第八章
翌朝、S01シュルーケンの腹には、黒々とした100キロ爆弾がつりさげられた。このS01には機銃は装備されていない。爆撃に特化した機体とはいえ、普通爆撃機にも最低限の機銃は装備されているものだ。しかし、100キロ爆弾となると、バランスをとるために翼の下や、腹の脇につけることはできず、腹の直下につけることになる。そうなると、機銃をつける場所がないのだ。
S01での爆撃作戦に優秀な護衛が必要な理由はそこにあった。向かってくる、敵の戦闘機に対しては、丸腰で攻撃する術をもたない。
このシュルーケンは、どこかユリウス自身にとても似ていた。
「ザルツハイム二飛、本当に大丈夫なんですか? 昨日の今日ですよ」
「大丈夫。ここは戦場で、最前線だってわかっています」
アーレが心配して声をかけてくれたが、ユリウスは自分の置かれている立場をよくわかっていた。そばにいたアルベルトが、ユリウスのそんな答えを聞いて、頭を撫でてくれた。ここは戦場だというのは、いつも楽観的で陽気なアルベルトがいざという時に口にする言葉だったからだ。ともに戦場をともにしていたからか、知らず知らずのうちに、その口癖がユリウスにも移ってしまったのだろう。
今日の作戦が大掛かりなものになることは、この基地の面々には予想がついていた。夜が明ける前から、整備士たちが起き出して、使える限りの機体の整備をしはじめたからだ。普段は偵察にしか使っていないような機体までも、機銃の整備に余念がない。
駐機場にキリエ・ツェッペンベルグの姿が現れると、その場にいたヴェストホーフェン基地の操縦士全員が揃って敬礼した。
「本日の作戦を伝える」
キリエの声は、女性としては低く、腹に響く。軍にあって女性の司令官は非常に珍しいが、このリヒテン・ライヒ空軍唯一の
「南西、メンメルト諸島に駐留している敵艦を爆撃する。なおこの敵艦は、ノイエ・デモクラティアの新鋭艦とみられ、甲板に滑走路を持ち、艦上に二十数機の小型戦闘機を有している」
ユリウスたちが集めてきた情報に、場がざわついた。戦艦の甲板に滑走路があるなど、にわかに信じられないのだろう。ユリウス自身も、その目で見ていなければ、信じられなかったかもしれない。昨日、官舎の廊下で仲間の言葉をばかにしていた兵士のように。
キリエが軽く手をあげると、また、水をうったように駐機場は静まりかえった。
「一個中隊は先行し、この小型戦闘機を惹きつけ、空に釘付けにしろ。爆撃部隊にかすり傷ひとつあたえるさせるな。爆撃にあたるのは、三個小隊とする。うちティーゲルハイト小隊は、敵艦動力部に対して爆撃。海に沈めてやれ」
「了解!」
キリエの命令に対して、一斉に敬礼でかえした。
その場で解散すると、あっと言う間に駐機場が慌ただしくなった。まずは先行する中隊が離陸していく。
「ザルツハイム、朝食は取ったのか?」
そう、聞いてきたのはオスカーだった。自分はカールにもオスカーにも食事のことばかり心配されているような気がする。
「いえ、今朝は…」
今朝というより、昨日の夕食もだ。胃がよじれたようになっていて、とても固形物を受け入れられるような状態ではなかった。しばらくは水を飲んでも吐き戻してしまうほど、酷い状態だった。
「そうか。おれも経験したことがあるからな。こういうときは食べないのが一番だ」
食べていないことを心配されたのかと思っていたが、無理をして食べてしまっていないかを心配されていたようだった。
「複座ならともかく、単座のS01に乗っていて、具合が悪くなっても助けてやれない」
オスカーはそう言うと、ユリウスの背中を軽く叩いた。口から出たことばとは違って、その手には温もりがあった。これが、オスカーなりの優しさなのかもしれない。
「少尉は、これまでに誰かを載せて飛んだことは、おありなのですか?」
「……ある」
少し考えてから、オスカーはそう答えた。まえに自分は戦闘機乗りだと言っていたが、複座の戦闘機もないわけではない。そういう機体に乗っていた時期があるのかもしれなかった。
「ティーゲルハイト小隊、L27から離陸お願いします!」
遠くから、離陸順を管理している兵士が声をかけてきた。オスカーはマフラーを首元にまきながら、自分の乗るL27の方へ走っていった。
「水は飲んでください」
アーレが渡してきたのは水筒だった。
本当なら座席にこういったものを持ちこむのは禁止されている。もし、こぼして電気系統にでも滴が落ちたら、それこそ致命的なことになりかねないからだ。そのことをよくわかっているアーレが敢えて、ユリウスの座席の脇に水筒を無理矢理つっこんだ。
「昨日から、飲まず食わずなの、わかってるんですからね」
アーレはオスカーとは反対に、ユリウスが何も摂っていないことを心配してくれているのだ。
「出撃ですから、無理に食べろなんて言えません。でも水分は取らないと脱水症状を起こします。それでなくても、上空の空気は乾燥しているんですから、なおさらです」
「ノイマン曹長は、飛んだことがあるのですか?」
整備士として曹長にまで昇進しているアーレが、そこまで操縦士のことに詳しいのが意外だった。
「あれ、言ってませんでしたっけ。わたしも飛行学校の卒業生ですよ。その後、急に視力が落ちてしまったので、結局、実戦に配備されることはありませんでしたけど。一応一通りの操縦はできますよ」
アーレはちょっと自分の眼鏡に手をやってそう答えた。
リヒテン・ライヒ空軍では、操縦士として登用されるために必要な視力が厳格に定められている。一度空に上がれば、ある意味、信じられるのは自分の目だけだからだ。
「ザルツハイム二飛の視力がうらやましいですよ。ん? 二飛、ちょっと眼が赤いですね」
「昨日、無理をしたから……」
「疲れて充血したっていうより、瞳自体が赤く見えるんですけど…。大丈夫ですか?」
「もともと私の眼は黒じゃなくて、暗い赤なんです。光の加減でそう見えるんだと思います。いつも通りです。問題ありません」
「そうなんですか…。その明るい髪の色に黒い瞳って珍しいと思っていたんですが、暗い赤ってなるとさらに珍しいですね」
話し出すとついついおしゃべりが続いてしまうアーレの言葉を遮るように、遠くから、年配の男のだみ声が遮った。
「おい、ノイマン! L27はとっくに上がってるぞ! そのS01もとっとと離陸させんか!」
「いけない。シュナイダーのおやっさんだ。それじゃあ、御武運を!」
アーレは、操縦席の脇から飛び降りると、車輪止めを外し、敬礼した。
S01のエンジンが軽快な音を立てて回り始める。いつもながら整備は万全だった。
作戦目標の海域となっている、メンメルト諸島は、ヴェストホーフェンからは、目と鼻の先だ。キリエが危惧するように、このあたりをデモクラティアに押さえられてしまうと、ヴェストホーフェン基地は、基地たる意味を保てなくなる。
何としても、ここで叩いておく必要があった。
これほどの機体の数が一つの作戦に投入されたのは、ユリウスが配属されてからは、初めてのことだった。前を征く友軍機の勇壮な姿を目にして、ユリウスは誇らしい気持ちがわきあがってきた。
このリヒテン・ライヒ空軍がある限り、わたしたちは負けない。
そう、感じた。そう感じようとしているのかもしれない。そうしないと、毎日のように掲示板に張り出される官報の嘘に押し潰されてしまうから。
おそらくユリウスに残された時間は多くはない。
搭乗前にアーレに、眼の色が赤いと指摘されたことがユリウスに重くのしかかっていた。
眼の変色が始まると、徐々に視力が落ち、やがて失明する。
それは、ユリウスが飛行学校に入る前から、告げられていたことだった。
「ザルツハイム、何か見えるか?」
物思いに沈んでいた時間はわずかなはずだ。きっと、小隊の皆には気取られてはいない。ユリウスの眼が特別だからこそ、このS01シュルーケンでの任務が自分に与えられている。眼のことは、絶対に誰にも知られてはいけない。
ユリウスの眼には、前方にうっすらとメンメルトの島影と豆粒のような敵の艦影がみえた。
「前方、敵艦あり。西メンメルト島の岩壁脇に駐留しているようです」
「あいかわらず、ユリウスには驚かされるね。この距離で艦影が判別できるなんて」
アルベルトは、無線を介してそう褒めてくれたが、ユリウスは、自分の視力がこれまでよりも落ちていることを感じていた。曇り気味の今日の天気のせいだけではなく、自分の視界が暗く感じる。
それでも、まだ見えている。
「敵、戦闘機上がってきます」
先行していた中隊が、敵軍の警戒域に差し掛かったのだろう。敵艦の甲板から次々と、戦闘機が離陸していく。ユリウスは、離陸する瞬間をつぶさに見ることができた。あの短い滑走距離で離陸できるというのは、戦闘機自体の性能も高いのだ。短い距離でも揚力を十分に確保できているからこそ、あの甲板にある滑走路からでも空に上がっていくことができる。
小さな黒い点が、こちらに向かってくる。ユリウスはそれを声を出さずに数えた。
「上がってきたのは、ほぼ全機ではないかと」
「そうでなくては困る。こちらも、動けるほぼ全数をこの空域に投入しているんだ」
オスカーはそう答えると、高度をあげるように指示をだした。乱戦となっている空域を上から回避しようというのである。
「幸い的は大きいからな。高度があっても、ユリウスの腕なら、問題なく爆撃できるだろう」
アルベルトが茶化すようにそう言ったが、その意見にはユリウスは反対した。
「敵艦上空では、高度を落とすべきです。動力部に確実に投下するためには、そのほうが」
「確かに、一理ある」
オスカーは、敵艦の上空に直接でるのではなく、高度をあげつつ、西メンメルト島の裏側へいったん抜けた。西メンメルト島は、低い山が台地のように連なっている特殊な地形だ。そして敵艦は、岩壁近くに駐留しているため、死角ができているのだ。
ティーゲルハイト小隊は、作戦行動のときでも、独立した動きを認めらている。S01シュルーケンの爆撃を成功させるために、空に上がった後のことは、オスカーに一任されているからだ。それだけ、キリエ・ツェッペンベルグの信頼が厚いのである。
『あいつは、ヴェストホーフェンにこだわらず、空軍本部にでもいけば、すぐに大尉にだってなれるさ』と言ったのはアルベルトだった。オスカーはキリエの信頼を裏切ることなく、ヴェストホーフェンから軍籍を動かすのを良しとしなかった。そしてその言葉を言った、アルベルトもまた、親友の側から離れはしなかった。
ユリウスにとっても、このヴェストホーフェンはとても居心地が良い場所だった。
戦争という時間の中でも、温かなものが確かにあると感じている。
いつのまにか、ここが、特別なものになってしまっていた。
「ザルツハイム! 高度が下がり過ぎだ。編隊に戻れ」
オスカーの声が無線から聞こえる。
S01は西メンメルト島の地面ぎりぎりを飛んでいた。この島は全体が台地になっており、海面からはかなりの高さがある。そのため、島の地面ぎりぎりを飛ぶことで、島の縁の崖沿いに駐留している敵艦からは、完全に死角になるはずだ。
それでも、あまりに地面と近いと失速する恐れがある。それをオスカーは指摘したのだ。
ユリウスは編隊には戻らなかった。崖の縁がすでに見えている。あの下には敵の母艦があるはずだ。そこにこのS01が抱えている爆弾を投下する。それだけを考えていた。
「ユリウス! 高度をとれ。敵艦の直上機銃の餌食になるぞ!」
カールの声も聞こえる。
敵艦は真上を攻撃するために垂直方向に放つ機銃を装備している。それはわかっていた。ユリウスたちが偵察機で見てきた情報なのだから、誰よりもわかっている。
それでも、ユリウスは、地面すれすれでの滑空を続けた。
地面が切れて、海上へでた。
真下には敵母艦。
「ザルツハイム!」
そのオスカーの声とかぶるように、敵の機銃が、S01を狙って火を噴いた。
その機銃の間を縫うように、敵艦に向かって急降下していく。狙いは、艦橋の後方。艦橋そのものを狙うより、機関室があるはずの場所を狙うほうが、成功率が高い。
さすがに何発か、S01の翼に敵の弾を喰らったが、堕ちるほどではない。敵艦の艦橋の鼻先をS01がすり抜けていく。艦橋にいる敵軍の将兵たちの驚いた顔が、風防ごしに見えた。あの者たちにしてみれば、敵の爆撃機が自爆覚悟で突っ込んできたと思ったに違いない。
この角度そのまま甲板に突っ込めば、確実にS01は爆発するだろうと思われたその瞬間、ユリウスは、100キロ爆弾を切り離し、至近距離から敵艦の機関部上部に叩きつけた。
爆発までのほんの数瞬のすきに、まるでツバメが滑空するように、身軽になったS01シュルーケンは洋上に回避する。海面に波しぶきを立てながら、それでも、着水は免れ、ふたたび空に上がろうとする。
そして、その背後で、大爆発が起きた。
その爆風に押されるように、S01は上空に浮き上がった。
ユリウスは、上昇していくS01シュルーケンの操縦席で大きく息をついた。
これで、作戦は、終わったのだ。
「作戦失敗、これより帰還!」
オスカーの声が無線機から響く。
ユリウスは、オスカーが言った言葉が理解できなかった。さっき、自分は至近距離から、100キロ爆弾を敵艦に投下した。あの爆風ならば、敵の艦体に大穴があいたはずだ。ほどなく浸水して、この海に沈んでいく。そのはずだ。
「ユリウス、甲板がへこんだだけだ。穴はあいてない」
アルベルトが淡々とした声でそう告げた。上空からみているアルベルトがそう言っている。
ユリウスは、徐々に高度をあげ、上空で待っていた、ティーゲルハイト小隊の元へ合流しようと、操縦桿を右に切った。
そのとき、敵艦の状況が目にはいった。
確かに、盛大に煙があがっている。炎も見える。しかし、甲板はいくらか陥没したように見えるが、どこも浸水したような様子はなく。艦自体は、いまも悠々とその姿を保っている。
「当たった……のに?」
「ああ、ユリウスが投下した爆弾は命中したさ。しかも、あの至近距離だ」
「そんな…」
「装甲の厚さが、これまでとは桁違いということか」
アルベルトの声を遮るように、オスカーからの指示が入る。
「S01の爆撃行動が終わった時点で、成否は問わず、この小隊の任務は完了だ。帰還する」
それは、S01の弱点でもある。100キロ爆弾を搭載するため、十分な量の燃料を給油しておくことができないのだ。作戦が終わり次第、できるだけ早く基地へ帰還する必要があった。
ユリウスは、まだ、爆撃の失敗を受け入れることができないまま、護られるれるような編隊飛行で、緩やかに旋回していった。
まだ、友軍機は、上空で戦っている。堕ちていくのは、リヒテン・ライヒの機体のほうが多いようだ。
旋回を終え、機首がヴェストホーフェン基地の方向を向いた瞬間、ユリウスの背に冷たい汗が流れた。
「ヴェストホーフェン基地から、煙があがっています!」
「なんだと!」
「間違いありません!」
基地から上がっている煙は、一本や二本ではなかった。空からか、陸からか、それはわからないが、とにかく襲撃を受けていることは間違いない。
「早く帰還しなければ!」
ユリウスの焦る声に対して、オスカーは異なる結論を出した。
「……マールスフェルト基地へ向かう」
「何故ですか?! ヴェストホーフェン基地の仲間を見捨てるのですか!」
ユリウスが叫ぶようにそう言った。
「そうだ」
「そんな。ティーゲルハイト少尉の言葉とは思えません! あそこには、ツェッペンベルグ大佐も、ノイマン曹長も! ……我々の仲間がいるんですよ!」
「どのみち、今から行っても手遅れだ」
「納得できません!」
「貴様が納得するかどうかなど、関係ない。隊長命令だ。マールスフェルト基地へ行く」
「オスカー! お前の意図はわかったが、マールスフェルトまで燃料が持つのか?」
「わからん、一か八かだ。もたもたしていると、S01が、燃料切れで落ちる。そんなことになったら、地獄からツェッペンベルグ大佐に怒鳴られる」
オスカーとアルベルトは、ユリウスを無視して、次の行動について話を始めると、ユリウスは、編隊からはずれ、ヴェストホーフェンへと機首をめぐらせた。
ユリウスは、もう、絶対に誰も見捨てないと決めたのだ。
あのヴェストホーフェン基地に赴任したそのときから。
だから、ユリウスは戻らなくてはならない。たとえ、遅きに失してヴェストホーフェンが燃え尽きた後になったとしても。
しかし、S01の前には、カールのL25改があった。
どれだけ、横をすり抜けようとしても、L25改キーリャの尻から抜け出すことができない。S01は爆弾を切り離して、身軽になっている、それでも、前を塞ぐカールの機体をどうすることもできなかった。
「ユリウス、だめだ。ティーゲルハイト少尉の言う通りだ。もし、ヴェストホーフェン基地がすでに敵の手に落ちていたら、そこに着陸したおれたちの機体も、おれたち自身も、敵のものになってしまう。そんなことさせられない」
カールの声は落ち着いていた。ユリウスの感情が激しく高ぶっている分、カールはかえって落ち着いてしまったのかもしれない。
「カールどいて! わたしは帰る。ヴェストホーフェンに帰る! もう、誰も見捨てたりしない」
「おまえの気持ちはわかる。でもな、ヴェストホーフェンに残っている誰一人、おまえが帰還して囚われの身になって欲しいなんて、思っちゃいないんだ!」
「でも、まだ、間に合うかもしれない!」
「だからって、丸腰のS01にいったい何ができる?」
「そんなもの、行ってみないとわからない!」
「行かなくてもわかる! だめだ、絶対に行かせない」
カールのL25は若干速度を緩め、ユリウスのS01との間を詰めてきた。シュルーケンの左右には、オスカーとアルベルトのL27が翼が触れるほどの距離まで詰めている。これでは、まるで両脇を抱えられ、首に縄を懸けられた囚人のようだった。
「マールスフェルト基地だ」
オスカーはもう一度、そう繰り返した。
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