野口英世の娘 第4回


 五、


 十一月三日、午後三時。帝国ホテル。

 欧風のじゆうたんの敷かれたロビーにて、一は畠山ヨネを待っていた。

 星製薬本社とは目と鼻の先のこのホテルには知り合いの財界人も多くやってくる。顔を見られてはまずいと、口周りを顎の下まで覆うもじゃもじゃの付けひげをつけ、アメリカから帰国して以来めったに着ない和装に身を包んでいるのだった。

 あの柱の陰にいる男も、向こうで本を読んでいる男も、新聞社の人間だろう。帰国直前の野口にインタビューをもくろんでいるのだ。

 野口は今頃、早稲田に到着しただろうか。

 帰国する前にもう一度会いたいと、大隈重信卿の自邸に招かれたそうだ。歓談のあとは東京帝大に寄って諸博士に挨拶をし、ホテルに戻るのは夜になると聞いていた。ヨネとはそのあいだに話をつけるという手はずになっている。

 そのとき、出入り口のほうから、小柄な女性が歩いてきた。二か月ぶりに会ったがすぐにわかった。それとなく立ち上がり、懐からちょろりと赤い風呂敷の端をのぞかせる。これが合図である。彼女はすぐにそれを認め、一のほうへ近づいてきた。

「どうなさったのです、その口ひげ」

「静かにしなさい。部屋へ行こう」

 促し、階段のほうへ向かう。

「お父様はいないのですか」

「まだ決まったわけではないのだから、そう呼ぶのはよしなさい」

「では何と? ドクター・ノグチ?」

 階段の手すりに寄りかかって懐中時計を見ていた男が顔を上げた。こいつも記者か。おしゃべりな女の口に戸はてられない。とすれば……

「エヌ氏と呼ぶんだ」

「エヌ氏? 面白いことをおっしゃいますね」ヨネはかえって喜んだ。「この二か月、エヌ氏は大活躍でしたね。どこの大学で講演をしたとか、どこの観光地をお母さまと訪れたとか。私、新聞でエヌ氏のお写真を見るのが毎日楽しみでした。実際、エヌ氏の業績については私、難しくて何もわからないというのに」

 階段ですれ違った紳士淑女が何の話かとこちらを振り返っているのがわかった。

「ノーベル賞受賞は目前だとも書いてありました。今や日本一の人気者ですわ、エヌ氏は」

「エヌ氏の話もやめなさい」

 ──余談だが、このとき四十三歳にして独身だった一は、その後結婚し、長男を授かることになる。しんいちと名付けられたその長男はやがて「星新一」というペンネームで作家として活躍する。ショートショートと呼ばれる短いその作品群の中では、名もなき「エヌ氏」が縦横無尽に活躍することになるのだが……もちろんこの時の一が、そんなことを知る由もなかった。

「この部屋だ」

 一は客室のドアを開く。グランドホテルの三〇一号室の二倍ほどある部屋で、椅子やテーブル、サイドボードなどの調度品も凝った意匠のもので統一されている。部屋の奥には例の大きなトランクが横たえられていた。

「エヌ氏の部屋ですか?」

「もう野口でいい」

 野口と母堂のシカの泊まる部屋である。同行している小林夫妻に話を通し、シカはしばらくのあいだしんばし見物に連れ出してもらっている。本当ならば別に一部屋取りたかったところだが、あいにくの満室で、緊急の措置であった。

「ずいぶんと散らかすのが好きなようですね」

 一が勧めもしないのにソファに腰かけ、ヨネは言った。ベッドの上に、衣類が無造作に投げ出されている。大隈卿との面会に向けて一張羅を着込んだのだろうが、それ以外の服まで全部出さなくともいいだろうに。

「フィラデルフィアにいたころとちっとも変わらん。野口は大事な会合があって留守にしている。私が君と話をつけることになった」

 一は彼女の正面に腰を下ろす。

「忙しいのですね」

 残念そうでもなく言うと、ヨネはすぐに表情を切り替え、「それで?」と、首をかしげるようなしぐさをした。

「いかがでございましたか、身辺調査の結果は?」

 一は咳ばらいをし、膝の上で指を組む。

しまという男を知っているね」

「ええ。母と最後に住み込みでお世話になっていた洗濯屋で下働きをしていた方です」

「その島野が君の母親から野口の新聞記事を見せられたことがあったそうだ。『私はかつてこの男と一晩を共にしたことがある』。そう告白したらしい」

「それじゃあ」

「だがそのあとやはり、『しかし、彼は酔いつぶれて何も私にしなかった』と笑ったのだそうだ」

 静かなる対峙。──一の思うようにことが運ばないのは明らかだった。

「二か月前、グランドホテルでお父様も同じようなことをおっしゃいましたね。それならば私の答えも一緒です。母は女心からそう言ったのです」

「野口本人が相手ならそうかもしれないが、第三者に言ったのなら」

「同じです」ヨネは語気を強めた。「母は私にはっきりと申しました。『あなたの父親は野口英世である』と。だいたい、私が主張を取り下げる条件は、私が野口英世の娘ではないことをそちらが証明するということだったはずです。今さらそのような伝聞を持ち出して何になりましょう?」

 数え年十六とは思えぬほど毅然、かつ整然とした主張であった。ただ感情に走るのではなく、論理的に相手を問い詰めることができる──やっぱり大正の女だ。強く、たくましく、輝きのへんりんがある。

「そのとおりだ」

 一は懐に手を入れ、封筒を取り出す。とたんにヨネの顔に笑みが浮かぶ。

「三百円入っている。船賃と、向こうでの当面の生活費としてはじゅうぶんなはずだ」

「では」

「約束してくれ。あいつが日本を離れたそのあとも、金輪際、このことは口外しないと」

「もちろんでございます。私が野口英世の娘であることは一生の秘密にいたします」

 と封筒に伸びていくヨネの手が、止まった。

 その美しい目が、見開かれていく。彼女は一の背後の一点を見つめていた。顔色がみるみる青ざめていき──、

「ぎゃああっ!」

 両手を頭に当てて叫んだ。

「どうしたんだ?」

「あ、あ、あれを……」

 一は振り返り、ヨネ同様仰天した。横たえられた野口のトランクが五センチメートルばかり開き、中からしわくちゃの手が出てきた。手は何かをさぐるように、絨毯の上を這っている。そうかと思うと、もう一方の手が出てきて、トランクの蓋をぐいと押し上げた。

 開いたトランクの中からむくりと半身を起こしたのは、色あせた浴衣を着たしわくちゃの老婆であった。

「ぎゃあああっ!」

 ヨネは涙を流し、椅子に座ったまま上半身を前後に揺り動かす。逃げ出そうにも腰が抜けてソファから立ち上がれないようだ。老婆はよっこらせとおぼつかない感じで立ち上がり、

「おお、おお……」

 両手を前にしてよろよろとヨネに向かっていき、その両手をがしっと握った。

「お化け、お化けぇ!」

「落ち着きなさい」

 一はなだめた。

「お化けではない。シカさんだ」

「シカさん? わわ、私には、人間のお婆さんに見えますが」

「野口シカさん。野口のお母様だよ。……シカさん、小林夫妻と新橋に行ったはずでは?」

「んだす」シカは答えた。「行ったけんど、足さ、疲れちまって。戻って寝てたんです」

「そうだったんですか。しかしどうしてトランクの中なんかで……えっ!?」

 と開け放たれたトランクを見て、一はまた仰天した。荷物がすべて外に出されて空っぽのトランクの内側に、畳が貼り付けられているのである。

 野口の手紙の中にあった「名古屋で畳屋に宜しく頼み」という言葉、河合が持ってきた請求書──洋風の部屋に泊まらねばならないときに備え、母のために野口はこの人ひとり入れる大きさのトランクの中に畳を貼り付けたのだ!

 あいつは何を考えているのかという気持ちと、あいつらしいという気持ちが胸の中で混じっていく。野口英世という男はたまに、とんでもなく突拍子もないことをするのだ。

「狭くてくれえほうが、寝やすいんです。それに、この中で寝てると、あの子の匂いがして」

 シカは嬉しそうにほほ笑んだ。さすが野口の母親というべきか、やっぱり少し変わっている。そんなことより──、

「シカさん、ひょっとして今の話を聞いていたのですか?」

「んだす」シカはうなずいた。「あの子から聞いておったんです。おめさんが、おらの孫だってなあ。嬉しいなあ」

「野口がしゃべったんですか?」

「んだす」

 京都の宿で二人で寝ているとき、突然、話があるんですと野口が言い出したのだという。実は、かつて一晩を共にした女とのあいだにできた子どもかもしれない娘が橫濱にいます。一がその真偽をたしかめるために努力を払ってくれているが、僕にはどうも、彼女が本当に自分の娘のような気がしてならない──

「そんなことを……」

 驚く一の前で、ヨネが笑い出す。さっきまでの恐怖の色はどこへやら、喜色満面であった。

「だから初めから言っているじゃありませんか。私は野口英世の娘だと。さあ星さん、私にお金を……」

「明日、おらと一緒に猪苗代に帰ってくらっちぇ」

 ヨネにかぶせるように、シカは言った。

「はい?」

「三城潟には仕事さ山ほどある。田植えも草取りも稲刈りも、もう思うようにできんのです。あんたみてえな娘が手伝いに来てくれたら、そりゃなんぼかええ」

「何を言っているのです? 私は欧米に女優の勉強に行くのです」

「猪苗代に連れてってくれろと、英世も言った」

 ヨネの顔に焦燥が浮かぶ。

「冗談じゃないわ。博士が言ったからってどうして私が福島なんかに行かなけりゃならないの?」

「おや、『お父様』じゃなくて『博士』と言ったな?」

 一の切り込みに、ヨネは黙ってしまった。ここぞとばかりに一は続ける。

「三城潟でシカさんの手伝いをするようにというのが野口の意向ならしかたない。この金は君にやるわけにはいかん」

 きっとこれで馬脚をあらわすだろう。これ見よがしに封筒を懐へしまい込むそぶりを見せる。ヨネの目が吊り上がった。

「そういうつもりなら、私は野口英世の隠し子だとロビーにいる新聞記者に言いふらしてやる。そんな醜聞が世の中に知れ渡ったら困るんじゃないかしら?」

「何を困ることがあるかいね」シカが笑う。「志を達成するために子どもを作らんつもりだろと思ってた英世に、ちゃあんと娘がいた。三城潟のみんなも、喜んで迎えるだろね」

 ヨネの顔はいよいよ真っ赤になる。今にも地団太を踏み鳴らそうかという雰囲気であった。一番秘密にしたかった相手が、まさか自分を歓迎するなどと思っていなかったのだろう。

「ええそうよ、噓よ!」

 切り札を失ったヨネはやけになったようだ。

「私は野口英世の娘なんかじゃないわ。私の本当の父親はつまらない博打うちで、母が私を身ごもったと知るや姿をくらましたそうよ。一人で私を育てなきゃいけないつらい境遇にあった母にとって、野口英世の部屋に泊まったことがあるというのは誇りだった。新聞に野口博士のことが出るたびに自慢された私はいつしか『この人が本当の父親だったら』なんて妄想したわ。お金だってたくさん持っているだろうってね。それなのに馬鹿みたい。アメリカに渡るきっかけができると思ったのに、どうしてこんなことになるの? 福島になんか、誰が行くもんですか!」

 ばね仕掛けの人形のようにソファから立ち上がり、ヨネはドアへ向かった。

「待ちたまえ」

 一が止めるのも聞かず、ヨネは出て行った。追いかけようと思ったが、シカのことも気にかかった。英世の娘が目の前に現れたという期待が外れ、がっかりしているだろうと思ったのだった。

 ところがシカは気にした様子もなく、首をこきこきと鳴らしている。

「……やっぱりな」

「やっぱりって、シカさん。彼女が偽者だとわかってたんですか?」

「英世が有名になって、研究費をよこせちゅうおかしな人たちもたくさん来るようになったんです。小林先生が間に入ってくれて、みーんな詐欺だから気をつけろって教えてくれましたんで、京都で英世の話を聞いたときから、こら怪しいなと思っとったんです」

「しかし、本物という可能性だって」

「なーにが。野口家に、あんな目鼻立ちのはっきりした娘が生まれるもんかね」

 シカは針のように細い眼に皺をよせ、おかしそうに笑った。

「あの子は努力と忍耐、集中力は人並み外れとるけんど、女に気に入られることはそりゃねえ。研究で世に認められたのはそんなに驚かねえけんど、あんな綺麗な娘が生まれたとなればそりゃ、天地がひっくりかえります」

 針のような目をさらに細めてシカは笑った。

「アメリカで結婚したと聞いたけんど、メアリーさんという方は、ひどい変わり者なんだっちぇな」

 俺ら息子にとって、母ちゃんってのはいつまでもでけえ存在だ──野口は正しかったと一は思った。この母がいたからこそ野口はアメリカへ渡ることができ、輝かしい業績の数数をあげることができたのだ。

 一ははっとした。このままヨネを帰すつもりはない。

「失礼します」

 シカに頭を下げ、部屋を飛び出した。小走りでロビーへ降り、外へ出たところで、星製薬の若い社員たちがヨネを囲んでいるところへ出くわした。

「あっ、社長」

 河合が気づいて手招きする。

「この娘、やっぱり偽者でした。社長と野口博士をグランドホテルまで送った馬車の御者が仲間だったんです!」

 鼻の右に四角いほくろのある男のことだった。橫濱の高名な詐欺師団の一人であり、普段は馬車の御者をしながら富裕層の顧客の情報を集め、カモを探しているのだった。野口の帰国の三日前に一が予約を入れたことを受け、野口英世をグランドホテルに送るということをつきとめた。以前よりヨネの母と野口英世の話を知っていた彼は今回の計画を立て、ヨネをグランドホテルの前に待たせておいた。特徴あるほくろを隠すため、顔の下半分を手拭いで覆って二人を運んだのだ──と河合は語った。

「我々が問い詰めたら、やつは洗いざらい白状しました。せしめた金は彼女と半分ずつ分けるつもりだったとか」

「噓よ!」

 ヨネが叫んだ。

「あいつが七で、私が三。割に合わないけれど、留学の足しにはなると思ったのに……」

 悔しそうに唇をかむ。もう何も隠し立てはしないつもりのようだ。

 一は社員たちを手で払い、彼女の前に立った。

 一を仇敵のような目で睨みつけているヨネ。そのはくをつい最近、一は見ていた。

「日曜、橫濱で君の舞台を見たよ」

「えっ?」

 懐から《木栓座》のビラを取り出す。ヨネの顔が驚きに染まっていく。周囲で見守る社員たちもざわめいた。

「芝居のことはよくわからないが、迫力があった。情熱があった。君は独学で英語やフランス語も学んでいるそうだな。女優修業のためにヨーロッパへ行きたいというのはどうやら本当らしい」

「当たり前よ。松井須磨子がやれていないことを、やってやりたいの」

 一は二十一年前の自分を思い出していた。

 明治二十七年。二十歳。英語もろくにしゃべれず、アメリカがどれだけ広い国かも知らず、ただ未来への大志だけが胸の内に燃えていた。野口もきっと一緒だったに違いない。そして、今、目の前にいるこの娘の目の中にも、同じものが燃えている──。

 一は三百円の入った封筒を、ヨネの手に握らせた。

「行ってきなさい」

「えっ?」

「金を騙し盗ろうとしたことはけして許されることではない。だがそれでもなお、目標ある者にやる金なら惜しくないと、心が私に訴えるのだ。……間違っても、飲み明かすんじゃないぞ」

 ヨネは唇を震わせ、一の顔を無言で見つめていた。そして、

「ありがとうございます」

 ぎゅっと封筒を握りしめた。一は満足し、社員たちを見回す。

「諸君。飲み明かすのはわれわれの仕事だ。新橋で鳥料理を食うからつき合え」

「はい!」

 周囲で見守っていた彼らを従え、新橋方面に数歩あるき、ふと一は立ち止まる。

 アメリカへ発つ野口英世と星一には、郷里で息子の将来を願う母の姿があった。ヨネにはもう、親はいない。彼女の挑戦と成功を応援する親などもう──いや、違う。

 一は振り返る。封筒を握りしめたままのヨネが、こちらを見ていた。

「明治の若者の志を引き継いで世界へ飛び出す大正の若者よ。君は紛れもなく、野口英世の娘だよ」

 ヨネは目を潤ませて微笑んだ。世界でも通用する美しい顔だと一は思った。


(了)


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