カリーの香る探偵譚 第2回


 二、


「どうしても、パン屋になりたいんです。どうかこちらで雇ってください」

 しん宿じゆく停車場からほど近いパン屋、なかむらの店先で、平井太郎は頭を下げた。

「ちょっと待ちなさい君、他のお客様も見ているじゃないか」

 相手は店主のそうあいぞうである。

「こちらのクリームパンに感激いたした次第であります。また、ご主人は早稲田の出身だということで、私も後輩として教えをいただきたく」

「もしかして君も早稲田の学生かね」

「はっ。早稲田大学政治経済学科、らいろうと申します」

 本名の「ひらいたろう」のアナグラムであった。なかなか探偵小説っぽいじゃないかと、自分で言っていてわくわくする。

 この中村屋は、今や東京では知らぬ者のいないパン屋である。から上京してきたばかりの頃、訳知り顔の級友に連れられて一度来たことがあるが、そのときは何とも思わなかった。

 ところが去年の暮れのこと、近くの書店を訪れた折にふと店の前を通ったとき、クリームの甘い香りに嗅ぎ慣れぬにおいが混じっているのに気づいた。カレーのようだな、とそのときは気にも留めなかったが、昨日、五郎兵衛町の探偵事務所で憧れの岩井三郎と亡命インド人の話をしているとき、ふと思い出したのだった。

 ボース氏を見つけたら探偵として雇ってもらうという約束を取り付け、事務所を飛び出した太郎は、すぐに早稲田へ取って返し、訳知りの級友の下宿の戸を叩いた。せんだいから出てきているこの男は常日頃「新宿のことなら俺に聞け」と豪語しており、早速中村屋について訊ねると、いろいろ教えてくれた。

 経営者は相馬という名の夫妻である。夫の愛蔵は早稲田出身、こつこうという風変わりな名の妻は明治女学校出身という、インテリ夫婦だそうだ。初めに出店したのはほんごうの東大正門前であり、高学歴夫婦のパン屋ということで何度か新聞取材も受けた。フランスのシュークリームにヒントを得た看板商品のクリームパンも人気を博し、事業は拡大。本郷前の店が手狭になり、明治四十年に新宿に大きな店舗を出した。

 愛蔵の経営手腕もさることながら中村屋の人気を支えているのは何と言っても黒光のインテリ趣味だよ、と太郎の級友は言った。いわく、黒光は自分の学歴を誇りにしており、学者や芸術家を定期的に中村屋に集め、知的な談義を繰り広げているらしい。中村屋は今や一介のパン屋ではなく、新宿一の芸術サロンの様相も呈しているのだという。

 自慢げにこれらのことをまくしたてた級友に、中村屋にカレーを使ったパンはあるかと太郎は訊ねた。

「中村屋の名物がクリームパンだということは今やパリにまで知れ渡ってる常識だぜ? なんでカレーなんか使うんだ」

 鼻で笑う彼の姿に、太郎は確信したのだ。カレーを使わないはずの中村屋からカレーの香りが漂うとしたらそれは、インド人を匿っているからに違いないと。これだけ知的文化の渦巻いている店なら、崇高な理想を抱く革命家を一人、匿っていてもおかしくないと。

 一介の学生が、店の中をあらためることができようはずもない。ここは探偵らしくいこうと太郎は考えた。そして、店員として中村屋に潜り込むことにしたのである。

「ふうーむ。今はたしかに忙しくてなあ」

 愛蔵は店の中を振り返る。客はひっきりなしに訪れ、パンや菓子を買っていく。商品を包んだり、そろばんを弾いたりと、店員たちはたしかにせわしなく働いている。

「新しく人を雇うのはいいんだが、黒光にも訊いてみないことには」

「奥様ですね。今日はいないのですか」

「ああ、朝から知り合いのところに出ていて、もうあと一時間ばかりで戻るとは思うが……」と愛蔵が懐手をしたそのときだった。

「旦那様、旦那様!」

 奥から一人の女性が出てきた。他の店員と服装が違うので、女中だと思われる。級友の話では、中村屋の夫妻は店舗の二階に居住しているということだった。

「やはりつねさんを止めるのは、私には無理です。としさんの居場所を教えろ教えろと」

「むう。やはりそうか」

 眉をひそめ、愛蔵は眼鏡をずりあげる。

「頼くんとやら。すまないが今日はもう一つ立て込んでいてね。またの機会に……いや、待てよ」と太郎の顔を見てひとりごとを言いはじめた。

「顔を見知った従業員たちならなだめすかそうとするだろうが、初対面の人間なら何も言いようがないか。これは時間稼ぎになるかもしれないな。……なあ、頼くん」

「はい」

「今からこの女中について部屋へ上がってくれ。そこにつねという名の青白い青年がいる。黒光が帰ってくるまで、彼の話し相手をしてやるんだ。早稲田の学生なら彼と話が合わないこともあるまい」

「それは……仕事でしょうか?」太郎は間抜けな質問返しをした。

「まあ、そうだな。私の財布から給料をやろう。ただ、いいかい? うちの家内が帰るまで、上のこたつの部屋からつねを一歩も出してはいかん」

「何かあるのですか?」

「いや、ない。ないが、つねという男を裏庭に出してはいかん」

 多くは語らん、という意志がしっかり結ばれた口元から見て取れた。太郎は女中について履物を脱ぎ、階段を上がっていった。

 訳知りの級友が言ったとおり、店舗の二階は相馬夫妻と家族が寝起きする空間になっているようだった。廊下の窓から見ると、店舗のあるこの建物と裏の建物のあいだには広い庭があった。中央には桜の木が一本あり、その向こうに怪しげな二階建ての洋風建築が一つ、ある。くろいわるいこうの翻案小説にでも出てきそうな雰囲気だと、探偵小説趣味がまた頭をもたげた。

「あまりじろじろ見ない!」

 厳しい口調で女中が言ったので、太郎は前を向いた。

 ふすまが開かれたその向こうが六畳間だった。壁際に小さいながらびっしり書物の詰まった本棚があり、その脇には女性のブロンズ像がある。壁には風景画、それに洋風ポスターが貼られており、部屋のど真ん中のこたつが妙な生活感を放っている、芸術愛好家の部屋だった。

 そのこたつに、やせぎすの男がいた。ほうはつで、口ひげを生やし、顔は畑から引っこ抜いて土を払ったばかりの大根のように白い。お世辞にも健康的とは言えそうにない。

「つねさん。こちらの頼さんがお話ししたいことがあるそうで」女中はそんな風に取り次いだ。

「いや、別に話したいことがあるわけでは……」

「じゃあ、お頼みしましたよ」

 太郎を部屋の中に突き飛ばすようにして、女中はぱたりとふすまを閉めた。つねという男はちらりと太郎を見て、目をそらす。こたつの傍らに彼の手荷物らしき物入れと、四角い風呂敷包みがあった。

 太郎は彼の正面に座り、何を話していいものやらと、しばらく思案した。

「平井太郎です」

 結局、ただの自己紹介をした。するとつねはおや、という表情を見せた。

「ライさん、とさっきの女中は言わなかったか?」

「あっ」しまった。せっかくアナグラムを考えてきたにもかかわらず、注意が散漫になって本名を言ってしまった。これでは探偵失格である。

「平井太郎というのは、号でして」

「君も絵を描くのか」

「いえ、絵ではなく……小説です」

 噓だった。読むのは好きだが書きはしない。いや、本当は好きが高じて書いたこともあるが、自分で読んでみてこれはダメだと恥ずかしくなり、破り捨ててしまった。

「小説か。いったいどういう……」

「つねさんというのは、本名ですか」

 どういう小説を読むのかという問いには何時間でもしゃべっていられるが、どういう小説を書くのかという問いには答えられない。それをごまかすための質問だった。

「本名だ。こう書く」

 つねは別に気にする様子もなく、こたつの上に転がっていたペンをとった。そして、そこらに散らばっていた紙を一枚とり、ペンで自分の名を書き、太郎に渡した。「彝」とあるが、ずいぶんと字が乱れている。

「難しい字ですねえ」と言いながら、その紙が気になった。

「なんですかこの紙は、ずいぶんと凸凹が多いですが」

「点字だろう」

「点字?」

「盲人のための文字で、一文字につき六個の凸凹のあるなしで何と書いてあるか表すのさ。そういや最近、目の見えないロシア人の芸術家が出入りしていると聞いたよ。その芸術家から教わっているんじゃないだろうか」

 噂通りこの中村屋には、様々な芸術家が出入りしているようだった。それにしても、点字とは面白いものだ。六つの点のあるなしで文字を表すことができるなんて、まるで暗号のようだ。これを暗号として利用した探偵小説が今まであっただろうか……などと太郎が考えていたら、

「ところで君、俊ちゃんがどこにいるか教えてくれないか」

 脈絡なく、つねがそんなことを言った。

「はい? としちゃん?」

「とぼけるのはよしてくれ。ここの長女の相馬俊子さんだ。私たちが一度は将来を誓い合ったことは君も聞いているだろう。……あ、いや。あのときは私のほうが一方的に気持ちをぶつけただけだと言えないこともないが……いやしかし、俊ちゃんのほうも私と過ごす時間が好きだと言ってくれた」

 太郎のあずかり知らぬところで、つねは火が付いたようにまくしたてた。そして、風呂敷包みを手に取り、ほどきはじめた。中から出てきたのは、一枚の油絵だった。一人の女性がこちらを見てほほ笑んでいる構図である。顔は丸く、この病弱そうな画家が描いたとは信じられないほど健康的で、何より目に生気が感じられた。

「見てくれ。俊ちゃんへの溢れんばかりの想念。これでも私を俊ちゃんに会わせないつもりか」

「溢れんばかりの想念はわかったのですが、あいにく、私は今日からこの中村屋に入った者ですから」

「今日から?」つねは頓狂な声を上げた。

「はい。ですのでその、俊ちゃんという方のことも存ぜず、申し訳ない限りです」

「なんでそれを先に言わないのだ」憤然としてつねは絵を風呂敷に包みはじめた。「しかしなんだってそんな君が、この部屋に上がり込んでいるんだ」

「それは……、つねさんをこの部屋から出すなと旦那様が言うので」

「父さんが?」と目を吊り上げるつねを見て、太郎はまたやってしまったと思った。探偵小説を趣味としながら、秘密を秘密とできない自分が本当に嫌になる。

「ははあ、なるほど。私にアトリエを見せぬつもりだな」

「アトリエ?」

「裏庭にあったろう。化け物屋敷みたいな二階建てが。アトリエっていっても台所や便所もついていて、ちゃんと生活できるようになっている」

 もともと経営者夫妻の友人であるおぎわらろくざんという彫刻家が、友人に使わせるために夫妻に頼んで造ってもらったものだ、とつねは説明した。

「友だちの友だちのためにアトリエを造ったんですか。豪勢というかなんというか」

「かあさんは女学校出のインテリで、芸術が好きだからね。そのぶん、学がない人間を見下すようなところがあって……まあ、芸術家をしている自分が好きなのかもしれんが」

 と、本棚の脇に置いてある彫刻を見やった。太郎もそれを見る。両腕を背後に回し、天を見上げた、裸の女性である。顔は笑顔でなく、悲しげでもなく、どこか希望を求めるような、そういう表情に太郎には見えた。

「今話した、碌山が作った彫刻で『女』というタイトルらしい。確固たるモデルはいないと碌山は言ったそうだが、こりゃ明らかに、かあさんをモデルにしている」

「かあさんというのは、ここの奥さんのことですか」

「そうさ、相馬黒光その人だ。何せ、私も少し前までここに世話になっていたから、かあさんと呼ぶのさ」

 碌山の友人が出て空き家となっていたアトリエに、つねは住まわせてもらっていたというのだった。そのときにモデルになってもらったのが、相馬夫妻の娘の俊子で、しばらくするうちに恋仲になったらしい。

「ところがかあさんはそれを知るなり激高してね。まあ、私が俊ちゃんのヌードを描いたのもいけなかったんだろうが」

「芸術家がヌードを描くのがだめですか」太郎は言い、『女』を見上げる。「自分はこんな彫刻のモデルになっているというのに」

「実際に碌山の前で裸になったわけじゃあるまい。かあさんは芸術は愛しても、そういう人じゃない」

「そうですか。俊子さんはつねさんの前でヌードに……」

「なったさ。もちろん合意のうえでだよ。しかし芸術のためとはいえ、自分の娘が裸になるのはだめだというわけだ。かあさんは烈しい気性の持ち主で、自分の気に染まない相手には阿修羅のごとく怒り狂う。結局、かあさんと気まずくなって、私は出ていったんだ」

 阿修羅のごとく、という表現に太郎は足が震える思いになった。もし自分が中村屋に来た理由が露見したら、どんなことになるか……いや、こんなことを恐れているようでは探偵は務まらないだろう。

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