カリーの香る探偵譚 第3回

「ともあれ、父さんが私をアトリエに近づかせない理由ははっきりしている」

「なんです?」

「決まっているだろう。アトリエに俊ちゃんがいるんだ。私が来店してすぐに隠れたに違いない。従業員も含め、みんな、私を俊ちゃんに近づけないようにしているのさ。隠していることが顔に出て私にばれてはいけないから、事情を知らない新人の君を私のところへよこし、かあさんが帰ってくるまでの時間稼ぎをしようというんだ。そうはいくか」

 つねは立ち上がった。どうもこの絵描きは自分でしゃべっていることに興奮して止まらなくなってしまう傾向があるようだ。太郎は慌てて立ち上がり、彼を止めた。

「いけません、つねさん」

「放してくれ。私は俊ちゃんと話がしたいだけなんだ」

「やめてください」

「放せ」

 とそのとき突然、がらりとふすまが勢いよく開いた。振り返るとそこには、十歳ばかりの少年がいた。

「つねさん、お久しぶりです」少年はつねに挨拶をした。

「もっちゃんか」

 太郎から手を離し、つねは少年に答えた。

「そちらは、今日から中村屋にお勤めの頼さんですね。おいら、中村屋の斜向かいで炭を扱っている紀伊國屋きのくにやいちという者で、みんなからはもっちゃんと呼ばれています。以後、お見知りおきを」

「あ、ああ、どうも」

 子供らしさと大人びた丁寧さが同居する独特な物言いに、太郎は恐縮してしまった。

「つねさん。ここにきよかたの画集があると思うんですが、知りませんか?」

「さあ、そこの棚にないかな」

 部屋の奥の小さな本棚をつねは見やる。茂一少年はその棚に近づき、物色を始めた。今まで太郎と争っていたのが噓のように、つねも後ろに立って本の背表紙を見ている。

「もっちゃん、相変わらず芸術趣味かい」

「はい。この家にある画集はどれでも貸してあげるから持っていっていいわよと、黒光さんに言われています」

「かあさんも君みたいなご近所さんは可愛くてしかたないだろうね。もっちゃんも将来、絵を描くつもりか」

「いいえ。僕は売るほうに興味があります。たぶんこれからの時代、炭やまきはどんどん廃れていくでしょう。おいら、店を継いだら、炭屋はやめて、本屋にしようかと思ってるんです。つねさんも画集を出したらおいてあげますよ」

「へぇー。そりゃ頼もしいことだ」

 つねはこの茂一という大人慣れした少年との会話を楽しんでいるようだった。太郎は蚊帳の外に置かれてしまったような感じである。そんな太郎の鼻を、そのとき刺激するものがあった。

「ん?」

「どうしたんだ、平井くん」

 つねが振り返る。太郎は鼻に意識を集中させた。

 南国の植物を想起させる独特の香り。間違いない。カレーである。どこから漂ってくるのか。茂一少年がふすまを開けたから感じられるようになったのか。だとしたら……その瞬間、太郎は雷撃を受けたように唐突に気づいた。

 裏庭のアトリエには台所もついているとつねは言っていた。なぜ今まで思い至らなかったのか!

「つねさん。カレーの匂いがします」

「カレーだって? ふむ、そうかな。新しいパンでも売り出しているのかもしれないね」

「いいえ、これは……」

「ないなあ」茂一少年が立ち上がった。『女』の前をすぎ、入って左手のふすまを開いた。小さな部屋だが、こちらにも本棚があった。

「こっちかもしれない。つねさん、捜しておいてくれませんか?」

「私が?」

「はい。おいら、ちょっとおつかいの途中なんで」

「おつかいの途中に清方の画集か」

 つねは咳き込みながら笑い、隣の部屋に入っていく。「それじゃ」少年はひょこっと頭を下げると、廊下へ出て、足早に去っていった。

 つねはすでに隣の部屋に入り、本棚を端から調べている。太郎は近づいていった。

「つねさん。アトリエはいいのですか」

「もっちゃんの頼み、しかも絵のこととあってはね」

 太郎はしばし思案する。

 アトリエに潜伏する者はイギリスの総督に爆弾を投げつけた豪傑だ。あの恰幅では腕っぷしもかなり強いに違いない。一人で太刀打ちできる相手ではない。このやせた病弱そうな画家でも戦力になることは間違いないだろう。なんとか協力を仰げないか。

 しかし正直にすべてを話してしまえば、つねは尻ごみをするかもしれない。それどころか、太郎が怪しい者であることを中村屋の面々に話してしまうかもしれない。ここは、アトリエに、彼の会いたがっている俊子がいるのだと勘違いさせておいたほうがいいのではないか。

「俊子さんに会いに行きましょう」

 太郎の言葉に、つねは振り返った。

「今、つねさんがここにいることを勘づかれれば、俊子さんは別のところへ逃げてしまうかもしれません。今すぐに、一緒にアトリエに行くのです」

「しかし、どうして君まで……」

「逃げようとしたら私が道をふさぎます」

「協力してくれるというのか」

「はい。ただ約束してください。アトリエにいるのが俊子さんでない場合も、その人物を取り押さえることに協力してくれると」

「なぜ?」

「俊子さんじゃなくても、俊子さんの居場所を知っているかもしれないからです。いいですね。私とつねさんで、そこにいる人物を取り押さえるのです」

 奇妙な論理だと自分でもわかっていた。だがつねは、「まあ、いいだろう」と納得してくれた。

 廊下に誰もいないことを確認し、足音を立てないように出た。階段を下りると、店舗のほうからは喧騒が聞こえる。つねの先導で裏庭に下りる。夫妻のつっかけを拝借し、庭を横切っていく。

 その幽霊屋敷然とした洋風二階建てのアトリエに近づくにつれ、やはりカレーの匂いは強くなっている。太郎の脳裏に、岩井三郎事務所にあった新聞記事で見たインド人の似顔絵が、まざまざと形作られていた。ラズ・ビハリ・ボース氏は、まちがいなく、この中にいる。

「料理をしているなら裏口が近い。私が裏口へ回ろう」

 つねが言った。

「わかりました。では、十数えたら、同時に飛び込むことにしましょう」

「心得た」

 まるでルブランの小説に登場する怪盗を追い詰めるシーンのような高揚感が体の中にわいてきた。

「では、せーの、一つ、二つ」

 三つ、四つ、と数えながらつねは裏口のほうへ回っていった。五つ、六つと、小声で言いながら、太郎はドアのとつをつかんだ。

「九つ、十!」

 ドアを開き、中へ飛び込む。

 外の二倍以上のカレーの匂いが充満していた。窓があるようだが、薄暗かった。奥はどこだ──とそのとき、どたどたりと奥で音がした。

「平井くん! 来るんだ、平井くん!」

 つねの声に混じり、

「何をするんだ、やめろ」

 男の声がした。あのインド人、こんなに流暢な日本語を話すことができたのか……。

「やめろというんだ、つね!」

 いや、聞き覚えのある声だった。太郎は進んでいく。便所とおぼしき扉の前をとおり、曲がると、そこが台所になっていた。鍋のかけられたかまどのそばにはなぜか、真っ白なキャンバスが載せられた画架が置いてあった。床じゅうに、絵筆が散乱している。

「俊ちゃんに、俊ちゃんに会わせてください、お願いです」

 床に倒れる男に、つねが絡みつくようにしている。

「やめろというのに!」

 もがきながらずれた丸眼鏡を直そうとしているその男は──中村屋の主人、相馬愛蔵であった。

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