都の西北、別れの歌 第1回
一、
大正七年十一月五日、午後二時。東京、
秋風吹きすさぶ市電沿いの道を、一人の男が歩いていく。身長は百七十センチメートルを少しこえる。両手で木箱を抱えており、鍛え上げた筋肉はコートを着ていてもそれとわかる。
すれ違う人の中には、彼を見て「おや」と振り返る者もいる。今は一介の新聞記者であるが、十年ばかり前は、
近づくにつれ、雰囲気がどこかおかしいことに彼は気づいた。稽古場も兼ねていると聞くので、昼間からはつらつとした稽古の声でも響いているのではないかと思っていた。しんとしているわけではない。むしろ人の気配は多く感じる。それでいて、どこか不吉な感じが漂っているのだった。
劇場の脇の扉が開き、男が一人、出てきた。中肉中背、丸いレンズの眼鏡──懐かしい顔だった。今や作曲家として名を上げた、
「中山君」
声をかけると、彼は伏せていた目を上げた。
「あっ、
「いかにも吉岡
ここまで話したところで吉岡は、中山の目が赤いことに気づいた。泣いていたようだ。
「何かあったのか」
「まだ、ご存じではないのですか」
「知らん。山口の親戚が食いきれんほどのみかんを送ってきた。芸術座にもらってもらうついでに、
中山は目にみるみる涙を浮かべたかと思うと、ずずっと
「今朝がた、亡くなられました」
「誰がだ?」
「抱月先生です」
吉岡は、頭をこぶしで叩かれたような気になった。
「ご遺体はまだ、二階に……」
みかんの箱を放り出し、吉岡は開いたままの扉から中に飛び込んだ。下駄を脱ぎ捨ててかまちへ上がると、右手に上り階段が見えた。幅が狭い階段だった。吉岡は体を斜めにするようにし、どたどたと上る。途中で折れ曲がっており、方向転換の時は壁に体をぶつけずにはいられないほどであった。
やっとのことで二階に出る。突き当りの部屋のふすまが開いていて、人があふれているのが見えた。
「抱月先生ッ!」
自分でもわかるほどの胴間声をあげて駆け寄る。振り返る一同を吉岡はかき分けるようにして部屋に飛び込んだ。書籍に囲まれた六畳間。その中央の布団に、青白い顔の瘦身の男性が目をつむって横たわっている。
「抱月……先生……」
かつて「早稲田のバンカラやじひげ将軍」として名をはせた男、吉岡信敬は、がっくりと膝をついた。
二、
運動を
早稲田に野球部が設立されたのは、まだ「東京専門学校」という名であった明治三十四年のこと。翌三十五年には初代野球部部長・
明治三十六年には
そんな早稲田大学野球部の創設期において、学内のみならず東京中に名を知られた学生が吉岡信敬であった。といっても、彼は選手ではない。応援隊長である。
幼いころから近所の年上の少年を相手に喧嘩を繰り返す乱暴者だったが、曲がったことが嫌いで、納得のいかないことがあれば大人にも食って掛かった。早稲田中学に入学してから、その豪傑ぶりに磨きをかけ、同級生のみならず上級生からも「ひげのおじさん」と呼ばれるほどになった。学業などそっちのけ、常に何かを相手に、仲間を鼓舞して騒ぎ回っていた。
初の早慶戦が行われた当時、中学生だった吉岡はその観客席にいた。後攻早稲田の第一打者がボールを捉えたその瞬間、吉岡の体は鉄火のごとく熱くなった。
「打ったあっ!」
考えるよりも早く客席最前列に躍り出ると、右腕をぶんぶん回して叫んでいた。
「はあしれっ! 走れ走れ走れッ! もっと早く走らんかっ!」
年上の選手に向けて怒号を放つその中学生に周囲の観客たちは呆れていたが、吉岡はそんなことには構わず、その後も叫び、飛び跳ね、地べたを転げ回って応援した。七回が終わるころにはほとんど声は
結局その日、早稲田は負けたが、燃え尽きて仰向けになっている吉岡のもとに次々と上級生が集まり、
「吉岡、君のおかげで白熱したぞ」「久々に体の中が熱くなった。次もまた、頼む」
ねぎらいの声をかけていった。
以後、吉岡は野球のみならずあらゆる早稲田のスポーツの試合の場に足を運んだ。えび茶色のカレッジフラッグの導入など、応援のスタイルも整っていき、顔見知りとなった早大生や卒業生が声を合わせるようになってくれた。応援席の最前線に立って千人以上の観客を鼓舞するその姿は対戦相手の学校すらも魅了するほどであった。ハイカラがもてはやされる世の中において、身なりなど気にせず、早稲田の同志たちと闊歩するその姿は、「バンカラ」という言葉と共に、新聞にも取り上げられるようになった。
相変わらず成績のほうは
そんな吉岡が島村抱月と初めて言葉を交わしたのは、明治四十四年、早大生となって五年目の秋のことだった。場所は英文科校舎、通称・グリーンハウスの前である。
「吉岡信敬君」
声をかけられて振り返ると、やや青ざめた顔に口ひげを蓄えた瘦軀の教授が立っていた。
「英文科の
「はッ! 存じ上げておりますッ!」
「吉岡君のことは学生諸君から聞き知っています」
偉ぶったところのない、柔らかい物腰だった。学生に慕われるのもわかるというものだった。
「ありがたき幸せであります!」
「実は、折り入って吉岡君に相談したいことがあるのです」
「先生が、吾輩に、相談……?」
「先日、
吉岡には、思い当たる節があった。
「ははあ、そういえばあそこの野球部の合宿所の裏手に新築の家ができましたが、あれは先生のお宅でしたか」
「そうです。一昨日、そこへ引っ越したのですが、野球部のみなさんが合宿所から大声で叫ぶのです。『引っ越しそばはどうした』『無礼者、それでも早稲田の教授か』とね」
付き合いのある野球部連中の顔を思い浮かべ、吉岡は笑いをかみ殺す。
「あやつらのしそうなことであります」
「私はどうも、こういう習慣が苦手です。今まで何度も引っ越しをしましたが、そばをふるまったことはありません。いったいどうしたものかと」
学者の野暮。そんな言葉が吉岡の頭の中に浮かぶ。
「先生、おやりになったらよいでしょう。連中を手なずけておけば、役に立つこともあります。新居に招いて、そばを振舞っておやりください」
抱月は眼をしょぼしょぼさせて考え込んだ。吉岡は、沈黙に耐えられる性分ではない。
「そばごときで早稲田男児がけちけちするものではありませんぞ」
「ああ、いえ、そばを御馳走するのは嫌ではないのですが……体を動かす学生諸君が、そばで喜びますでしょうか」
「はい?」
「英国に留学していた時分、向こうの学生スポーツの選手を見ました。皆、筋骨隆々、ミケランジェロのダヴィデ像のようでした。肉をよく食しておるとのことでした。せっかくならば私もローストチキンなどを野球部の諸君に供したいと思いましたが、そばの代わりにローストチキンでは失礼にあたるかと懸念もしております。吉岡君、どう思われますか」
吉岡はわははと笑った。
「飯を食わせてもらって失礼だと言い出すやつなど早稲田にはおりません。引っ越しローストチキン、大いに結構。東西古今の文化の
早稲田大学校歌『都の西北』の三番の歌詞をふまえたものである。作詞・
「君は面白いことを言いますね」
抱月は少しだけ、口角を上げた。
三日後、野球部の連中に交じって吉岡も抱月の新居を訪れた。
「こらっ、貴様、一年のくせに先輩より先にももにかじりつくやつがあるかっ!」
「先輩も何も関係ありません。第一、吉岡さんは野球部員ではないでしょう」
罵声を浴びせ合いながらチキンを奪い合う野球部の面々と吉岡を、抱月の妻は
それからというもの、吉岡は折に触れて島村の家を訪れるようになった。とにかく男にはモテる吉岡のことであるから、「実家から送ってきたのです」と、地方から上京している後輩たちが食べ物を持ってくる。そういうものを、吉岡は島村の家に持っていくのだ。
「まあ吉岡さん、いつもありがとうございます」
抱月の妻、イチは、そんな吉岡を丁重に迎えてくれた。ローストチキンの日には冷たかった彼女も、次第に吉岡の人柄に心を開くようになっていた。吉岡はそのついでに抱月に挨拶をし、持参した英語の教科書を広げて訳を訊ねるのである。ところが英語の知識の豊富さゆえ、抱月の指導は吉岡の頭には難しすぎた。講義よろしく止まらなくなる抱月に対し、どう切り上げたものかと困っていると、必ず助けが入った。
「ひげのおじちゃん、見て見て。新しい髪留めよ」
十二歳になる次女、キミである。すぐに二つ上の長女、ハルが追ってくる。
「キミ、いけないわ。吉岡さんはお父様とお勉強中なのよ」
「いいじゃないの、おじちゃん。お庭でまりつきしましょう」
「おお、しようしよう」
抱月の子どもは、この二人の下に男が三人いたが、長男は引っ込み思案、あとの二人はまだ小さいので、もっぱら吉岡になついていたのはキミであった。まりつき、石けり、縄跳び、それに飽きたら兵隊ごっこなど男の子らしいこともキミはやりたがった。
キミと吉岡が遊んでいるのを、抱月は困ったような嬉しいような顔をしてただ眺めていた。蓄えたひげでやっと威厳を保っているような青白い顔。生真面目で、冗談を言ってもけっして大口を開けて笑うことはない。ただ口角を上げて目を細めるだけだが、その上品な感情の揺らぎに何とも言えない安心感があるのだった。
「吉岡君、娘と遊んでくれてありがとう。私はどうも、子どもと遊ぶのが苦手でしてね」
キミが疲れて眠ると、抱月はそう礼を言った。
「いいのです先生。人には天分というものがあります」
「どちらが先生かわからぬことを言いますね」
島村抱月と吉岡信敬──演劇とスポーツ。百年経っても早稲田を動かし続ける文化の二大車輪は、華の大正時代を前に、確実に交流していたのである。
さて、この家には、もう一人忘れてはならない男が住んでいた。東京音楽学校に通う書生、中山晋平である。丸眼鏡をかけた気弱そうな顔つきだが、抱月の論文の清書を手伝う傍ら、洗濯、風呂焚き、子どもの世話と島村家の家事をなんでもよくこなした。
明治四十五年になる頃から、抱月は文藝協会の仕事が忙しくなり、不在のことが多くなったが、そんな時は吉岡は英語の課題について、中山に訊ねるようになっていた。西洋音楽に関する洋書を読み漁っていた中山は英語にも明るかったのである。
「本当に僕は抱月先生みたいな素敵な人の家で書生ができて幸せですよ」
中山は、事あるごとに吉岡にそう言った。
「先生の本願は、演劇を通じて日本の芸術を西洋の域まで高めることにあります。でも、大衆を置いてけぼりにして、芸術の向上はありえないとおっしゃるのです。高邁な精神と、大衆に受け入れられることとの均衡をどのように取っていくかということに、非常に心を砕いておられます」
「さすが先生だ。楽しく、そして気分を高揚させうるものでなければ人はついてこまい」
「早稲田の応援隊長らしいお言葉ですね。先生はよく、吉岡さんのことをお話しになっていますよ。ひょっとしたら吉岡さんの姿こそ、先生の理想とするものなのかもしれません」
「かいかぶりだよ中山君。だが、吾輩に一つ言えることがあるとすれば、自分が率先して楽しまねば皆はついてこないということだ」
「なるほど……。いつか僕もそんな音楽が作れるでしょうか」
悩ましげに頭を抱えるこの青年が、後に『カチューシャの唄』をはじめ、『シャボン玉』『
ともあれ、しっかり者の妻に可愛い子ども、働き者の書生。島村家には、理想的な家庭のすべてがあるように吉岡には思えていた。
だから、この時の吉岡に予想などできるはずがなかったのである。──島村抱月が妻子を捨て、別の女性のもとへ走ることを。
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