都の西北、別れの歌 第2回


三、


 冷たくなった抱月の枕元に座し、吉岡はまだ学生だった頃の自分と、抱月との交流を思い出していた。そうしているうちに、抱月が死んでしまったことがだんだんと心の中で現実となっていき、悲しみが体中に広まっていった。涙がこぼれ、両膝の上に乗せている拳の上に落ちた。周りの者もみな、悲しい沈黙に包まれていた。

「高熱が出て倒れ、そのまま逝ったそうだな」

 誰かがしわがれた声でぽつりと言った。

「流行りの感冒(インフルエンザ)でしょう。恐ろしいことです。才能ある人ほどすぐに世を去ってしまう」

 少し若い声が応じる。涙をぬぐいつつ二人のほうに視線を移し、吉岡ははっとした。

「東儀先生に、相馬先生ではありませんか」

「久しぶりだね、吉岡君。さっき訃報を聞いて、飛んできたんだ」

 年配のほうは東儀鉄笛。早稲田では抱月とともに文藝協会の中心人物として活躍した、俳優もこなす作曲家である。抱月が文藝協会を去る時に仲たがいをし、以後は没交渉だったと聞く。

「私もです。たまたま用事で、三日ほど前から東京に滞在していたのです」

 若いほうは相馬御風。抱月のもとで『早稲田文学』の編集を行った文学者だ。

 二人とも抱月に深いかかわりを持つ早稲田の大先輩だが、それよりも吉岡の心を震わせることがある。東儀鉄笛と相馬御風──『都の西北』の作曲者と作詞者である。

「坪内先生もまた、こちらに向かっているそうだ」

 東儀が言ったその時、

「みなさん」

 廊下から、中山晋平が声をかけた。

「今、劇団の者で話し合いましたが、明日、階下の劇場で抱月先生の惜別の会を開きたいと存じます」

「ああ、まあそれがいいだろうね。島村抱月の通夜ともなれば人がたくさん来るだろう。自身が夢を見た舞台の上で送ってやるのがよかろう」

 芸術座は島村抱月の夢──それを聞いて吉岡の頭の中に浮かぶのは早稲田ではなく、遥か海の向こう、朝鮮半島は京城(現・ソウル)のくすんだ曇天であった。しかしあの日のことより前に、別のことが引っかかった。

「中山君、先生をどうやって下にお運びするのだ?」

 中山のみならず、吉岡の疑問の意味が、その場の誰にも伝わらなかったらしい。

「皆で階段で運べばいいだろう。島村はこの体格だ、そんなに重くもあるまい」

 東儀が答えた。

「失礼ながら東儀先生。ここの階段は幅が狭く、しかも途中で折れ曲がっておりました。今朝がた亡くなったのであれば、先生の体はすでに硬直しておりましょう」

 新聞社で働くうち、人の死の現場にも何度か出向いており、こういうことにも詳しくなったのである。

「階下へ運ぶには先生の体を折り曲げねばならぬでしょうが、それは失礼にあたるのでは」

「たしかに」

 相馬が蒼白な表情で同意する。

「どうしよう。抱月先生のご遺体を折らずに、この二階から下に降ろすことができるだろうか」

「舞台上手の階段があります」

 中山の隣にいた、きゅうりのように顔の細長い瘦せた男が言った。かわむらという名で、芸術座の団員ということだった。

 芸術座の建物は一階全体が舞台、二階が楽屋になっており、抱月の居室となっているこの部屋ももともと楽屋だったそうだ。一階の舞台の上手には、大部屋俳優の楽屋に通じる階段があり、幅が広いわけではないが途中で折れ曲がっていないので抱月の体は折らずに降ろせるだろうと川村は言った。

「しかし、あの階段は今、物置状態だ」

 中山晋平が困ったような顔で言う。

「階段が物置状態なのか?」

 吉岡の問いに、中山は「ええ」と頭を搔いた。

「勝手に片付けると何と言われるか……」

「よくわからんが、抱月先生を階下にお運びする方法が他にないなら、片付けるしかあるまい。案内してくれ」

 吉岡が有無を言わさぬ雰囲気で立ち上がると、中山も渋々うなずいた。相馬、東儀、他数名も連れだってぞろぞろと部屋を出ていく。二つ部屋を横切ると、大部屋にたどり着いた。見習い俳優とおぼしき若者たちが五名、泣きはらした目で吉岡たちを見上げた。

 板敷のその部屋の隅にたしかに、下へ降りる階段がある。吉岡は傍に立って見下ろす。舞台までのすべての段に、木箱や脱ぎ捨てられた舞台衣装が置かれていて、階段の用を成していない。

「こりゃひどい。なぜこんな状態なんだ?」

「全部、さんのものです」中山がばつがわるそうに答えた。「和洋に関わらず服がお好きなので、お金が入るたびに買いそろえるんですが、整理が苦手で。部屋に置いておくと狭くなるからと、ここに置くんです。こんな階段、どうせ使わないんだから置いておいてもいいでしょう」

「芝居中は使うのだろう?」

「いいえ、使ったことはありません」

 中山ではなく、きゅうりのような川村が答えた。

「あれはこの舞台ができて半年ほど経った時でしたでしょうか。抱月先生は経理を担当している私を呼びつけ、どうしてもここに階段を作りたいとおっしゃったのです。役者はみな本番中はそこの袖にいますし、お金もかかるので無駄です。第一、上演中に舞台から見えてしまうではないですかと申し上げたのですが、いつもは穏やかな先生が『上演中は背景を立てて隠せばいいではないですか。どうしても作らなきゃいけないんです』と、強く主張されまして……」

「島村らしいな」東儀が淋しそうに微笑んだ。「頭のいい男だが、たまにそういうおかしなことを言い出すんだ。そういう時に限って変に強情でな」

 吉岡の知らない抱月の一面だった。

「実際、この階段は芸術俱楽部の一番の謎なんですよ」

 中山が首をひねった。

「創設以来、この舞台ではいくつもの劇が上演されましたが、先生が台本をお書きになった演目でさえこの階段を使ったことは一度もないのです。背景を立てても、上の隙間から階段は見えてしまうので、上演中に俳優が上り下りしたら、客は気になってしようがありません。いったい先生は、どうしてこんな階段を作らせたのか……」

 たしかに不思議な話ではあった。だが、今はそんなことを言っている時ではない。

「とにかくこの荷物を動かしてしまおう。この部屋は広い。ここへ上げても構わんだろうね」

 吉岡が言った瞬間、「とんでもない!」と悲鳴にも似た声が飛んできた。目をはらしていた見習い女優だった。

「ここにその荷物を引き上げると、須磨子先生は激怒されます。踊りを勉強する神聖な稽古場に、無駄なものを置くとはなんたることかと、それはもうすごい剣幕で……」

 女優は青ざめていた。

「無駄なものだと」「自分のものでしょうにね」

 そろって呆れる東儀と相馬。そのそばで中山と川村は困ったように顔を見合わせ、見習い女優は顔を覆い、ぶるぶると震えている。この劇団でまつ須磨子という女が恐れられていることが、まざまざと感じられた。

 希代の女優にして、勝ち気でわがままな愛人……吉岡は、四年前の京城を思い出す。最後に抱月に会ったあの日、松井須磨子にも会っていた。


四、


 吉岡が早稲田大学を中退したのは、島村家を訪れるようになってから一年もしない、明治四十五年の春だった。学業が思うようにはかどらず、学費の捻出にも困る日々。いつまでも早稲田でバンカラを気取っているわけにもいかぬというのが理由だった。あちこちの学生団体から「やめないでください」と泣きつかれたものの、吉岡は頑としてきかず、早稲田を去った。

 頭を使うより体を使うほうが世の役に立てるだろうと一度は軍隊に入隊したが二年で除隊し、知り合いのつてを頼って新聞社に入社した。勉強はできないが、早大時代に頼まれて方々の学生雑誌に寄稿していた経験から、軽妙な読み口の文章を書くのは得意であり、先輩記者からも評価された。そして吉岡は入社してからわずか一年後の大正四年、京城の支社に赴任を命じられたのだった。

 吉岡が人生に四苦八苦していた四年の間、島村抱月はそれを遥かに超える波乱の人生を歩んでいた。きっかけは、松井須磨子という女性である。

 明治四十二年に文藝協会の女優志望者として抱月の前に現れた時には演劇のエの字も知らない素人だった彼女は、勝気な性格と不断の努力によって文藝協会になくてはならぬ女優へとめきめき成長していく。抱月はそんな彼女に次第に惹かれていき、妻子がありながら道ならぬ恋に落ちた。

 研究生には恋愛禁止を強いておきながら、指導する立場にある者が女優と恋仲になるとは何事か! 激怒した協会長の坪内逍遥は査問会を開き、抱月は詰問された。かつての同志、東儀鉄笛にもさんざん責められた抱月は、須磨子や数人の役者を引き連れて文藝協会を退会し、早稲田からほど近い神楽坂に「芸術座」を開く。大正二年のことである。

 恩師や同志とこじれた抱月はその後、自ら早稲田の教授職をも捨て、演劇活動に邁進していくことになる。看板女優の須磨子との関係はさらに深くなり、大正三年にはついに家族の住む戸山の家を出て、芸術座の二階で須磨子と同棲生活を始めた。

 一連のスキャンダルは、報道により広く世間に知られた。女優にたぶらかされ、転落した大学教授……そのイメージもあってか、芸術座は初めから苦難続きだった。上演する演目はことごとく酷評を受け、運転資金は底をつき、発足一年で解散寸前まで追い込まれた。ところがこの状況は、とある作品をきっかけに一変する。

 トルストイ原作、『復活』──青年貴族士官にもてあそばれたうえに捨てられ、娼婦に身をやつす娘、カチューシャを主人公にした作品である。犯罪に関わってシベリアに送られるロシア娘の運命に観客は涙し、息もつかせぬ展開と未来への希望を感じさせる結末に心を動かされる。それまでの芸術至上主義から思い切り大衆向けにシフトした抱月の目論見は大当たりした。

 カチューシャを演じた松井須磨子の演技はどの新聞や雑誌の劇評でも大絶賛。のみならず、劇中で歌われる「カチューシャの唄」も大人気となり、レコードに吹き込まれるなり全国で飛ぶように売れた。蓄音機が二万数千台しかない時代に四万枚という驚異的な売り上げを記録したことから、日本初の国民的流行歌と言われたほどである。

 吉岡ももちろん、芸術座の躍進は知っていた。抱月の家族を心配しないでもなかったが、かつての恩師が中山晋平の曲とともに世の中に受け入れられているのが嬉しく、誇らしかった。

『復活』により名声を得た芸術座は大正四年になると、相次ぐ全国からの公演の依頼に応じ、東北・北海道へ巡業公演を行うこととなった。その巡業は台湾、朝鮮にまで及ぶこととなり、ついに吉岡のいる京城にやってくることになったのである。

 早稲田を中退した時、吉岡は連日の送別会のために、島村家へ挨拶に行くことができなかった。その非礼を詫びる意味でも抱月に会いに行くべしと思ったが、大人気の芸術座の公演チケットを手に入れることも、楽屋へ挨拶に行くこともかなわなかった。

 しかし、そんなことで諦める吉岡ではない。久々にバンカラ魂に火が付き、初日公演の前日、京城のホテル街へと足を運んだ。

 ホテルは、道の両側にざっと二十は立ち並んでいる。ファンが押し寄せるのを防ぐため、芸術座の投宿先は一般には知らされていない。どのホテルも、窓は閉め切られている。望むところだ──吉岡は右手を拳にして天高く振り上げ、息を吸い込んだ。

「みぃーやこー、の、せーいほぉーく、わせだーの、もぉーりにー」

 馬を引く男も、道端で遊んでいる子どもたちも、ホテルの小間使いらしき少年も、そろって吉岡を注視している。戸塚球場で千二百人の聴衆を鼓舞したガラガラ声は健在であった。

「そびーゆぅーる、いらーかーは、われらーが、ぼこぉーう」

 歩きながら、二番の終わりまで歌い終わった時であった。

「吉岡君、吉岡君」

 慌てたような声が右手頭上より聞こえた。見上げれば、すぐそばのホテルの三階の窓が開き、懐かしい口髭の顔が覗いていた。

「やあ先生、お久しぶりです。どうぞ、降りてきてください」

 抱月は困惑と喜びの入り混じった顔で微笑むと、顔をひっこめた。ほどなくして抱月は出てきたが、背後にぽっちゃりした婦人を伴っていた。

「はるばる朝鮮に来たというのに『都の西北』が聞こえたので驚きました。なぜ京城にいるのです?」

「わっはは。この吉岡信敬、はれて新聞記者となり、社より京城赴任を命ぜられ、海を渡ったのであります。芸術座がめでたくもここ京城で巡業公演を果たすと聞き、抱月先生に会いに参りました」

「あの吉岡君が記者に。何と嬉しい報告なのでしょう」

「嬉しいのは吾輩のほうです、先生。芸術座はすさまじい人気ではないですか。先日、社員寮の向かいに住む八歳の女の子が『カチューシャの唄』を口ずさんでいるのに出くわしました」

「そうですか。いや、お恥ずかしい」

 その時だった。

「何がお恥ずかしいもんですか。私が歌ったあの唄のおかげで先生も役者もみんな、食えていけるんでしょうに」

 婦人が口を挟んだ。若いが、けして美人とはいえない顔立ちだった。細い目はどことなく狐を思わせる。

「もしやと存じますが」吉岡はその時初めて気づいた。「松井須磨子さんではありませんか」

「ええ、そうよ」

 気高い感じで、彼女は答えた。吉岡は体中の筋肉がこわばる気持ちになった。この小太りの婦人が……

「これは名乗り遅れました。吾輩は、吉岡信敬。早稲田では島村先生に大変お世話になった者であります」

「知らないかね。吉岡君はちょっと有名だったんですが」

 吉岡のことを簡単に須磨子に紹介した。須磨子はつんとした表情で聞いていたが、

「前は有名でも、今は新聞記者でしょ。私たちのことを取材に来たのね。よく書いてくださいな」

「いいえ。吾輩は社会部でありまして、劇評は門外漢であります。本当に島村先生にお会いしに来ただけで」

「そうなの」大してがっかりする様子もなく須磨子は言うと、抱月のほうを振り返る。「ねえ先生、吉岡さんと久しぶりなら、一緒にお食事でも行きましょう。あのうどん屋はどうかしら」

「ああ、それはいいね。吉岡君、お腹はすいていますか。ここ京城にも日本のうどんを食べさせてくれる店があることを、一昨日知ったのです」

 食事に誘われて断る吉岡ではなかった。それより、松井須磨子という婦人に存外優しいところがあるところを見て取って、ほっとした。連れ立って通りを歩こうとしたその時、

「先生!」

 ホテルの入り口から島村を呼ぶ男があった。

「第二幕の変更点の件について……」

「ああ!」珍しく大声を出すと、島村は申し訳なさそうに吉岡のほうを向いた。「すみません、ちょっと仕事が、すぐ終わります」

「それなら、私が先にお連れするわ」

 須磨子が口を挟み、吉岡は彼女と二人で、京城の街をそぞろ歩くことになったのだった。

 日本が韓国を併合してから五年、日本風の建物もちらほら見えるが、おおむね朝鮮の雰囲気が色濃く残っている。あちこちから聞こえる言葉も、日本語より朝鮮語が多い。

 吉岡は須磨子に何を話していいのかわからなかった。もとより婦人と二人きりという状況に弱い。それに加えて、須磨子に対するイメージがあまりよくないのである。抱月をたぶらかし、家族から引き離した魔性の女──そういう記事を読んだことは一度や二度ではない。女優としては天下一品だが、私生活はみだらに違いない。──もちろん、須磨子の人気に対する妬みと悪意が多分に含まれた記事であろうことは吉岡も理解しているつもりだが、抱月の妻子を知っている吉岡としてはなおさら、胸中が複雑になる。今、隣を歩いている女性が、あの温かい家庭から抱月を奪ったという事実は間違いないのだから。

「酷い女だ──そう思っているのでしょう?」

 本町通りと書かれた派手なアーチの日本人街が見えてきたところで、須磨子はふと立ち止まり、そんなことを言った。吉岡は飛び上がりそうになる。

「隠さなくてもいいのよ。世間で何と言われているかなんて知っているわ。愛欲にまみれた厚顔な愛人。興行収入のほとんどを懐に入れるがめつい女」

「そうなのですか?」

「『ほとんど』というのは言い過ぎよ。だけど、私の歌と演技で儲かっているのだから、多くもらうのは当然だわ」

 あくまですました口調で、彼女は言った。

「それに先生ったら、自分の分のお金の半分は、いまだに前の家族に渡しているのよ。憎たらしいったらありゃしない。なんであんな梅干しばばあと可愛くない子どものために、私が働かなきゃならないのよ」

 懇切なイチ、大人びたハル、そして、いつも遊んでほしがったおてんばのキミ──抱月の家族の顔が思い出され、吉岡の胸は痛む。そんな吉岡の顔を、須磨子は挑戦的に見つめた。

「私のこと、お嫌いになった? いや、初めからお嫌いよね? 無理にご一緒しなくてもいいのよ吉岡さん。先生にはうまく言っておきますから、こんな不愉快な女と食事などせず、お帰りになっても」

 吉岡は鼻から息を吸い込む。日本とは違う埃っぽさが体内に取り込まれ、いくぶん気持ちが落ち着いた。抱月はこの女のために家族を捨てた。人の道に反することだ。だが、その抱月の活躍を「嬉しい」と思っていたし、先ほど、抱月本人にもそう告げてしまった。その活躍は、抱月が須磨子のもとに走ったからこそである。須磨子の行為が罪ならば、自分もまたその罪を称賛したことになりはしまいか。須磨子に人の道を説く資格など、自分にはありはしない。──曲がったことの嫌いな吉岡の思考はそういう結論になる。

 だが──と吉岡は思い直す。抱月を敬愛する気持ちに変化はない。敬愛する恩師をおとしめる言葉に対しては、教え子として一言あって当然である。

「須磨子さんは、演劇が楽しくはないのですか?」

「はい? 仕事よ。楽しいも何もないわ」

 吉岡はばしっと膝を揃え、背筋を伸ばして須磨子と対峙する。

「この吉岡、それは噓とお見受けします。観客はみな、須磨子さんの演技を見、歌を聴き、楽しみ、高揚した気持ちで劇場を後にする。そうでありましょう?」

「そうだけど……」

「吾輩はかつて、応援隊長として戸塚球場を埋め尽くす千人以上の観客を鼓舞しました。観客たちを鼓舞するにはまず何よりも、自分を奮い立たせねばならぬものであります。吾輩には須磨子さんのような才覚も技量もありませんが、客前でパフォーマンスをする者には通じるものがあるはずです。自分が率先して楽しまなければ、観客は高揚しない。観客が楽しんでいるということは、須磨子さん自身が楽しんでいるということです」

「まあ、そういうことになるわね」

「そういう楽しみの場を与えてくれたという点では、抱月先生に感謝すべきではないですか」

 須磨子は吉岡の顔を見て少し考えたが、ぷっと噴き出した。

「感謝してるわ。してるにきまってるじゃないの。私には先生しかいないのよ」

「……そうでありましたか」

 吉岡は肩から力を抜く。

「あなたも、逍遥先生や東儀先生と一緒ね。小難しい理屈をこね回すくせに、『好き』とか『楽しい』とかいうことには子どもみたいにまっすぐなんだから。これだから早稲田の男は嫌いよ」

「抱月先生も早稲田の男であります」

「先生はもう早稲田を辞めました」

「いいえ先生は早稲田の男です」吉岡は譲らなかった。「『都の西北』に誘われて窓を開けるのは、早稲田の男に他なりません」

 須磨子は膝を叩き、いよいよ楽しそうに笑った。往来とは思えぬほどの大笑いであった。ひとしきり笑ったあとでまた、吉岡の顔を見上げる。

「もう一度言うわ。私は早稲田の男は嫌い。でも、あなたのことは好きになってもいいわ」

 けして美人ではない、勝ち気なその女優に吉岡は少しどきりとした。

「行きましょう」

 須磨子は、本町通りのアーチをくぐり抜けていった。

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大正謎百景 青柳碧人/小説 野性時代 @yasei-jidai

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