渋谷駅の共犯者 第1回


一、


 大正十四年四月十四日、午後八時。東京・しぶ

 うえひでさぶろうは自宅の広間で、四人の学生、三人の技手と共に食事をとっていた。開け放たれた障子の向こうには広い庭が見える。春の風が心地よい。

「それにしても先生、ハチ公が元気そうで何よりでした」

 学生のうちの一人が英三郎に酌をしながらにこやかに言った。

「暴漢に殴られたと聞いたので心配しておりました」

「暴漢ではない。スリだよ」

 英三郎は苦笑いを返す。ハチ公というのは英三郎の膝に顎をのせ鼻を鳴らしている秋田犬である。昨年、秋田の知り合いのところで生まれたものを汽車で運んでもらい、飼いはじめたのだった。一年経った今では体もすっかり大人になり、英三郎によくなついている。

 英三郎は東京帝国大学農科大学(後の東京大学農学部)の教授である。週のうち四日、こまの学校に徒歩で通っているが、ハチもそこへついていく。講義のあいだは教授の座っている教壇のすぐ脇に行儀よく座っており、ときたま英三郎はポケットからビスケットを出してハチに与えるのだ。講義にまで同伴させるその可愛がりっぷりに、初めは学生たちも戸惑っていたが、今ではハチは学生のあいだですっかり人気者である。教授の犬なので呼び捨てにするわけにもいかず、学生たちは「ハチ公」と呼ぶのだった。

 そんなハチが、昨日、渋谷駅改札前の広場で、乱暴者のスリに殴られた。

 英三郎は週に一度、駒場へ行く代わりに西にしはら(現・東京都北区)の農事試験場に通って農機具改良の研究をしている。行き帰りにはやまの線を使うが、さすがにハチは電車にまでは同乗できない。朝、渋谷駅の改札までついてきて見送ってくれ、帰りは必ず改札前で英三郎を待っているのだ。

 昨日も、いつもと同じく午後六時ごろ、英三郎は他の客と共に改札を出た。市電とたまがわ電車との連絡駅でもある渋谷駅は普段から人が多く、特に夕刻の改札前広場は祭のようにごった返す。まんじゆうや焼き鳥を売る店も出ているくらいである。

 人ごみの向こうから「上野先生」と声をかけてくる者があった。顔見知りの年老いた駅員であった。週に一日駅を使うことから挨拶をするようになり、時間に余裕があるときなどは二言、三言、会話も交わす。向こうは英三郎の名前も素性も知っているが、英三郎は駅員の名前を知らない。

「おかえりなさい。まだ春だっていうのに、暑いですねえ」

「本当ですねえ」

 と英三郎が応じたそのとき。わん、わん! ハチが吠えながら駆け寄ってきた。そして、英三郎のすぐ背後にいた人にとびかかっていった。

「どうしたんだハチ、やめなさい!」

 英三郎は止めたが、直後にとびかかられているその人物の左手が、見覚えのある風呂敷包みを握っていることに気づいた。慌てて自分の持っている鞄を開く。やはりだ。試験場から持ってきた貴重な資料を包んだものだった。

 ハチは男の着ている紺がすりの袖に嚙みついていた。頰かむりをしたその男は振りほどこうと必死だったが、風呂敷を持っていないほうの手を拳にし、ハチの頭に思い切り振り下ろした。

 ぎゃん! ハチは男から離れ、よろめいた。

「ハチ!」

 たまらず英三郎はしゃがみこみ、その首に抱き着いてかばった。振り返ると男は、風呂敷を小脇に抱え、さっささっさと機敏に人波をけ、みやますざかのほうへと走り去っていったのだ。

 英三郎はすぐに派出所に被害届を出した。すぐに渋谷署から刑事が駆け付け、一部始終を見ていた老駅員とともに聴取を受けた。英三郎は慌てていてあまり犯人のことを見ていなかったが、老駅員は「犯人の右手は人差し指と中指が欠けていました」と重要な証言をした。

 そんな特徴があるならすぐにスリは見つかり、資料は戻ってくるかもしれない。英三郎の期待もむなしく一夜明けても犯人逮捕の報はなかった。幸い大きな怪我のなかったハチだが、昨日の今日で出歩かせるのは気が引け、妻に預けて一人で大学へ行った。

 英三郎は大学で同僚や学生に昨日のひどい体験を話した。

「ハチ公の見舞いに行かせてください」

 いつも英三郎の周りにいる学生たちは心配し、ぞろぞろと押しかけてきたというわけだった。そればかりか、農事試験場で英三郎の手伝いをしている若い技手たちも噂を聞きつけ、英三郎を気遣ってやってきた。おかげで上野家の広間は今、若い研究技手と学生の交流の宴席のようになっているのであった。

「しかしスリのやつもあとで風呂敷を開いて面食らったんじゃないですか。金目のものかと思ったら、むつかしいデータの羅列された紙束だったわけですから」

「笑い事じゃないよ、君」

 茶化した学生を、技手の一人がたしなめた。

「三年半にわたる研究のデータが消えてしまったのだからね。データというのは農事研究者にとって命の次に大事なものだ」

「すみません……」火に水をかけたように彼はしょげ返る。

たかはし君が謝ることはない。もともと、私が不用心だったのが悪いのだ」

 せっかく見舞いに来てくれた学生にこんな思いをさせてはならんと、英三郎は場をとりなす。

「結果はだいたいわかっているが、農林省への報告書に添えるデータはまた取り直さなければならないだろう。技手の皆にはすまないことをしたと本当に思っているんだ」

「謝らないでください、先生」

「そうはいかない。詫びの代わりにはならんが、今夜は存分に飲んで帰ってくれ。……ところで、やまぐちくんはどうしたんだ。いつもなら一緒に来るだろう?」

「ああ、かんのほうに今日中に返さなきゃいけない本があるといって、今日は来ないそうです」

「そうか」

 山口は今年の一月に試験場に入所してきた、英三郎が特に目をかけている技手である。にぎりめしを思わせる坊主頭で、笑顔は少年のようだが、勉強も研究の手伝いも誰よりも一生懸命なのだった。

「あなた、いいですか」

 声がしてふすまが開かれる。妻が立っていた。

「お客様ですよ」

「ひょっとして山口君か? やっぱり神田は今度にしてやってきたのではないかね。上がってもらいなさい」

「いえ、渋谷署のさんという方です」

 警察──? 学生たちのあいだに走る緊張をやわらげるように笑みを浮かべ、英三郎は立ち上がった。

「昨日の事件で世話になった刑事さんだ」

「ひょっとしてスリが捕まったのでは?」

「そうかもしれん。ちょっと行ってくるよ」

 英三郎は部屋を出た。

 玄関の脇の部屋が応接室になっている。入ると、多田はソファーに座って待っていた。

「これは刑事さん、わざわざご足労ありがとうございました。見つかりましたか」

「いえ」

 その一言で、不機嫌らしいことがわかった。

 そもそも、昨日英三郎に聴取をしているときから、この刑事の態度は冷たかった。被害者であるにもかかわらず、いわれない敵意を抱かれていることを英三郎は感じている。

「先生、あなたはずいぶんと面倒なことをしてくれましたな」

 多田はため息交じりに言った。

「はて。身に覚えはありませんが」

「今日、大学でスリのことを同僚に話したでしょう。帝大の人たちというのは存外、おしゃべりなものですな。教授たちのあいだで話が広まったと見え、ついに警視庁の、とある帝大出身の警視の耳にも届いたようです。わざわざうちの署長の自宅に電話をかけてきて、『東京帝国大学の教授から資料を盗むなんてけしからん、渋谷署は総力を挙げてそのスリを捕まえよ』と、受話器越しに鼻息がかかる勢いでまくしたてたそうで」

「なんと……!」

 帝大の卒業生のつながりが広いことは知っている。だが噂がこうもすぐに広まるなど、英三郎は思っていなかった。

「それだけならまだいいのです」多田は続けた。「犯人の右手に人差し指と中指がなかったことを知った警視は、『そりゃ明治のころにスリの集団が裏切り者にしていた仕打ちだ。明治のスリのことなら明治のスリに訊くがいいだろう。担当刑事をがも刑務所に派遣し、心当たりがないかたてぎんに訊ねるんだ』と、こんなことを署長に命じたそうなのです」

 仕立屋銀次。英三郎ももちろん、その名は知っていた。

 明治時代、日本はスリの天国だった。祭や見世物、汽車の中など、人の多いところには必ずスリがいて、財布や時計、眼鏡といった金品を人々がられるのは日常茶飯事だった。スリたちは盗った品を滞りなく金に換える仕組みを整えるため、組を作った。あさくさからしんばしあたりを縄張りとしていた仕立屋銀次のスリ団が東京では最も有名で、銀次の下には一時期五百人ほどの子分がいたとも聞く。

 スリ団は日ごろ警察や駅員に袖の下を渡し、仕事をやりやすくしていたが、明治四十年代になって警察人事が大きく変わったころから取り締まりが厳しくなり、ついにスリ団は余すところなく解散させられた。仕立屋銀次が捕まった記事を新聞で読んだのは、明治四十二年だったと英三郎は記憶している。

「馬鹿馬鹿しい提案でも、帝大出の警視の言ったことなら守らなきゃなりません」多田は忌々し気な顔で話を続けている。「署長の命を受けた私は先ほど巣鴨刑務所へ出向き、仕立屋銀次と面会をしてきたんです。事件の一部始終を話したら銀次の野郎、何と言ったと思います?」

「さあ」

「被害者の上野英三郎という先生と会わせろと」

「わ、私と?」

 こんなに面食らうことがあるだろうか。明治の東京を震え上がらせたスリの大親分と面会だなんて。

「心当たりがないことはないが、先生に詳しく状況を訊いてみたいと言うんです。被害に遭ったときに持っていた鞄も忘れず持ってこいとね。……どうせ刑務所暮らしの退屈を紛らわすタネぐらいにしか思っていないと思いますがね。とにかく、明日の午後、面会の手はずを整えましたんで、先生には巣鴨刑務所までご足労願います」

「そんな、急に……」

「明日の午後は講義はないのでしょう? ちゃんと調べてありますよ。こっちも、警視じきじきの命なので、いちいち経過を報告せねばなりません」

 多田はソファーから立ち上がり、正面に腰かけている英三郎を見下ろした。

「面倒ですか? 面倒ですよねえ……。この際だからはっきり言っときますがね先生。私は帝大出身のインテリが大嫌いなんだ。勉学はできるのかもしれないが、お高く留まって、現場のことなど何も知らないくせに居丈高に命令をしてくる。もう二十五年も刑事をやっている私にはわかりますよ。先生を銀次に会わせたところで、スリは捕まりません。しらみつぶしに家捜しして、指の二本欠けた男を捜すほうがよっぽどいい。こんな無駄な事態を引き起こしたのは、あんたら帝大出身者の妙な自意識ですよ」

 へっ、と蔑むように笑った。

「明日、三時過ぎに大学に伺います。インテリの尻ぬぐいは、インテリがしてくださいよ」

 見送りは結構、と言い捨て、多田刑事は応接室を出ていった。

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