第十二章
「では、閣下。こちらの判断は明朝までにお願いします」
「わかった。下がっていいよ」
リヒテン・ライヒの国防大臣であり大公でもある、ゲオルグ・リヒテンヴァルトは、三十半ばの男盛りで、そして美しい男だった。淡い金髪を長く伸ばし、ゆったりと背に降ろして半ばで一つにまとめている。皇帝の従弟にあたり、皇族からの信頼も厚い。この国難の折り、厳しい国防大臣という職責をこなしているにもかかわらず、ものごしはいつも至極優雅だった。
「少し仮眠をとりたいから、一人にしてもらえないかな」
それを聞いた側仕えのものが、おじきをしてゲオルグの部屋から出て行くと、部屋は静けさに包まれた。
「まさか、帝都に戻ってきているとはね。わたしの寝室に押しかけてくるなんて、何年ぶり?」
「久しぶりだな。リヒテンヴァルト大公閣下」
「以前のようにゲオルグと呼んでもらって構わない。わたしもキリエと呼ばせてもらうよ」
窓辺にあった、カーテンの裏からひらりと姿を現したのは、キリエ・ツェッペンベルグだった。
「わたしもきみに話たいことがあるんだ。だが、まずきみの話を聞こうか。ここまで忍びこんできたということは、わたしに言いたいことがあるんだろう」
「ああ。ヴェストホーフェン基地が陥落したという報告は聞いているな」
「もちろんだ」
ゲオルグは寝台のそばにあるキャビネットから、グラスと酒を取り出した。琥珀色の液体が丸みを帯びたグラスに注がれる。
「単刀直入に言う。わたしを戦場に戻せ」
「なんだ。そんなことかい。わたしとしては願ってもない。この状況を変えられるのは空軍しかないと思っているからね」
グラスを渡されたキリエは、香りを確かめてから一口飲んだ。
「さすがに一流の酒だな。最前線の基地ではお目にかかることもできん代物だ」
帝都でしか手に入らないだろう、極上のブランデーだ。
「それほど戦況は思わしくないのか? ヴェストホーフェンは最前線過ぎて、情報が遅くてな」
「悪い」
ゲオルグも一口酒を飲み、そう言い切った。
「みな、帝都に被害が及んでいないため、実感が伴わないのだ。戦死者を数字としてしか捉えられない者ばかりだよ。この宮廷という場所は」
「おまえも苦労するな」
ゲオルグとキリエはともに航空機の黎明期を支えた技術者であり、操縦者だった。ただ皇族であったゲオルグには自由な人生を送ることは許されず、空軍を作り上げた後、宮廷に戻り政治の世界に身をおいている。いまでは、お飾りの皇帝に変わって、従弟であるゲオルグが国を率いているといっても過言ではなかった。
「この戦争は負ける。ただ、少しでも良い状態で講和条約を結びたい。そのためには、キリエ、きみの力と空軍が必要なんだ」
「……そうか。おまえも変わったな。飛行機を戦争に使うのかとわたしを殴ったのは、おまえのほうだったのに」
「昔の話だ。わたしにはリヒテン・ライヒの民の暮らしがかかっている。おまえの力をかしてほしい」
そう自分に頼み事をするこの男の青い瞳は、あいかわらず綺麗だなと、キリエは少しみとれていた。一緒に空を飛ぶ夢をおいかけていた頃と、淡い金の髪と優し気な目元はかわらない。
ふと横を見ると、夜の闇で鏡のようになった窓に、キリエ自身の姿が映っていた。
若かったあのころに比べて自分は歳をとった。そう、キリエは思った。
「本音をいうと、きみを行かせたくはないよ」
「なにを言っている。今更」
「わかっていると思うけど、わたしは…」
「そこまでだ」
キリエは、指でゲオルグの口を塞いだ。皇帝の従弟と、一介の軍人だ。十数年前の繰り返しをここでしている時間はない。
「ああ、そうだ。ザルツハイム博士が亡命したという話は聞いている?」
話を途中でとめられたゲオルグは、違う情報を持ち出した。
「聞いていないが、想像はついていた。ヴェストホーフェン基地を襲撃したのは、子どもに操縦させた爆撃機だ。ユリウス・ザルツハイムと同じだな」
「そう。でも、何人かはすでにリヒテン・ライヒの飛行学校に入っていた。ユリウスという子もそうだったね」
「ああ、なかなか優秀な操縦士だ。S01シュルーケンに乗っている」
「ねえ、キリエ。いま飛行学校に通っている子に会ってみたくはない?」
ゲオルグは思わせぶりに笑いかけた。キリエはこの男のこの笑った顔が、大嫌いで大好きだった。
ユリウスが、ハインツの話を聞いてから数日後、S01シュルーケンの修理が終わった。しかし、ユリウスはもうシュルーケンの格納庫にはいかなくなっていた。まるで魂が抜けたようにベッドに腰をかけたまま過ごすだけの日が続いていた。
「ユリウス、おい、ユリウス! 投げるぞ、取れ」
そう言って、カールが食堂でくすねてきたリンゴをユリウスに向かって投げた。ユリウスはぼんやりとカールのほうを向いたが、りんごはユリウスの額に直撃した。
床に転がったリンゴをカールが拾い、軍服で拭いて埃を取ると、ユリウスに差し出した。
「食えよ」
「……」
「いい加減、手をやかせんな。食えよ。これ以上痩せたら、ティーゲルハイト少尉もさすがに搭乗させてくれないぞ」
あれからほとんど食事に手をつけることができなくなっていたユリウスは、窶れて行く一方だった。整備の合間に顔をみせてくれるアーレにも随分心配をかけている。それは、ユリウスにもわかっているが、どうしても、食事が喉を通らないのだ。
「もう、飛ぶ必要ないから…」
もし、オスカーがS01に乗せないと言っても、それは仕方のないことで、もうユリウスには関係ないことだ。ユリウスには、もうシュルーケンに乗って戦う理由がなくなってしまったから。
「なあ、ユリウス。おれは、おまえを精一杯護ってきたつもりだ。違うか?」
「うん、いままでありがとう」
「そう言う言い方やめろ。おれは、おれたちは、おまえを護ってきた。おまえは、おれたちを護ってはくれないのか?」
「……?」
「S01シュルーケンの活躍で、どれだけおれたちが救われてきたか。そのことにおまえは胸を張っていい。そして、これからもおれたちを護ってくれ。そう、思うことはできないか」
「……カール…」
「なんか、見てられないんだよ。妹のことは辛いだろう。おれには下に妹がいないから、気持ちがわかるのかって言われてたら困るけど。家族を失った痛みはそんなに簡単に消えるものじゃない。でも、おまえには、まだ仲間がいるだろう。護るものも、帰る場所もあるんだ」
ユリウスの紅くなってしまった眼から、一滴涙が零れ落ちた。一度涙が溢れるととめることはできなかった。
「泣けよ。いっぱい泣いて、泣いて泣いて。それから、また、もう一回、空に行こう」
どのくらい泣いていたかわからない。気が付いたら、カールの軍服はユリウスの涙でぐっしょりと濡れていた。
「ごめん、拭くもの探してくる…」
「いいよ。そのうち乾くって」
「ザルツハイム二飛、シフェラー二飛ここだったか」
オスカーが部屋に入ってくると、ふたりに対して敬礼した。ふたりも慌ててベッドから立ち上がり敬礼を返した。後ろからアルベルトも姿を現し、敬礼をする。何か正式な通達があるということだ。
「われわれ、ティーゲルハイト小隊に辞令がでた。ノルトシュットランド基地へ異動だ。明日それぞれの機体に搭乗し速やかに移動する。尚、旧ヴェストホーフェン基地所属の整備兵は、輸送車にて、ノルトシュットランド基地へ向かうこととなった」
S01シュルーケンもL25改キーリャも整備を終えたばかりだ。この時期を見計らっての異動というのは、きっと含むものがあるはずだ。
「ちなみにこの命令を打電してきたのは、ツェッペンベルグ大佐、いや少佐だ」
「なんだって!」
オスカーの持っている電信用紙をアルベルトが横から奪う。
「良かった! やっぱり無事だったか。そう簡単にくたばるはずはないと思っていたが」
「基地の上層部の噂では、ヴェストホーフェン基地陥落の責を問われ、帝都の国防大臣の怒りを買ったらしい。それで二階級降格になったと」
「わざとだな…」
アルベルトが天を仰いでそういった。
「わざとだ」
オスカーもそれに同意した。
「シフェラー二飛。おまえには、ツェッペンベルグ少佐から直々に電信がきていた。渡しておく」
そう言って、オスカーから電信用紙を渡されたカールは、その文字を見た瞬間顔色が亡くなった。ユリウスがその手元を除き込むと、こう書かれていた。
『キーリャをキズモノにしたらしいな。そろそろ、返してもらおう。キリエ』
オスカーは、同情してカールの肩を軽く叩いた。
「とりあえず、ノルトシュットランド基地まではL25改で飛んでくれ。向うの基地でおまえには別のL27が準備してあると聞いている」
「あ、あの、これ…。おれ、L25改でノルトシュットランドへ行って、本当に大丈夫なんですか」
「冗談だろう。気にすることはない。誰かがL25改に乗っていかねばならん。おまえしかいない」
オスカーが言ったその横で、アルベルトが話を継ぎ足した。
「冗談なのは半分だけだろう。まあ、ちょっと覚悟はしておけ」
久しぶりにS01シュルーケンに乗って、空に上がった。
もう、二度と飛行機に乗らないと思ったはずなのに、やっぱり空は青く、美しかった。
護るものも、帰る場所もあると言われたことが、心の支えになっていた。それは、ユリウスとシュルーケンが積みかさねてきたものがあったからこそ、手に入れられたものだった。
久しぶりに空に上がって、ユリウスは自分の視力が随分落ちていることを自覚した。普段の生活には支障はなかったが、こうやって上空から地上を見おろすと、これまで見えていたものが、ぼんやりと霞んでみえるようになってしまった。それでもまだ、普通の人間よりは、見えてはいるのだろうけれど。
内陸にあるマールスフェルト基地とは違い、ノルトシュットランド基地は、もとは海軍の軍港のあった基地だ。空軍しか駐留していなかったヴェストホーフェンよりも規模は大きいが、数年前の大空襲で、その基地機能のほとんどは使われていない。空軍の一部の部隊だけが、この基地を使うことになったと聞いていた。
基地に近づくと、いくつも滑走路があるのがわかったが、手旗信号を持っている整備兵がいるのはひとつだけだ。よく見ると、ほかの滑走路には、ところどころ草が生えている。手入れされずに放置されていたのだろう。
「三番滑走路に降りろ」
無線の向うから聞こえてきたのは、キリエの声だった。
「ツェッペンベルグ少佐!? どうして?」
「急ごしらえの基地で人手が足りん。手が空いている人間が管制をしているだけだ。後がつかえているぞ。さっさと降りんか!」
「了解!」
S01シュルーケンが、滑らかな走りで着陸すると、すぐに場所を空ける。次々と旧ヴェストホーフェン部隊が着陸していった。
格納庫はまだ使えないため、駐機場に並べることになった。
「整備兵が到着するまで、自分たちでなんとかするしかないな」
アルベルトがそう言うと、ユリウスはうなづいて、シュルーケンの胴体を撫でた。整備の基本は、アーレに叩き込まれた。大きな損傷でもない限り、自分で面倒をみることはできる。
管制塔から、歩いてくる人影に気付いて、みな敬礼を取った。オスカーがキリエに向かって報告する。
「ティーゲルハイト小隊、ノルトシュットランド基地に着任いたしました」
「うむ。ご苦労」
キリエも敬礼を返した。
「シフェラー二飛。キーリャに星をつけてくれたらしいな」
「はっ。申し訳ありませんでした。情けなくも、敵機の銃撃を受け、翼に穴を空けました。…え? 星?」
「尾翼に、小さな星が、六、七、八つか。マールスフェルト配属の短期間で大した戦果だ」
もともとL25改の尾翼には、
「訓練ではなく、戦場へ出撃しているんだ。被弾くらいするだろう。よく堕とさずにいてくれた。礼を言う」
「ツェッペンベルグ大佐…」
「大佐ではない、少佐だ。悪いが、キーリャは返してもらう。おまえには代わりのL27を用意しておいた」
「ありがとうございます」
ようやく、カールは肩の荷がが下りたようで、ほっとした様子を見せていた。そして、L25改キーリャの側には、ひとりの男の陰があった。
「シュナイダー曹長!」
「おお、ツバメっ娘か。あいかわらず小さいな」
「ご無事だったのですか!」
「当たり前だ! キリエがこいつに乗って、出撃するっていうのに、悠長にあの世に行ってるわけにいかんだろうが!」
グスタフが豪快に笑うので、ユリウスもつられて笑ってしまった。笑った後で、気がついた。
「ツェッペンベルグ少佐が、出撃されるのですか?」
「やはりそうか…」
「やっぱりな…」
オスカーとアルベルトが、呆れ気味にうなづいていた。どうやら二人は最初からわかっていたようだった。
「さすがに大佐で基地司令官となると自由がきかんのでな。基地の司令官は暇そうな爺を寄越してもらった。これからはわたしも出撃する」
ひとりの操縦士として出撃できる、ぎりぎりの階級が少佐なのだ。もちろん基地陥落の責任による降格はあり得る話だ。しかし、二階級というのは、厳罰にすぎる。おそらくキリエのほうから、少佐に戻せと国防大臣あたりにねじ込んだに違いない。そう、オスカーとアルベルトはわかっていたのだ。
「それから、紹介しておく。新しくティーゲルハイト小隊に配属する、クラリス・ソフィア・ツェッペンベルグ准飛だ」
キリエの後ろから、ユリウスよりもさらに小柄な少女が顔をだした。
「彼女はまだ飛行学校の訓練兵ではあるが、成績優秀につき、准飛として作戦行動に参画する。ティーゲルハイト小隊の爆撃任務は今後、二機体勢とする」
ユリウスには、キリエの説明は少しも頭に入っていなかった。
「クラリス…?」
「そうだよ、お姉ちゃん…!」
敬礼をしているクラリスの目にもすでにいっぱい涙が溜まっていた。
「クラリス、クラリス、クラリス!!!」
ユリウスは敬礼を忘れて駆けだすと、妹の体を抱きしめた。やわらかくて、温かい、あの懐かしい匂いは変わっていなかった。
「ごめんね。あのとき、置き去りにしてごめん。あんなに酷い火傷を負わせてしまって、ごめん。研究所で怖い思いをさせて…」
「お姉ちゃん、もう、謝らないで…」
「でも」
「わかっていたよ。お姉ちゃんがいつもわたしのことを護ってくれてたって。だから、もう謝らないで」
「クラリス…!」
もう、ユリウスに涙を止める術はなかった。
「ザルツハイム二飛、飛行服を脱げ」
突然、キリエがそう言った。あまりに突然のことで、意味がわからなかったが、上官の命令である。ユリウスは、飛行服のボタンを外し、上着を脱いだ。中は官給品の袖なしの白い下着だ、
キリエはユリウスの背にまわり、肩甲骨のあたりの布をよけると、後ろからユリウスを抱きしめた。
「ジゼラ…!」
聞いたことのない名前で呼ばれたユリウスは、状況がわからず、妹に助けを求めた。
「お母さん、なんだよ」
「…!?」
ユリウスの背中、肩甲骨のあたりには、生まれつき花びらのような痣があった。それが、キリエの娘の証だというのだ。
「誘拐されたんだ。おまえたちの父親のまわりには、ろくでもない奴が山ほどいて、そのうちの誰かに誘拐された。どれだけ探しても見つからなかった…」
キリエは、ユリウスとクラリスを抱きしめて、涙を流していた。
ふたりの父親は、ゲオルグ・リヒテンヴァルトだった。しかし、婚姻関係にはなかった。ゲオルグと自分の娘を結婚させようと画策した何者かが、隠し子であったふたりのことが邪魔になり、誘拐し路上に捨て去ったのだ。
キリエは、長い歳月、探し続けたが、諦めかけようとしていた。しかし、やはりふたりのことを探し続けていたゲオルグが、ザルツハイム研究所から飛行学校へ入った、クラリスの足取りを掴んだのだった。
「ジゼラ。わたしがつけたお前の名前はジゼラだ」
「ジゼラ…」
「突然そう言われても馴染めないだろう。そのままユリウスと名乗って、ミドルネームにするといい。ただ、そのザルツハイムという姓は捨てなさい。胸糞悪い爺の名だからね」
「了解」
「親子でその返事の仕方もどうかと思うが…」
そう言って、キリエも涙を拭いた。
「ユリウス・ジゼラ・ツェッペンベルグ。今日から、それがおまえの名だよ」
キリエはもう一度、ユリウスのことを強く抱きしめた。
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