カリーの香る探偵譚 第1回


 一、


 大正五年一月七日、東京・きようばしちよう

「どうしても探偵になりたいんです。ぜひここで雇ってください」

 いわさぶろうの事務所に入ってきたその青年は、ドアも閉めずに言い放ち、勢いよく頭を下げた。三郎は読みかけの新聞を折りたたんでデスクの上に置いた。

「君、夏にも来たよね」

「はい。覚えていてくださって光栄です」

 青年は目をきらきらさせて、姿勢を正す。君みたいなおかしな若者、忘れるものかね。腹の中で三郎は言った。

「たしかの学生さんだろう?」

「はい。早稲田大学政治経済学科二年、ひらろうであります」

 そうそう、そんな名前だった。部下のやまぐちが開けっ放しのドアを迷惑そうに閉めた。

「まあ、かけたまえよ」

 せっかく来たのだから無下にはできない。デスクの前の椅子を指さすと、平井は嬉しそうに腰かけ、周りをきょろきょろ見回す。そんな落ち着きのない者が探偵に向くものかと、三郎は呆れた。

 警視庁を退職し、この「岩井三郎事務所」を創業したのは明治二十八年の冬のことである。警察では相手にしない個人の素行調査や企業の内偵を行う、日本初の私立探偵であった。新聞広告を出すと、わりと多く依頼は舞い込み、ここ二十年で生活に困ったことはない。

 それでもほとんど日陰を歩いてきたような三郎のことを一躍有名にしたのは、二年前に発覚したシーメンス事件だった。ドイツの電機製造会社が日本海軍の高官に賄賂を贈っていたという、世界が注目した汚職事件であるが、ことが明るみに出る前年の大正二年に、三郎はある人物から依頼を受けてシーメンス社の元社員を尾行していたのである。よこはまからはこ、京都、つる、はては浦塩ウラジオストツクにいたるその尾行の記録は、事件発覚後に裁判の重要な証拠となり、警視庁の総監から激賞を受けた。新聞各社は三郎の活躍を書き立てたのだ。

 私も探偵として雇ってくれませんか? シーメンス事件を境として、事務所のドアを叩いてそんなことを言い出す者が増えた。そのうち見込みありと判断した数人は採用したが、ほとんどは探偵業について勘違いしている志望者であり、それとなく追い返し続けているのだ。

「あの」きょろきょろするのに飽きたのか、平井はおずおずと口を開いた。「夏の面接の結果がまだ届いていないのですが」

 三郎は思わず、脱力しそうになった。

「君は、まだ結果が届くと思っていたのか? 半年も音沙汰がなかったらあきらめんかね、普通は」

「ということは、……ふ、不採用ですか?」

「そういうことだ」

「どうしてです!?」

 興奮して立ち上がるこの学生こそ、勘違い志望者の代表格であった。昨夏、この事務所に面接に来た彼は、今までこんな探偵小説を読んできましたと、三郎のまったく知らぬ国内外の作家の名を経文のように唱え上げ、「推理には自信があります」と強く言い放ったのだ。

「実際の探偵業というのは、探偵小説のようなものではなく、尾行や張り込みが主だ。忍耐力、人に気づかれぬ技、それにこれからは電信機器や自動車を扱う専門技術も必要だろう」

「でも、推理力がまったく必要ないということではないですよね。オーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズのような」

 だからそれがいかんのだと、三郎は嘆息しつつ、デスクの上に折りたたんだままの新聞に目を落とす。

「お願いです。何か課題をください。私の推理力をお見せしますから」

 平井の後ろに立っていた山口が笑った。

「帰りたまえよ。我々はときに命を張る。学生が遊び半分で足を踏み入れる世界じゃない」

「おお、まさにホームズの世界」

 懲りる様子がない。三郎はこの学生に少しばかり興味がわいてきた。いたずら心といってもよかった。

「君、いいかげんにしたまえ」

「山口」と部下を抑え、三郎は先程まで読んでいた新聞を平井に差し出した。「平井くん、このインド人を知っているかね?」

 一面には、一人の恰幅のいいインド人青年の絵がある。

「ラズ・ビハリ・ボース……? 存じかねます。探偵小説三昧で世事には疎いものでして」

 そんなやつに探偵が務まるか、という叱責は押し込めておく。

「インドを英国の支配から独立させようとしている活動家だ。四年前だったか、インドで英国人の総督に爆弾を投げつけた」

「ば、爆弾?」

「ああ。総督は死にはしなかったが大けがを負った。当然彼は指名手配されたが行方不明。ところが昨年の秋になって、日本にいることがわかったんだ。タゴールの親戚だと噓をついて、偽名で亡命していたというわけさ。……タゴールは知っているね?」

「ええと、たしか、世界的な文学賞を受賞した……」

 ノーベル文学賞という言葉すら出てこない。探偵小説以外の文学にはまったく興味がないらしい。

「タゴールのことはまあいい。とにかくボース氏は素性が明らかになったあとも、日本の活動家の支援を得て、あかさかれいなんざかのさる大物思想家の家で暮らしていたんだ。ところが英国大使館はこれに黙っていない。支援者たちにとってはインド独立の勇士だが、英国にとってはテロリストだからね。知ってのとおり、日本は英国と同盟関係にある。ボース氏の身柄を引き渡せと政府に迫ってきた。政府はこれを受けてボース氏の国外追放を決定した。インドではボース氏の同志が何人も処刑されている。日本の外に出ることはすなわちボース氏にとって、死を意味するんだ」

「そ、そんな。どうなったんですか……」

「ボース氏は、消えた」

「消えた?」

「そうだ。国外追放の期限があと数時間と迫った昨年の十二月一日の夜、滞在していた赤坂の大物思想家の家から忽然と姿を消した。家を見張っていた警察官たちは血眼になってその行方を追ったが、それ以降、年が明けた今になってもボース氏がどこへ行ったのかわからんのだ」

 はぁ~と、平井は口を半開きにしている。去年から新聞で大騒ぎしているボースのことを、本当に何も知らないのだった。

「死刑宣告をされたようなボース氏に、世論は同情を寄せている。そして、政府には批判が集まっている。こんな状況で言いにくいが、わが探偵事務所は警視庁の刑事から、ボース氏の行方についての情報を集めるように依頼を受けているんだ」

「そうでしたか」

「どうだ平井くん。もし君が英国大使館にボース氏の居所を突き止めるよう依頼されたら、まずどこを捜す?」

 顎に手を当て、平井は考え始めた。大物思想家に共鳴する支援者たちの家、などと言ったらすぐに追い返すつもりだった。そんなところ、失踪後数日のうちに警察がすべて洗っている。

 ところが、数秒考えて平井が口にした答えは、三郎をぜんとさせるものだった。

「レストランでしょうね」

 えっ、と背後で聞いていた山口が声を漏らすのが聞こえた。三郎は訊ねる。

「レストランと言ったのか?」

「はい」

「なぜレストランなのだ?」

「このインドの紳士はかなり恰幅がいい。きっとよく食べます。インド人はカレーを食べるでしょう」

 山口が笑い出す。

「だからレストランだなんて、短絡的だ。カレー粉なんて、今や手に入れるのは難しくない」

「ですが一般的とは言い難いです」平井は言い返す。「カレーは調理中、何と言いますか、南国の植物を乾かしてじりじりと熱したような独特のにおいが漏れます。今までカレーを食べてこなかった家から急にカレーのにおいがしたら、周囲に怪しまれるでしょう」

「ふむ」三郎は多少、愉快な気持ちになる。「もともとカレーを出す店なら、それがごまかせるというのだな」

「そうです。ですからたとえば、せいようけんとかまつもとろうとか、れんていみたいな店でしょう」

 時事のことを聞いているときとは違って生き生きとしていた。真実に迫れるかどうかは別として、たしかに推理は好きなようだ。だが、山口はこれも笑った。

「精養軒や松本楼を警察が調べなかったと思うのか。行方不明になる前からボース氏は出入りしていたんだ」

「ではもっと別のレストランでしょう。あるいは、去年の暮れからカレーのにおいをさせはじめたハイカラなお店……」

 とここで、平井は天井を見上げ、静止した。まるで彫刻にでもなってしまったかのように。三郎は心配になった。

「どうしたのだ、平井くん」

「はっ!」立ち上がった平井に驚き、岩井も椅子ごと後ろに倒れそうになった。

「岩井所長。三日ください。三日でこのボースというインド人を見つけてきてみせます」

「なんだって?」

「その暁には、私をこの事務所で探偵として雇ってください。きっと、きっとですよ!」

 返事も聞かず、平井は疾風はやてのように出ていった。ドアは、開けたままだった。

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