野口英世の娘 第2回

 この変わり者の前で、一は一度だけ、涙を流したことがある。

 明治三十六年(一九〇三)、九月。郷里の母親が死んだというしらせが飛び込んできたのである。

 向学心に燃えた青年時代、一のやりたいことを父が反対したときに、母はことごとく味方をしてくれた。アメリカに行きたいと言ったときも、まず応援してくれたのは母だった。

「……そうか、つれえな」

 心情を吐露した一の前で、野口はぽつりとつぶやいた。そして、いつもポケットに入れたままの左手をすっと出した。

「星、おめえにこの手のことを話したことはあったっけか?」

 親指が変な方向に曲がっており、残りの四本は先が欠けたようになっている。何度か見たことがあるが、特に今までただすことはなかった。

「一歳の頃、囲炉裏に落ちて大火傷やけどを負ったのよ。母ちゃんはそのとき、家のそばの川で洗濯をしててよ。『おらが目を離さなきゃこんなことにはならなかった』と、大きくなってからもことあるごとに泣かれたもんだ」

 すべての指がくっついてしまう大惨事であり、小学校時代は級友にからかわれて悔しい思いをした。その左手を、会津若松の名医に手術で切り開いてもらったことがきっかけで医学の道を目指し、猛勉強をしたというのだ。

「馬鹿にされてつらかったけど、この火傷がなきゃ、俺は今アメリカにはいねえ。だからよ星、わかるんだ。俺ら息子にとって、母ちゃんってのはいつまでもでけえ存在だ」

 知られざる野口の生い立ちと母の想いが、一の涙腺をさらに刺激した。

「野口よ。おめえ、こっちに来てから里帰りはしたか?」

 涙を拭き、はなをすすりながら一は訊いた。

「してねえ」

「しろ。おめえが蛇の毒で成果をあげたことを知ったら、母ちゃん、喜ぶ」

「そうだな……でも、しばらくは無理だ。来月からデンマークに留学が決まってるからよ」

 世界の血清研究の中心であるコペンハーゲンの研究所に、費用全額免除で二年間行くのだという。一は素直に感嘆した。

「すげえな、おめえは」

「凝り性なだけだ。けど、こうなったら世界中の毒蛇相手に踏ん張るだけよ」

 そんな友人を見て、やはり一は思った。野口の母は生きているうちに、やがて偉人と呼ばれるかもしれないこの男に会っておくべきだと。

「おい、留学から帰ったら必ず、里帰りしろよ」

「ん? ああ。でも、旅費が心配だな。金を貯めるってのがどうも性に合わねえ」

「知ってるよ。俺に任せとけ」

「おめえも文無しじゃねえか」

「そのうち日本に帰って大事業を起こす。おめえ一人太平洋を渡らせるくらいの金、すぐに稼いでやる。船だけじゃなく、ホテル代、鉄道代、食事代、みーんな俺のおごりだ」

「忘れんじゃねえ」野口は不恰好な左手で、一の顔を指さした。「酒代もだ」

「調子こくでねえ」

 初めて会った日と同じく、二人は笑った。

 その後、一は新聞事業を軌道に乗せ、東海岸では少しばかり有名な日本人になった。だが、一の最終目標はあくまで「日本で日本人のためになる事業を興すこと」にあった。明治三十八年(一九〇五)、新聞事業のすべてを共同経営者に譲り、一文無しで帰国。《星製薬》という製薬会社を作った。ガス会社で捨てられる廃液に、アメリカで知ったよく効く薬の原料となる成分が多く含まれていることがわかり、安く買い受けて大量生産を可能にした。地方の村に一軒ずつ専売契約を結んだ店舗を作り、大々的に新聞広告を打った。製品は飛ぶように売れた。会社は瞬く間に成長し、ぎんの一等地にビルを建てるまでになったのである。

 一方の野口はデンマーク留学からアメリカに戻るとすぐに、ロックフェラー医学研究所の研究員に迎え入れられた。世界一の石油王が出資したアメリカ一の医学研究施設で、その待遇もこの上なくよかった。蛇毒の研究をまとめた分厚い著書を刊行したのち、世界を恐れさせていた梅毒の研究に着手、梅毒患者の脳内からスピロヘータというものを発見した。梅毒患者が起こす異常行動の原因を、精神的な強迫観念ではなく、実際に脳内にスピロヘータという悪い因子が入り込むことだと証明し、治療法の確立に大きく寄与したのである。

 蛇毒、梅毒のみならず、トラホーム、小児麻痺、狂犬病、結核とその研究範囲を大きく広げ、しかもすべての分野で結果を出す野口の活躍を、日本の新聞も大きくとりあげた。野口は東京帝国大学から理学博士の学位を与えられた。帝国学士院から恩賜賞も与えられた。さらに大正四年、ノーベル委員会によってノーベル生理学医学賞の候補にも選出された。

 日本でも知らぬ者はいないほどの有名人となった野口から一が電報を受け取ったのは、八月の初旬であった。

 ──ハハニアイタシ カネオクレ

 星はすぐに、五千円(令和の貨幣価値で約千三百万円)を送金した。


三、


はたけやまヨネと申します。数えで十六になります」

 少女はぺこりと頭を下げた。

 橫濱グランドホテル三〇一号室。一が野口のために予約した部屋である。

 ベッドはツイン。丸テーブルが一つに一人掛けの肘掛椅子が二つ。けして広い部屋ではないが、かえってこれくらいのほうが、フィラデルフィアの安下宿を思い出すようでいいだろうという配慮だった。

 テーブルを挟んで向かいあう肘掛椅子の一方には野口、もう一方には出入り口で待ち構えていたその少女が座っている。一はベッドに腰かけ、両手を支えのように後ろにして、彼女と野口を見比べていた。

「たしかに俺が日本を離れたのは十五年前だが……」

「身に覚えがねえってか」

 一は助け船を出すように野口に問うた。野口はうなずく。

 正直なところ、このヨネという少女の「私はドクター・ノグチの娘です」という主張にはさん臭いところがあると一は思っていた。

 アメリカで新聞事業をしていたころ、取材先で詐欺師の話を多く聞いた。支持者に政治資金をせびる「マッキンリー大統領の」、息子たちにもっといい飛行機を買ってやりたいんですと涙ながらに訴える「ライト兄弟の両親」など、有名人の関係者を装って金を出させるのだ。今や世界的名声を手にした野口英世にだってそんな者がいてもおかしくない。本人に会いに来るというケースは珍しいかもしれないが、一には目の前の少女が野口の娘だと疑う理由がもう一つあった。

 美しすぎるのだ。

 目はパッチリしていて口は大きすぎず、肌など雪のように白い。アメリカで十五年もすごしてもいまだ見た目は風采の上がらない野口に、こんな美しい娘などいてたまるか。

 ところが、

「《いしざかしゆぼう》のかねまつという女に、覚えはございませんか?」

 ヨネがそう言ったとたん、野口の顔色が変わった。

「お父様がアメリカに発たれる直前、《神風樓》でお遊びになった次の日に行った店の女でございます」

 一の脳裏に、フィラデルフィアの安下宿で野口に聞いた放蕩エピソードが浮かんできた。野口は、好きでもない相手と婚約をしてやっと作った留学費用を、橫濱の高級料亭で一晩で散財してしまった。その店の名が《神風樓》ではなかっただろうか。

「ああ、ああ……」

「どうした野口」

「たしかに憶えている。神風樓で留学費用にまで手を付けちまった翌日、俺は、さすがに自分自身が嫌になってよ、血脇先生にも言えるわけねえ、死んじまうかって落ち込んだんだ。それで……結局また、飲みにいった」

「お前ってやつはよ」

 十五年前のことながら、一は呆れかえってしまった。

「もちろん、女郎屋みてえな高え店はこりごりだったから、おんぼろの、安そうな飲み屋に入ったんだ。たしかに《石坂酒房》って店だった。しわくちゃのじいさんばあさんが切り盛りしてたが、酒を運んできたのは美しい娘だった。まるで泥の中に咲いた蓮のような美しさだった。それが、かねまつだ」

 俺はとっても悲痛な顔をしていたんだろう、と野口は言った。かねまつは心配そうに話しかけてくれ、野口は自分のしてしまったことを洗いざらいぶちまけた。

「彼女は優しく聞いてくれた。で、酔いつぶれちまった俺を、泊まっていた宿まで送ってくれ、朝まで一緒にいてくれたみてえだ」

「『みてえだ』って……」

「憶えてねえのよ。次の朝、彼女に揺り動かされて起きたときには、自分がどうやって宿まで戻ったのか」

 野口にありそうなことだった。

「ということは野口、その晩、彼女と?」

「いや」野口は顔を上げた。「彼女は『昨晩あなたは私に指一本触れてはくださいませんでした。残念でした』そう言って、部屋を出たんだ」

「じゃあ違うでねえか」

 一はほっとした思いで、ヨネのほうを見る。だがその顔は険しかった。

「お父様は母の女心がわかっておりませぬ。お父様がその夜のことを憶えておらぬ様子を見て、これからアメリカに渡って医学を修めんとする才能の邪魔になってはいけないと、自ら身を引いたのでございます」

 今にも泣き出さんばかりの迫力であった。

「医学者・野口英世の活躍が新聞で報じられるたび、母は私に言って聞かせたものです。『この方はあなたのお父様なのです。とても立派な方なのです。あなたの名前はあのお方の初恋の相手から取らせてもらったのよ』と」

 たしかに、ヨネといえば野口の口から何度も聞いた初恋の相手の名だった。

「母君は」野口はヨネに訊ねた。「かねまつは、今、どこに?」

「亡くなりました」

 ヨネは消え入りそうな声で答えた。

「今年の初め、肺炎で。死ぬ直前まで、一目お父様に会いたいと申しておりました」

「それは……」

「お父様、お願いがございます」

 ヨネは再び、語気を強める。

「再びアメリカにお戻りの際、ヨネも同行させてくださいませ。私は女優を志しております。アメリカへわたり、続いてヨーロッパへわたり、本場の演劇を勉強したいのでございます。母亡き今、身寄りはお父様しかおりませぬ。お父様には、このヨネをアメリカへ連れていく義務がございます」

「ふ、ふうむ」

 野口は唸った。ヨネはさらに語気を強めた。

「その気になれば新聞社の力でもお借りして、野口英世の娘だと名乗り出ることもできました。でも、アメリカに本妻がいらっしゃる世界的医学者に別の女との子があったと知られれば名声に傷がつくと思い、こうして誰にも知られぬよう会いに来たのです」

 誰にも知られぬよう会いに来た──一の中にふと、先ほどの違和感がよみがえってくる。この娘、どうして今日、一が野口を連れてこのグランドホテルに来ることを知りえたのか。

「もし一緒にアメリカへ行くところを記者に見られるのが嫌だというなら、船賃だけくだされば、私は後から別の便で参ります」

 やっぱり金だ。これは止めなければと一が口を出そうとしたそのとき、

「待て。とりあえず、猪苗代の母ちゃんのところに住んでくれねえか?」

 野口は意外なことを言った。ヨネも予想外だったようで「はい?」と訊き返す。

「母ちゃんはこの十五年で年老いて、畑仕事もままならねえようになってるだろう。あんたみてえな若い女が行って手伝ってくれたら……」

「何を言い出すんだ」

 一は思わず口を挟んだ。

「女房でねえ女とのあいだにこんな大きな娘がいたと知ったら、おめえの母ちゃん、ぶっとぶぞ。たとえ母ちゃんがよくても、周りはそうはいかねえ。『おめえんとこの息子はやっぱりとんでもねえやつだ』って後ろ指さされちまう」

 開化の時代をとうにすぎた大正にあっても、福島という風土はまだそうであった。実際、東京で成功している一の実家も、表向きは一の成功を祝われながら、陰では何かとやっかみを言われていると噂で聞いていた。世界的医学者となった野口の実家が同じような目で見られているのは間違いなかった。

「うう……たしかにそうかもしれねえ」

 野口は再び頭を抱えた。

「私もそう思います」

 思わぬ協力者がいたとでも言いたげに、ヨネは微笑んだ。

「おさまには内緒で、アメリカへ渡ったほうがよさそうです。どうぞ渡米までにお金を……」

「待ちなさい」

 一はヨネのほうに向き直る。

「この男はこう見えて一文無しだ」

「ご冗談を。ロックフェラー研究所にお勤めだと新聞に出ております。ロックフェラーといえば私でも知っている大会社、お給金もよろしいのでは?」

「こいつは給料をもらうとほとんど酒に使ってしまう。野口英世の辞書に貯蓄の二文字はないのだ。船賃、鉄道代、ホテル代その他、今回の帰国にかかる費用はこの星一がすべて出している」

「酒代もな」

 悪びれずにつけ足す野口を叱り飛ばしたくなる気持ちを抑え、一は話を続ける。

「もし君が渡米するとなると、その金は私が出さなければならないだろう」

「では、お願いします」

 ヨネはすぐに頭を下げた。金に遠慮のないところはたしかに野口に似ている。だがもちろん詐欺師の疑いも色濃い。

「はっきり言おう。私は、君がこの男の娘だということに疑いを持っている」

 ヨネは頭を上げ、一をにらみつける。一はひるむことなく続ける。

「この男は酒と金にはルーズだが、女っけはほとんどない。アメリカで妻をめとったと言うが、相手は相当の変わり者だろうと思っている」

「おい、言いすぎだぞ」

 むっとする野口を一は無視した。

「しかもかねまつさんという女性は、泥の中に咲いた蓮のように美しい娘さんだった。君の美しい顔もきっと母親譲りなんだろう。そんな美しい女性が、遊郭で留学費用を使ったあとで、性懲りもなく酒を飲んでくだを巻き続けるような男と一晩を共にするかね? 医学者の卵だといっても、当時はまだ今のような名声を手にするとはわかっていない、ぼんくらの酒飲みだぞ」

「言いすぎだってよ」

「君が本当に野口の娘だという確たる証拠を見せてもらいたい」

 ヨネはふっと笑った。

「私の名前が何よりの証拠です。初恋の相手の名など、心を許した相手にしか話さないでしょう」

「こいつは酔ったらすぐヨネさんのことをしゃべってしまう。君のお母さまにだって話したに違いない」

「ですが、母がその相手の名を私につけたことから考えて」

「ヨネなんてありふれた名前だ。それとも、いつか野口がこうなることを見越して、初めからたかるつもりでつけたのかもしれない」

 いささか無礼だったと、一は言ってから後悔した。それに今自分が言ったとおり、十五年前には野口がこんなに有名になるとは知りえなかったはずだ。

 だがヨネはそこには触れなかった。

「もしお金がもらえないのなら、私は新聞社にすべてをお話しするまでです。新聞は面白おかしく書き立てるでしょう。当然、猪苗代のお祖母さまや周りの方の知るところとなりましょうね」

「脅迫しようというのか」

「私は私の知っている事実を述べているだけでございます。否定されるならそちらが証拠を提示すべきではないですか。を」

 べんに聞こえるが、筋は通っていた。大正の女だ、と一は思った。一が渡米したころの日本にはまだ女性は貞淑たるべしという風潮があったものだ。こういう女が出てくるのを時代は待っていたのかもしれない。

 ……いや、感心している場合ではなかった。

「いいだろう」一は手荷物の中から名刺を二枚とペンを一本取り出した。「私はこういう会社を経営している。わが社は総力を挙げ、君の身辺調査をさせてもらう。もし君が野口の娘ではないという証拠が見つかったら、すっかり噓を認めてもらうぞ」

 あえて噓という言葉を使った。だがヨネはツンと澄ました様子で訊き返してきた。

「証拠が見つからなかったときは?」

「潔く君を野口の娘と認め、アメリカ行きの船賃を用意しよう。向こうでの滞在費もいくらか添えてな。こっちの一枚に、君の住所を書きなさい」

 ヨネは微笑み、橫濱の住所を記した。

「期限はお父様がアメリカにお戻りになる前日でよろしいですね」

「いいだろう。野口は二か月間日本に滞在する。再渡航の前日といえば十一月三日だ。それまでに君が新聞社に持ち込めば、当然、金を渡すことはない」

「もちろんです」

 そのとき、ドアがノックされた。当事者のくせにすっかりの外になっていた野口が「はい」と返事をした。ドアの向こうからボーイの声がする。

「星様。血脇様と小林様がご到着されました」

 懐中時計を出して見ると、まだ予定まで三十分以上あった。今、この状況を見られるとまずい。

「私は消えたほうがよいでしょうね」

 ヨネは察したように立ち上がり、最後に野口のほうを振り返った。

「それではお父様。またお会いできるときまで」

 野口は複雑な笑みを見せて見送った。

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