渋谷駅の共犯者 第4回
四、
四人の警官に囲まれて去っていく二人の姿を、英三郎は呆然と見送っていた。遠巻きに見ていた野次馬たちも、やがて散っていく。新しい電車が停車したようで、改札からは何も知らない乗客たちが吐き出されてくる。
渋谷駅はいつもの夕刻を取り戻そうとしていた。ハチは英三郎の足に寄り添うように四肢を折って座っている。
「それでは教授、私もこれで失礼する。近くに待たせてある自動車で、こいつを巣鴨に戻さなければならんのでね」
多田は銀次の手錠につながる麻縄をぐいと引っ張った。
「いてて。そんなに強く引っ張らなくったって、行くってのによ」
「待ってください」英三郎は止め、多田の右手を指さした。「私の資料を返してはもらえませんか」
多田は首をかしげるようなしぐさをし、
「それはできませんな」
と答えた。
「どうしてです。私の研究になくてはならないものです」
「スリが盗んだものだからです。裁判において証拠というものがどれだけ大事なものか、帝大の先生ならおわかりでしょう」
嫌みたっぷりだった。
「しかし、それではいつ返してもらえるのですか」
「さあ。それは判事次第でしょうな」
──私は帝大出身のインテリが大嫌いなんだ。英三郎の家の応接間でそう言っていた多田の顔と同じだった。
「
銀次が口角を上げ、言った。
「あいつが盗ったところはあんたの部下がみんな見てた。明々白々じゃねえですか。先生に返してやってくだせえ」
「黙れっ!」多田は上着の内ポケットに資料をしまうと、再びぐいと麻縄を引っ張る。
「おお、いてて」
「貴様など本来、檻の中にずっといて当然なのだ、来い」
「いてえって!」
と、銀次は何かに
「いてえ、いてえ。旦那、手を貸してくだせえ」
「大げさなのだ、貴様は」
多田は銀次を立たせようとするが、その手を頼りに立ち上がろうとした銀次は、今度は尻もちをつく。
「ああ……腰が抜けちまった。情けねえ。あっしももう、年だ。ハチ、助けてくれ」
なぜここでハチを頼るのか。しかし、銀次の言葉がわかっているかのようにハチは、英三郎の足元からすっくと立ち上がり、銀次の傍へ近づいていった。
「おお、ハチ。ありがとうな。ここに座ってくれ」
さっきまで自分の手錠を隠していた手拭いを地べたに広げ、たん、と銀次は叩いた。すぐさまハチは、その手拭いに腹をつける体勢で伏せた。
「おお、おお。先生、この犬はいい犬ですぜ。ちゃあんと待つことのできる犬です」
手錠のはまった手で銀次は背中をなでる。ハチは、わん、とひと吠えした。
「先生もハチを見習って待つんです。資料が返ってくるその時をね」
「何をぐちゃぐちゃ言っておるんだ、本当はちっとも痛くなどないのだろう、立て」
無理やり立たせられた銀次は、多田に引っ張られていく。
「ああ、またあの暗い檻の中に戻るのか、嫌だなあ、やっぱり娑婆の自由な空気がいい。先生、ハチ、お元気で~」
どことなく芝居がかった様子で、銀次は遠くなっていった。英三郎は軽く手を挙げる。ハチはずっと腹をつけたままの体勢で見送っている。
やがて二人の姿は、見えなくなった。
「帰ろうか、ハチ」
英三郎が声をかけると、くーんと甘えるような声を出し、ハチは立ち上がった。その体の下に銀次が敷いた手拭いがしわを作っており……。
「おや?」
手拭いの中央にふくらみがある。何かが下に置いてある? 手拭いを拾い上げ、英三郎は目を疑った。
「これは!」
折りたたまれた紙束が覗く、封筒だった。拾い上げ、中身を取り出して広げる。間違いなかった。さっき多田刑事に持っていかれたはずの資料であった。
「いったい、なぜ……」
その答えを、英三郎はすでにわかっていた。
すっころび、手を貸せとわめく銀次。身をかがめた多田の注意は、上着の内ポケットになど向いていようはずはない。封筒を抜き取り、ハチを呼び寄せる銀次。手拭いを広げてその下に封筒を忍ばせ、ハチの背中をなでて伏せさせた……。
──先生、この犬はいい犬ですぜ。
あの笑顔が、思い返される。
──ちゃあんと、待つことのできる犬です。
ハチはたしかに銀次の意図を察し、主のために待っていたのだ。資料を腹の下に隠したまま、多田が気づかず去っていくのを。
「ハチ、お前……、スリの共犯者になったのか」
自分で言っていておかしくなり、英三郎は笑った。笑いながら、今、目の前から消えたばかりの明治のスリに会いたくなった。また彼と話ができるのなら、巣鴨刑務所のあの陰気な面会室も悪くなかった。
「ハチよ。仕立屋銀次というのは、大したお人だな」
わん! 電気の街灯の灯りの下で、ハチは嬉しそうに吠えた。
この翌月、上野英三郎は東京帝国大学教授会に出席した直後、脳溢血で倒れ、還らぬ人となる。その後何年にもわたって、渋谷駅の改札前で主を待ち続けたハチの姿は、永遠に人々の心の中に残ることとなるだろう。
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