて、ユリウスは不良品をよりわけていく。

「ちょっと、そんな、小さい子、連れてこられると困るんだけど」

 工場長のおかみさんが、困ったような顔で、ネジの入った箱を抱えて裏にやってきた。

「すみません。預けるところとかなくて」

「ここのネジはおもちゃじゃないんだよ」

 おかみさんは、クラリスの手にあったネジを取り上げて、そう言った。

「ごめんなさい、よく言い聞かせます。ほら、クラリスごめんなさいは」

 ユリウスは妹の頭に手をやって押さえつけると、無理矢理、謝らせた

「ごめんちゃーい」

「まったく、だから孤児は困るんだよ。一本でも失くしてごらん、見つかるまで飯はないからね!」

 そう言って、ユリウスの小さい手に、ネジがどっさり入った箱をつきつけた。

「日が暮れる前に、終わらせるんだ。わかったね」

「……はい」

 そういうと、ユリウスはまたコンテナの上に腰を下ろして、選別を始めた。

 クラリスは、不良品の入った籠からネジを取り出して、遊びはじめた。

「クラリス、だめだよ。それ、籠にいれて」

「いやーなの」

「ごはん食べられなくなるよ」

「それも、いやーなの」

「なに言ってんの! 邪魔するなら、いつもみたいに倉庫に放り込むよ」

 この工場は危なくないと思って連れてきているが、街に悪いことをしにいくときには、後ろをついてこないように、倉庫に閉じ込めていた。クラリスはそれが大嫌いなことを知っているので、言ううこと聞かないときは、ついついそう言っておさめようとしてしまう。

「おねぇちゃ、いじわる、くらいのやーなの、くさいのやーなの」

「なら、おとなしくしてて。それ、返して」

 不良品は、そればかり集めて、また鉄に戻すのだ。無駄にすることはできない。

「やーなの、やーなの、やーなの!」

「クラリス!」

 声を荒げて叱ると、クラリスは手にあった頭の潰れたネジを放り投げた。そのネジは運悪く、良品として仕分けた後のコンテナの中に入ってしまった。

 早朝からはじめて、昼過ぎまでかかった仕事なのに、クラリスが放り投げた一本のネジのせいで、すべてやり直しだ。それでなくても、手つかずのネジがまだひと箱ある。とても日暮れまでには終わらない。終わらなければ、工場の食堂で支給される夕飯にはありつけない。今日の仕事は、すべて無駄になってしまったのだ。

「もう! いい加減にしな!」

 ユリウスはそう言って、クラリスの頬をぶった。さほど力を入れたわけではないが、クラリスの柔らかい頬はすぐに真っ赤に染まった。みるみるうちに、涙があふれてきて、火のついたように泣き始めた。

「ちょっと! おまえたち、何やってんだい! 真面目に仕事をしないんなら、出て行っとくれ! 孤児のかわりなんて、いくらでもいるんだ!」

 窓から顔をだしたおかみさんが、大声で叱り飛ばした。すると、ますますクラリスの泣き声も大きくなる。

「クラリスのせいで、めちゃくちゃじゃないっ! もう知らない!」

 そう言って、ユリウスは泣き叫ぶクラリスを置いたまま、走り出した。どうしようもなくて、ままならないことが多すぎて、お腹がすきすぎて。

 とにかく、泣いている自分をクラリスに見られたくなくて、どこかで顔を洗いたかった。それだけだった。

 気が付くと、知らないうちに工場の敷地を抜けていた。あまり放りっぱなししていると、クラリスが自分のことを探そうとして、かえって迷子になってしまうかもしれない。早く顔を洗う場所をみつけて帰ろう、そう思って、ふと空を見上げると、青い空に一筋の飛行機雲が見えた。その先には、一機の飛行機。この基地の街では、頭上を航空機が飛んでいるのは、いつものことで、まわりでたち働いている、誰もが気にしてはいなかった。

(あれ…? なんかいつも見る飛行機とちょっと違うような)

 ユリウスがぼんやりとそう思った次の瞬間、轟音とともに、背中からの爆風で吹き飛ばされた。

 振り返ると、さっきまでいた軍需工場は火の海になっていた。

 ユリウスはすぐに、クラリスを探しに工場に戻ろうとしたが、工場から逃げて来る人の波にのまれて、まっすぐ前に進めない。こどものユリウスなど、ふみつぶされんばかりの勢いだ。服に火が付いたまま走って逃げている人もいる。

「クラリス!!」

 この工場の裏が、空軍の滑走路になっていることを思い出し、ユリウスは大きく迂回することにした。あそこからなら、まだ火が回っていないかもしれない。ユリウスは大人をかきわけるようにして走ると、途中からその集団を抜け、ひとり炎で燃えさかる建物に沿って回り込みはじめた。

 頭上には数機の飛行機が飛んでいる。やはりあれは、いつも見る飛行機とは少し違っていた。

「ノイエ・デモクラティアだ!」

「どうして、いきなり本土に!」

「おれが知るかよ!」

「逃げろ! ここには空軍の燃料倉庫があるぞ! あそこに火が付いたら、大爆発を起こす!」

 大人たちが口々に叫んでいるが、そんなことを気にしているだけの余裕がユリウスにはなかった。とにかく、クラリスの元へ戻るのだ。

 軍需工場の角を曲がって滑走路に出た。滑走路は無事だ。その向う側に工場の裏口があるはず。その裏口に向かって、ただ走るしかなかった。建物はメラメラと真っ赤な炎を上げながら燃えている。でも、クラリスは建物の中にはいなかった。だから大丈夫なはずだ。そう信じるしかない。

 あと、少しで裏口だと思った瞬間、その扉が中から吹き飛び、炎が渦を巻いて天に向かって吹き上げた。

 この中で、本当にクラリスは無事でいるだろうか。ユリウスは足がすくんで、どうしても炎の中に飛び込んでいくことができなかった。工場の屋根が落ちる音がした。ガラスが割れてはじける音も聞こえる。

「行かなきゃ…。クラリスが待ってる…」

 灼熱の炎に向かって一歩踏み出そうとした瞬間、二度目の爆発が起きて、ユリウスは後ろに吹き飛ばされた。

 しかし、地面に叩きつけられることはなかった。十五・六歳の少年が、ユリウスの下敷きになってくれたからだ。

 少年だが、飛行服を着ている。もしかすると、空軍付属の飛行学校の生徒かもしれない。

「ありがと」

 ユリウスはそれだけ言うと、また、燃えさかる裏口に踏み入れようとしたが、後ろからその少年に羽交い締めにされた。

「なにやってる!」

「はなして!」

「はなせるわけないだろ! あそこに飛び込む気か!」

「クラリスが、妹がいる! 探さなきゃ… 絶対、わたしを探して泣いてる…」

「……だめだ」

 目の前で工場の屋根が次々と崩れていく。まるで、おもちゃの建物のを踏み潰すように。

 頭上で飛行機のエンジン音がする。今度は三機の飛行機が通り過ぎて、何か黒いものをばらばらと落としていった。

 その後、爆風が吹き荒れた。少年はしっかりとユリウスの頭を抱きかかえて、熱風から護ってくれていた。

「くそっ! 官舎と司令部も……」

 少年は、ユリウスの手を取ると、猛然と走り始めた。腕が肩からもげそうだった。ユリウスは必死で抵抗したが、力が違いすぎた。

 少年は滑走路の端まで走った。そこには一機の飛行機があった。少年は操縦席に座って何かごそごそした後、身を乗り出して、ユリウスに手を伸ばした。

「上がって来い! 乗せてやる」

 ユリウスは、首を横に振った。

「行けない。クラリスを探さないと」

「ここにいても死ぬだけだ」

 ユリウスは、もっと力をこめて首を振った。あの炎だクラリスの命はもうないかもしれない。でも、探しにいかなくては。

 踵をかえして、元の場所まで走り去ろうとしたとき、少年はひらりと操縦席から降りると、まるで荷物のようにユリウスを抱えて、操縦席にあがった。少年自身は大きく足を開いて座ると、ひざの間にユリウスを座らせた。どうやら、座席を極限まで後ろに下げ、ユリウスが座れるだけの空間を作ってくれていたようだった。

「おれの足と操縦桿に触るなよ!」

 そう言うと、飛行機のエンジンを回した。目の前にあるプロペラが轟音を立ててまわりはじめた。

 ユリウスはこんなに近くで飛行機をみたことがなかったので、これほどの音がするとは知らなかった。とても耐えられなくて耳を手でふさいだ。

「だめだ。耳を塞ぐな。上空に上がってからいきなり耳に当てていた手をはなすと、気圧で鼓膜が破れる」

 少年は、ユリウスの背中から手を回して、操縦桿を握ると、足でも何やら操作をして、滑走路まで飛行機を走らせた。

 そして直線にでると、エンジンの回転はさらに速くなり、猛スピードで走り始めたとき、少年がぐっと操縦桿を手前に引いた。

 ユリウスの背中は、少年に押し付けられ、胃のあたりが何かに掴まれたようにぎゅっとなる。自分のからだごと、風になったように思った瞬間、ユリウスは空にいた。


 ユリウスは初めて空を飛んだのだ。


 眼の前の風防の向うには空があった。それは、ただ青くて美しかった。

 こんなときなのに。クラリスを亡くしてしまったかもしれないのに。街が燃えているのに。

 空が青い。


「やっぱり訓練弾しか積んでない!」

「くんれんだん?」

「訓練のために色が付くだけの機銃弾だ。つまり、このまま空戦になったら、おれは丸腰だってことだ」

 少年は飛びながら、ユリウスの頭越しに計器を確認している。

「燃料はある。どこかの基地まで行ければ……。その前にこいつらを振り切らないと」

「後ろ! なんか来るよ!」

「くそっ!」

 少年の悪態の後、後ろから機銃の射撃を受ける。バリバリと連射される音が耳をつんざくようだ。少年は、右に左に、小さく操縦桿を動かすだけで。それを避けていく。

 どれだけ避けても機銃の音はやまない。こちらが逃げるだけで攻撃してこないということがわかっているのかもしれなかった。

 少年は覚悟を決めたように、操縦桿を前に倒した。飛行機の機首が下がり、頭から真っ逆さまに堕ちていく。後ろから何機かついてきて、また機銃を撃ってくる。少年はそれを避けながら、まだ急降下を続けた。あと少しで地面というところで、思い切り操縦桿を引いた。すると地面に腹をするギリギリのところで機体は水平になった。

 しかし、それを追っていた敵の飛行機は次々と地面に墜落していったのだ。

「ははは、少佐直伝の技を簡単に真似されたら、たまったもんじゃない」

 少年は、初めて笑った。そして、その後は緩やかな水平飛行を続けると、一番近場の基地へ着陸した。

「ノルトシュットランドが攻撃を受けています! 機銃に訓練弾がはいっていますので、それを実弾に積み替えてください。それから給油を! もう一度出ます!」

 駆け寄ってきた整備兵にそう告げると、ユリウスの脇に手をやって体を持ち上げて、操縦席の外へだすと、機体の外側の梯子から降りるように言った。

「元気でな」

 それだけだった。

 銃弾や燃料の補充を慌ただしく終わらせると、そのまま機首を返して、離陸していった。

 まだ、炎が燃え盛っているだろう、ノルトシュットランドに戻っていったのだ。

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