野口英世の娘 第3回


 四、


 それから七週間が経った。

 銀座の一等地に建つ《星製薬》の本社ビル、社長室に一はいた。壁の棚には、自社製品の瓶がずらりと並んでいる。それらを眺めながら新しい商売のアイディアを練るのが一のたのしみであったが、今日はそんな余裕はなかった。

 デスクの上には二通の手紙がある。一通は、京都より届いた野口英世からのものだ。

 グランドホテルでのあの日、橫濱で仕事をする一を残し、野口英世は二人の恩師とともに馬車で東京へ行った。翌日、おおくましげのぶ卿と会談を行い、汽車で福島・猪苗代へ帰郷。そこでついに、母の野口シカと再会を果たした(シカという風変わりな名は本名である。猪苗代には、女に獣の名をつけると体が丈夫に育つという俗信があるらしい)。

 野口に、故郷でゆっくりしている暇はなかった。

 帰国をチャンスとばかりに、日本各地の大学や研究機関が野口に講演を依頼していたのだ。野口は三日間だけ猪苗代湖畔の郷里ですごしたのち、残りのすべての日本滞在期間を講演旅行にあてたのである。旅行には小林・血脇の二人の恩師夫妻と共に、シカも同行することになった。もちろん、彼らの旅費もすべて一が出した。

 野口が一行を伴って再び上京した際、一はシカに会った。野口よりもさらに小柄で、顔には深く皺が刻まれたその老婆は、ただでさえ針のような目をさらに細めて一に手を合わせ、「ありがとごじぇます、ありがとごじぇます」と旅費のことを感謝するのだった。自分の母も、生きていればこれくらいだったろうかと一は目頭が熱くなるのだった。

 旅先から野口は、銀座の星製薬本社に手紙を何通も送ってよこす。目の前にあるのは、今朝届いたばかりの一通で、講演旅行先の観光地をシカと見物した様子が書かれていた。初めて見る景色にシカは終始驚き、喜び、手を合わせては観音様に感謝しているらしい。シカはベッドでは寝たことがなく、どうも慣れないので和室のある旅館を探しているなどと微笑ましい話も書かれている。それでもやむをえずホテルに投宿しなければならないときがあるので、名古屋で畳屋によろしく頼み、請求書は星製薬に回しておいた──ともあるが、それはよく意味がわからなかった。

 とにかく、野口が長年会えなかった母と仲睦まじく関西を旅行しているのは一にとってもうれしいことだ。

 だが、喜んでばかりもいられなかった。

 野口の手紙の横にある封筒は、畠山ヨネからの手紙である。

 わが父は十一月四日に日本をお発ちと聞きました。その前日は再び大隈卿と面会するため帝国ホテルに宿泊するという情報も入っております。私はその日の夕刻、帝国ホテルに伺おうと思っております。──要約すればそういう内容であった。

「あと一週間……」

 忌々しい思いをかみつぶすように星はつぶやいた。

 ドアがノックされた。返事をすると、鳥打帽を被った若い社員が入ってきた。

「社長、名古屋の畳屋から請求書が届いておりますが、何を買ったのですか?」

 差し出された紙を、中身も見ずに突き返した。

「何でもいいから払っておけ。それより調査のほうはどうだ?」

「はい。劇団員のひとりひとりにもう一度話を聞きました」

 この七週間、一は若い社員数人を橫濱に派遣し、ヨネの身辺を調べさせていた。目の前で帳面の頁を繰りはじめるかわという社員もその一人である。彼の調べによれば、ヨネは橫濱の《木栓コルク座》という素人劇団の一員だということだった。

「劇団員たちに話を聞きましたが。みな口をそろえ、彼女はやる気のある女優だと言っています。『芸術座の芝居は西洋流といいながらどうも日本人に合わせすぎだ』と語っていたようで、いつか欧米の本場で学ぶのだと息巻いているそうです」

 芸術座というのはしまむらほうげつが始めた劇団で、まつという看板女優が最近とみに話題になるのだった。一はこの方面にはあまり明るくない。

「女優としての志は本物だということだな」

「はい。独学で英語やフランス語を学び、向こうの台本を読んでいるとも」

「ほう」

「そうだ。この土日に芝居小屋を借りて公演を行うそうで、ビラをもらってきましたが、行ってみますか?」

 河合はカバンから一枚のビラを取り出し、デスクの上に置く。

「興味がない。かねまつのほうはどうだ?」

 河合は再び帳面の頁を繰る。

 野口がかねまつと会った《石坂酒房》は、武田という老夫婦が経営する小さな飲み屋であった。かねまつはこの老夫婦と親戚であり、十六のときに両親を病で立て続けに失くしてから働き続けていたのだそうだ。野口と出会ったときには十八だったという。

 野口が渡米して数か月後、店主が倒れたことにより《石坂酒房》は閉店。店主の夫人は田舎に帰ったが、かねまつは橫濱にとどまり、女児を生んだことが地元の医院で確認できている。つまり、ヨネが野口の子どもであるという主張は、時期的には事実と合致している。

「かねまつはその後、酒屋、牛乳屋などと職を転々としながらヨネを育てておりました」

「それは先週聞いた」

「その後、二年前からはちようの洗濯屋に母子で住み込みで働いていたようです。そこの洗濯屋の女主人によれば、大正二年の秋ごろ、かねまつを訪ねてきた男がいたとのことです。かねまつとかなり親しげに話をしており、人相が特徴的で、鼻の右側に大きな四角いほくろがあったとか。このまま聞き込みを続ければすぐ見つかるかと」

 これは期待が持てる。

「よし、すぐ追うんだ。その四角いほくろの男がヨネの本当の父親かもしれん」

「いやあ、そりゃありません」

 河合は笑った。

「なぜだ?」

「四角いほくろの男は十九か二十か、それくらいの年齢だったそうで。もしヨネの父親なんだとしたら、四つか五つのときにヨネを作ったことになります」

 一も同じく空笑いをしたうえで、河合をどなりつけた。

「それじゃあ何も進展してないじゃないか!」

「は、はい、すみません……」

「野口が再びアメリカに帰るのに、あと一週間しかないのだぞ。もう一度調べてこい!」

「わかりました」とドアに向かう河合を「おい」と呼び止めた。

「グランドホテルの線はどうなった?」

 ずっと喉に小骨が引っかかっているような違和感。一がグランドホテルに部屋を取ったことをヨネが知り、待ち伏せができたのはなぜか──。

「わかりません。グランドホテルの従業員に片っ端からあたって訊ねましたが、ヨネとつながる者は誰もいません」

「ふむ。そうか、行け」

 一は肘掛椅子に深く腰掛けてため息をつく。デスクの上に河合が残したビラには、男女がダンスを踊る絵が描かれていた。こちらに満面の笑みを向けているこの女性はヨネだろうか。その女性の口が、不意に動く錯覚にとらわれる。

 私は野口英世の娘です。お認めになっては──?

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