渋谷駅の共犯者 第2回
二、
翌日、巣鴨刑務所。面会室は六畳ほどの広さで、粗末な木の机が一つと、椅子が三脚だけあった。壁は堅固なレンガ造りで、ところどころにシミやひびが認められ、窓には太い格子がはまっている。
英三郎は多田と並んで、机の長辺の片方についている。
やがて向かい側の鉄扉が開き、看守に連れられた一人の収監者が入ってきた。白髪交じりの丸刈りで、頰はこけ、まぶたは半分ほど閉じているようでいながら、英三郎をじっと捉えて離さない。歳は英三郎とそう変わらないはずだが、ずっと老けて見えた。
「初めまして、上野先生」
どことなく人を食った笑顔で彼は言った。
「
銀次というのが本名ではないことを、英三郎はそのとき初めて知った。
「どうしたんです、そんなにじっと見つめられたら、顔に穴があいちまいますぜ」
「あ、ああ、失礼」
「帝大の先生にゃ、スリなんて珍しいんでしょうね。びっくりしたでしょうなあ、大事なものを盗られて。犯人の野郎、右手の人差し指と中指が欠けていたんですってね。そりゃああっしらがよくやっていたケジメですね。スリっていうのは利き手の人差し指と中指で仕事をするもんです」
ひょいとポケットから財布でも抜き取るようなしぐさを見せる。どうもつかめない男だと英三郎は思った。
「早速なんですが先生、荷物を入れていた鞄を拝見してもいいですかい?」
「ええ。これです」
英三郎は膝の上に置いてあった鞄を机の上に出した。革製の手提げ鞄で、かぶせに金属製の留め金がついている。
「ほう。こりゃすごい。あっしが檻に入ってるあいだに、鞄の技術も進化したもんだ。留め金がついてるじゃありませんか。こんなのがついていたら、仕事がしにくくてしょうがねえや」
銀次は留め金のあたりを確認していたが、「おや」と瞬きをした。
「先生、この留め金、壊れちゃいませんか?」
「ええ。実は二年前の地震で……」
大正十二年九月一日。言わずと知れた関東大震災のことだった。その日、たまたま講義が休みだった英三郎は家にいた。幸い家は倒壊を免れ、家人も無事だったのだが、書斎では書棚が崩れて大惨事であった。鞄はその書棚の下敷きになり、留め金が壊れて鍵がかからなくなってしまったのだ。
「あの地震は大変でしたなあ。刑務所の壁でも崩れてくれりゃよかったんですがね」
「貴様!」
不謹慎な軽口に多田が怒鳴った。
「冗談ですよ旦那。しかし先生、新しい鞄に替えなかったのはどういうわけで?」
「ずいぶん前に卒業した教え子たちからの贈り物でして。捨てるに忍びなかったのです」
「泣ける話じゃねえですか。表から見たんじゃ、壊れてることもわかりませんしね。先生の身近な人たちも、壊れてることは知らねえんですか」
「知っているかと思います。毎日使っているところを見ていますから」
銀次はなぜかにこりと笑い、うんうんとうなずいた。
「あーそうそう、先生。先生のご本、読ませてもらいましたよ。『
「えっ?」
二十年前に英三郎が
「看守に言ったら、探して差し入れてくれたんですよ。あっしの活字好きはこの刑務所では有名でね。
英三郎はなんと答えていいかわからず、
「それはそれは」
とだけ返答した。
「先生、ところで用水路に流れる水量を浮きで量る方法についての質問なんですがね、先生の本によると……」
と、銀次が投げかける質問を聞き、英三郎は本当に驚いてしまった。『耕地整理講義』の前半は水路の設計について書かれているが、銀次はその内容を深く理解しているばかりではなく、さらに踏み込んだ内容に触れていたのである。著作を読んだのが噓でないばかりか、このスリの大親分がひどく明晰な頭脳を持っていることが、その質問だけで英三郎にはわかり、ある種の喜びすら浮かんできた。
英三郎も銀次の質問に真摯に答え、しばらく水路の話が続いたころ、
「ん、んん……」
横に座っている多田が咳払いをした。
「それはスリと関係あるのか」
「ああ、こりゃ失礼!」銀次は大げさに目を見開き、ぺちんと自分の額を叩いた。「つい先生の話が
と、銀次の話はまた『耕地整理講義』に戻っていく。
そもそも英三郎の研究の目的は、日本の田畑の生産性の向上である。江戸時代以来、日本の水田はぐにゃぐにゃと曲がった
銀次はこれまた内容を正確に理解しており、概要をすらすらと述べた。
「いい加減にしろっ! わけのわからん、関係のないことをぺらぺらと」
多田が怒鳴りだす。インテリは嫌いだと言っていた彼の表情が、英三郎の脳裏に浮かんだ。
「ところが旦那、こいつが関係あるんで」銀次はさらりと多田の怒りを受け流し、英三郎に視線を向ける。「先生、ご本に書いてあるような耕地整理を実際にやったら、あちこちから恨みを買うんじゃないですかい?」
「えっ?」
「だってそうでしょう。いくらぐねぐね曲がった小さい田んぼでも、農家にとっちゃ、ご先祖様から受け継いだ大事な土地だ。それを、効率を理由にごちゃごちゃ変えられちゃ、たまったもんじゃない。広さだって前の田んぼと同じになるかどうかわかんねえ」
まさにそれは英三郎の悩みの種であった。
この二十年、英三郎は自分の本に書いたような区画整理を実行すべく、全国各地に赴いてきた。もちろん田んぼの所有者には丁寧に整理の狙いを説明するが、「見ず知らずの学者なんかの勝手な言い分で定規で測ったように簡単に変えられるかい!」──そんな風に言われることが多い。土地の政治家や有力者の権威を借りて無理やり耕地整理をすることもあるが、工事をしているそばで男たちに罵倒され、女たちに泣かれるのは、気が滅入るものであった。
「どうです、そこんとこを踏まえて、先生を恨んでる身近なやつに心当たりなんて」
「私の身近な人が、スリをしたというのですか」
「あくまで可能性の話で」
「……さあ」
英三郎はそう答えるより仕方なかった。銀次の言う通り、各地の農村にならいるかもしれない。だが、身近な人間はむしろ英三郎の研究を推し進める立場だ。味方してくれこそすれ、恨みなど買うはずはない。
銀次はいささか落胆したような表情になったが、すぐに「質問を変えやしょう」と言葉を継いだ。
「先生は毎週、西ヶ原へどうやっておいでになるんで?」
「渋谷駅から
この頃の東京には、省線と呼ばれる国営鉄道のほか縦横無尽に市電が走っており、市民の足となっていた。
「帰りも同じですかい?」
「いや。駒込駅と試験場の間はわずか一キロメートルほどの距離でしてね。朝は時間がないので市電を使いますが、帰りは試験場から駒込駅まで歩きます。もともと歩くのが嫌いなほうじゃないので」
「ほう。……それにしてもさすが帝大の先生。『キロメートル』ときたもんだ。あっしら明治の人間にはその数え方がどうも肌に合わなくてね。十町よりちょいと
「そうですね。一町が約一〇九メートルですから、そう思ってください」
「帰る時刻はいつも同じで?」
「そうです。五時二十五分の山手線に乗れるように、余裕をもって五時すぎには試験場を出ます」
ふむと銀次は顎に手をやり、「次の質問です」と言った。
「先生はスリの野郎の顔は見たんですかい?」
「頰かむりをしていたので見えませんでした。すぐに人ごみに紛れてしまったし……、それに叩かれたハチが心配だったもので」
あのときのことを思い出すと、英三郎は胸の中をかき回されたような感情になる。子犬のころから成長を見守ってきたハチは、英三郎にとって子どものような存在である。そんなハチが、目の前で殴りつけられたのだ。逃げるスリなど、あのときはどうでもよかった。
「聞いてますよ。秋田犬ですってね」
「ええ。うちには子どもがいないので、可愛くてね」
「動物を可愛がるのはけっこうなことです。スリの話に戻りますが、顔を見なかったからといって、若かったかどうかくらいはわかるでしょう? 四十手前くらいですかね」
「……いや、動きがすばしっこかった気がします。三十にはなっていないでしょう」
人ごみの中を消えていくスリの背中を思い出し、英三郎は言った。すると銀次は「ほう」と感心したような顔になり、少し考えた。
「……するってぇと、アオリにまっつけとられたか……」
「なんだと?」
すかさず多田がつっかかるが、
「いや、こっちの話で」
と銀次は再び英三郎に向きなおる。
「先生は、スリの右手は見たんですかい?」
「私には見えませんでした」
でしょうなあ、と銀次は少年のように笑った。
「どういうことです?」
「いやぁこれもこっちの話で。ところで、次、西ヶ原の試験場へ行かれるのはいつです?」
「明日です」
「そうですか。じゃあ、どうか明日もお帰りの際は、先週と同じようにしてくだせえ。同じように大事な資料を、その留め金の壊れた鞄に入れ、駒込駅まで歩き、同じ時刻の山手線に乗って帰るんです。そうすればまたスリに会えるかもしれやせん。その折は警察諸君が取り押さえてくれるでしょうがね」
「何を!?」多田刑事がいきり立つが、銀次は逃げるようにさっと立ち上がり、背後に控えている看守に「おしめえだ」と言った。
英三郎があぜんと見送る中、銀次は看守が開いた扉から、舎房へ通じる薄暗い廊下へ出た。最後に面会室を振り返り、
「どうぞハチによろしくお伝えください」
にやりと笑ったのであった。
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