渋谷駅の共犯者 第3回


三、


 帰り支度を整え、研究室を出て施錠をする。技手たちの作業室に直結しており、農作物のサンプルの植わった鉢や、苗代、種などが書籍類と混在する中で、技手たちがそれぞれの作業に没頭している。

ふじさき君、頼んでおいたデータは?」

「はい。こちらに。原本ですのでお大事に」

 藤崎という四十代の技手が、英三郎に資料を渡す。先日の資料より分量が少なく、風呂敷ではなく茶封筒に入っている。

「おや上野先生、今日も資料をお持ち帰りですか」

 作業台で製図をしていた山口が、英三郎のほうを見て訊ねた。

「ああ、家でまとめようかと思ってね」

 英三郎は鞄に、封筒を入れた。

「盗まれないようにしてくださいよ」

 山口のそばにいたひようきんな技手が軽口を叩き、みながどっと笑う。

「今度は気を付けるよ。君たちもきりのいいところで帰りなさい。それじゃ」

「さようなら」

 技手たちの声を背に、廊下に出た。いつものくせで懐中時計を見る。午後五時きっかりだった。

 正門を出て、駒込駅へ向かって歩き出す。神社の前で遊ぶ子どもたちの脇を通り抜けると、角に役場がある。家路へつく役所の職員たちのあいだを通り、緩やかな下りに入ると、市電が音を立ててゆっくりと英三郎を追い抜いていった。

 駒込駅へは十五分もあれば着く。混み合うホームで五分と少し待つと、山手線が到着した。席は空いておらず、扉の近くの手すりを握る。西ヶ原へ出向いたときのいつもの帰り道だった。

 がたたん、がたたんと、線路を走る電車の音は小気味よい。しかし、いけぶくろを過ぎたあたりから英三郎の心中はざわついてきた。

 そういえば、昨日スリの銀次と面会した巣鴨刑務所はこの池袋のすぐ近くだと思った。──またスリに会えるかもしれやせん。銀次がそう言っていたから、また資料を持ってきたが……本当に、一度逃げたスリが同じ場所に現れるだろうか。

 そうこうしているうちに渋谷に着いた。乗り換え駅でもあるので、降りる客は多い。

 英三郎もまた、鞄を持って人波と共に動き出す。

 上着のポケットから切符を出し、改札係に渡して改札を通り抜ける。先日はこのあたりですられたのだと用心しながら歩く。駅舎の壁にもたれ、よく似た山高帽をかぶった背の高い男と低い男が並んで新聞を読んでいる。二人とも新聞に隠れて顔は見えないが、低い男のほうは両手で新聞をつかみ、その手首の部分になぜか手拭いをぐるぐる巻いている。滑稽な姿だ。

 駅前広場はいつもの雑踏だった。焼き鳥屋の立て看板が出ており、左を見れば饅頭屋の屋台がある。売っている青年がいつもと違う気がするが、従業員が替わったのか。

 ふと英三郎は足を止め、「おや」と思った。

 普段ならばここまでくれば、英三郎の姿を見つけたハチがいち早く飛びついてくるのだ。どこだどこだとあたりを見回すと、電柱のところに座り、地面に落ちた皿に顔を突っ込んで何かを食べている。

「ハチ、いったい何を……」

「やあ、上野先生」

 どきりとして声がしたほうを見ると、いつもの老駅員が近づいてくるところだった。

「先日は災難でしたな」

 彼は帽子を頭から取り、柔和に笑った。二人の傍を、他の客たちが足早に通り抜けていく。

「ええ」

「犯人、まだ見つかっていないんでしょう?」

「ええ。……すみません、急いでおりますので」

 と再びハチのほうを見る。やはり英三郎には目もくれず、一心不乱にがっついていた。いつもあそこで待っているハチのことを可愛く思った誰かにもらったのだろうか。飼い主を待ちわびるいじらしい犬かと思いきや、やはり食べ物には負けてしまうかと呆れつつ、英三郎はハチのほうへ一歩踏み出した。

 そのとき──、

「この野郎!」

 怒号が響き渡った。近くの飲食店の看板の陰から二人の男が、英三郎に向かってものすごい形相で駆け寄ってくる。思わず身を守ると、二人の男の足は右にそれ、英三郎のすぐわきにいた男へ飛びついた。

「わあっ!」「現行犯だ!」「おとなしくしろっ!」「放せ、放せっ!」

 そのうち、路上で饅頭を売っていた二人組もやってきて加わり、砂塵を上げての大乱闘となった。

 わん、わん!

 その騒動を察知してか、人ごみを抜けてハチが猛然と駆けてくる。その体が一人の男の上にのしかかったところで、男は取り押さえられた。

「素人が、慣れねえことをしちゃいけねえよ」

 聞き覚えのある声がした。駅舎にもたれていた山高帽の二人組のうち、背の低い黒羽織のほうが、新聞をたたみながらやってくるのだった。山高帽の下のその顔を見て、思わず英三郎はあっと声を上げた。

 昨日、巣鴨刑務所で会った、仕立屋銀次その人だったからである。

「銀次さん……」

「安心してくだせえ。両手はこんな状態です」

 先ほどまで手拭いで見えなかった両手首にはしっかり手錠がはまっている。その手錠には麻縄が括りつけられ、背後からやってくる長身の洋服の男の右手に握られているのだった。その男は、多田だった。

 と、そんな銀次の顔を見て慌てたようにその場を去ろうとした者があった。

「待ちな!」

 銀次の呼びかけに、その者はすくんだように足を止める。とっさに多田が、麻縄を握っていないほうの手でその右手をつかんだ。

「な、なんでしょう?」

 あの、老駅員であった。制帽がずれており、額に汗をびっしょりかいている。ぬーっと亀のように首を伸ばし、銀次がその顔を覗き込んだ。

「久しぶりだなぁ、山口の旦那。浅草駅から渋谷駅に変わったんだってな」

「な、なんのことだか……」

「とぼけるな、この銀次の顔を見てヤバいと思ったから逃げ出そうとしたんだろうがい」

 銀次のすごむ横で多田が言った。

「山口たけきち。貴様がかつて浅草駅に勤めていたことは、調べがついている。先ほど、そのハチという犬の前にエサの入った皿を置いたところも見ていた」

 年老いた駅員は、観念したようにうなだれた。

「いったい、これは……これは、どういうことなんですか」

 混乱する頭を押さえつつ、英三郎は銀次に訊ねた。

「まずは先生、そいつの顔に見覚えがあるでしょう」

 銀次は四人の男に組み伏せられている男のほうに顎をしゃくる。そこで英三郎は再び、あっと驚いた。

「山口くん……」

 にぎりめしを思わせる、ぼくとつな坊主頭の顔。いつも柔和な感じで話しかけてくるその技手が、今は泣き顔とも怒り顔ともつかないような表情の歪みを見せていた。

「出せっ」

 饅頭屋に扮していた刑事が彼の右手を袖の中から引っ張り出す。英三郎が持ち運んでいた資料の封筒が出てきた。慌てて自分の鞄の中を覗くと、何も入っていない。

「どうして? 私が試験場を出たとき、君はまだ作業をしていたじゃないか」

「市電を使ったんでしょうよ」

 答えたのは、銀次だった。

「五時すぎに試験場を出て、歩いて駒込駅まで行き、五時二十五分の山手線に乗る。先生がかならずそうすることを知っている試験場の人間なら、市電で先回りするのはわけねえや」

 つまり山口は、英三郎のすぐあとに試験場を出て、すぐ近くの停留所から市電に乗って駒込駅へ先回りし、混み合うホームに潜んでいたというのだ。そして英三郎と同じ電車に乗り、渋谷で降り、犯行に及んだ……。

「先週の犯人も、山口君だったのか?」

「当然。先週と同じやり口でやられたでしょう?」

 やはりこれにも銀次が答えた。

「同じやり口というと?」

「アオリがまっつけとってるあいだにするんですよ」

 その不思議な言葉を、そういえば銀次は面会室でも口にしていた。いったいどういう意味なのかと首をかしげると、銀次は笑いながら解説してくれた。

「すまねえ先生。スリの世界にゃ隠語が多くってね。アオリというのは共犯者のことですよ。まっつけとるってのはつまり、狙ったカモの気を引いて手荷物から注意をそらすことです。そのあいだに死角から近寄った仲間がブツを抜き取るって寸法で」

 今、多田に腕をつかまれてびくびくしている老駅員こそ、その「アオリ」だったというのだ。

「人差し指と中指がないスリが犯人だって聞いたときから、あっしはおかしいと思ってたんです。裏切者にそんな仕打ちをするのは、明治のスリ団だけだ。あっしの昔の手下か、さもなくばしん宿じゆく組かふかがわ組の生き残りが誰かから金で雇われて仕事をしたってのも考えられなくねえが、明治四十二年に組が解散させられて以来、うまい仕事ができてねえんじゃねえかなあと。先生の研究は立派だが恨みも買ってそうだと判明したし、こりゃ確認するべきだと思ったんです。案の定、先生は犯人は三十手前だろうと言う。仮に二十九歳だとしても、十六年前は十三歳ですぜ? いくらスリでも十三の子どもの指を落とすことなんかねえ」

 銀次はぺろりと唇を舐め、老駅員を見る。

「となりゃ可能性は一つ。目撃者が噓をついたってことだ。なぜそんな噓をつかなきゃいけねえか。犯人がスリの生き残りだってことにしてぇからだ。裏を返せば、犯人はくろうとじゃねえってことさ」

 いつしか周囲には、野次馬たちが輪を作っていた。彼らに聞かせるつもりか、銀次の言葉は余計に芝居がかってきた。

「その駅員についてさらに考えると面白ぇことが浮き上がってくる。駅員は、明治のスリが制裁として人差し指と中指を落とすことを知ってる。スリに相当詳しい駅員だ。当然、アオリがまっつけとるやり方も知ってる。──あっしはピンときました。かつては浅草の駅でも新橋の駅でも、袖の下と引き換えにあっしらの仕事を見逃す駅員がたくさんいたもんだ。警察だけじゃなくて駅員も味方だったんだから、本当にスリにとっちゃ天国みてえな時代だったよ。なあ、山口の旦那」

 びくりとする老駅員。

「さて、ここからは俺のあずかり知らねえことだが、そのスリの学生さんもどうやらアオリの旦那と同じ『山口』という名前らしい。これが何を意味するのかは、警察のみなさんに調べてもらいやしょう」

「その必要はねえ!」

 饅頭屋の姿の警官二人に脇を抱えられた山口が叫んだ。

「あれは俺がまだ十かそこらの頃だった。これから東京の偉い先生が来て、村の畑をさらに使いやすくするように変えてくれるぞって言いだした。わけがわからず不安になっていた俺たち家族の前に現れたのが、上野教授、あんただよ」

 正直なところ、英三郎は覚えていなかった。

「教授は……こいつはうちの先祖伝来の田んぼをみんな〓子定規にまっすぐにしちまった。たしかに効率はいいのかもしれないが、あの田んぼの形にはみんな、意味があったんだ。おかげで親父は、ご先祖に申し訳ねえって寝込んじまって……俺は仕返しをしてやろうと思って、近づくために岩にかじりつく思いで勉強して大学に入り、農事試験場に採用された。教授の一番大事なデータを盗んで困らせてやろうと……」

ただは悪くねえ! 悪いのはこの私です」

 駅員のほうの山口が口をはさむ。

「寝込んじまったこいつの親父は、私の兄でして。私もそれを気に病んで、つい言ってしまったんです。『俺はスリの手口を知っている。教授をこらしめてやれ』とね」

「忠雄さんとやらよ」銀次がつぶやいた。

「あんた、教授のご本は読んだんだろうな?」

「え……そりゃ、もちろん」

「それなのにこんなこと、したのかい? あの本には教授の熱意があっただろうがよ。日本の農村に新しい時代の風を吹き込ませ、農家を豊かにしてやろうっていう熱意が。あっしみてえな明治のスリにもわかったのに、おめえみたいな若者がご先祖だのなんだの古いこと言ってどうするんだい」

「もういい」

 多田が冷たく言った。

「あとは署で聞く。連れていけ」

 老駅員の腕を、屈強な警官に託した。そして多田は「おい、それはこっちによこせ」と、学生の山口の手から盗まれた資料を奪い取った。

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