カリーの香る探偵譚 第4回


 三、


「……それで?」

 岩井三郎は、ハンカチで額を拭いている平井太郎に訊ねた。デスクの前のソファには、警視庁から来たくらはらという刑事が太い眉をひそめて、三郎と共に平井の報告を聞いている。

「愛蔵氏は、絵を描いていたのです」

 平井は声を詰まらせながら言った。

「絵だって?」

「はい。愛蔵氏は半年前に油絵を始めたのですが、市販の絵の具では向日葵ひまわりを描くのにどうも思い通りの黄色が出ず、年末からカレー粉を試しているとのことでした」

「カレーが絵具代わりになるものかね」

「つねさんによれば、西洋ではハチミツだの卵だのを画材に混ぜて使うことも珍しくないと。カレーというのはアジア的で面白いと思ったと、愛蔵氏は言いました」

 しばし、その場は沈黙に包まれた。はっ、と三郎はわざと大声で笑ってみせた。

「蔵原さん。まあ、こんなものです。素人の研修のようなものですから。笑ってやってください」

「笑えませんな」

 蔵原は鬼瓦のような表情を崩さずに言った。

「これで、おたくの報告は全部ですか」

「ええ。申し訳ないが、当事務所の所員はこの見習の平井君を含め、ラズ・ビハリ・ボース氏の行方を突き止めることはできませんでした」

 蔵原はため息をいた。

「シーメンス事件での活躍はまぐれだったのかもしれませんな。だいたいなんです、暴漢がパン屋に潜伏するなんて聞いたことがありますか。それも根拠がカレーの匂いだなんて、荒唐無稽も甚だしい。子どもの使いじゃないんですぞ」

「どうもすみません」

「ボースのやつめはきっと、すぎやましげまるおおかわしゆうめいか、そこらへんの息のかかった連中のところに潜んでいるに違いないんだ! もういい。探偵なんぞの知恵など借りず、警視庁でなんとかしてみせますからね」

 荒々しく立ち上がると、挨拶もせずに蔵原は出ていった。階段を下りる足音がすっかり消えたあとで、三郎は平井のほうを見た。

「どうだったね、潜入捜査は」

「はい。……つくづく自分は、探偵には向かないとわかりました」

 すっかり意気消沈していた。

「たとえば死体の殺害場所を誤認させんとする犯罪者は、死体の血を殺害場所に残さぬよう細心の注意を払うはずです」

 何を言い出すのか。

「身を隠すインド人にとってカレーの匂いなどというものは、この死体の血に等しいものでしょう。みすみす外界に漏らすなんてことがあるわけはないのに」

「え、えーとね、君……」

「私は短絡的過ぎました。まだまだ修業が足りません。もっと探偵小説や犯罪小説を読んで、犯罪者の気持ちを研究しないことには、推理力は低迷するばかりです」

 だからそうじゃないんだよ、という言葉をかけるのも面倒なくらいだった。

「犯罪も国際化の時代です。これからは海外の作品を重点的に読み、推理力を磨きたいと思います」

「ああ、そうしなさい」三郎はデスクの引き出しから封筒を出し、平井に差し出した。「今回の給料だ」

「滅相もない!」平井は手を振って拒否した。「私は、お給料をもらえるほどの働きはしておりません。むしろ岩井先生の顔に泥を塗ってしまい、恐縮しております。すみません、失礼します!」

 ぺこぺこと頭を下げ、平井は逃げるようにドアを開け、飛び出していった。

「君、待ちなさい」

 デスクから立ち上がって、開け放たれたままのドアに近づいたが、もう平井の姿は階段の下に消えていた。

「本当に、落ち着きがないな」

 ふうと一息つき、三郎は、応接室のドアへ近づき、ノックをした。

「もういいですよ」

 ドアが開き、一人の婦人が出てきた。小柄ながら、鋭い眉とれいな光をたたえたまなじり。新宿中村屋の女主人、相馬黒光であった。

「お聞きになっていたでしょう? これでもう中村屋に捜査の手が及ぶことはありませんよ」

「ええ、そのようですね」

「これで、わが社の失敗は水に流してくれるでしょうね」

「もちろんです」

 知性の溢れる落ち着いた声。しかしその内面に激しいきよう心があるのを、三郎は知っている。

 ──ボースさんを国外追放するなんて、人道的な国家のすることかしら。

 昨年十二月の半ば、この事務所に現れた彼女が激高したそのすがたを、三郎は忘れない。

 霊南坂の大物思想家の家からボース氏を逃がし、匿っているのは私たちだと、黒光は言ったのだ。

 ──だからね岩井さん、私からのお願いです。警察が中村屋を疑っていないか、目を光らせていてちょうだい。もし少しでも疑っている様子があれば、すぐにボースさんを別のところへ逃がしますから、連絡をください。

 三郎もまた、ボース氏に対する日本政府の対応に疑問を持っていたから、すぐにこれを承知した。警察からボース氏の行方を捜すよう依頼を受けたのはその数日後だった。相反する依頼者があった場合、先に受けた依頼を優先するのが事務所の信条である。警察には協力するふりをしつつ、中村屋に捜査の手が伸びていないことを確かめつつあった。

 三郎の誤算は、平井太郎だった。

 ボース氏がレストランにいるなどと素っ頓狂ながら遠くない推理を披露したときには驚いたが、まさか勝手に中村屋に潜入するなどとは思わなかった。

 さらに、その日の中村屋に中村彝というかつて居候をしていた画家がたまたま押しかけていたのが話をややこしくさせた。初対面の平井の様子を不審に思った愛蔵が、たまたま炭を届けに来た紀伊國屋の茂一少年にスパイをさせ、どうやらボース氏を匿っていることを見つけに来た捜査員らしいという報告を受けた。愛蔵はすぐさまアトリエに飛び込み、ボース氏を便所に隠したうえで、放置されていたキャンバスとイーゼルを台所へ持ち出し、絵筆をばらまき押し入ってきたつねと平井をだました。鍋にあったチキンカレーは、まごうかたなく、ボース氏が調理していたものだったのだ。

 岩井事務所から来た者だと白状した平井に、愛蔵は厳重に注意をし、追い払うように帰宅させた。黒光が知人のもとから店に帰り、一部始終を知ったのはそれから十五分もしないうちだったという。黒光はその日のうちに三郎の事務所に怒鳴り込み、わけをただしたのだ。

 まさか平井が真のボース氏の居場所である中村屋に行くなどと思っていなかった三郎は飛び上がったが、これを逆手に取る計画を瞬時に練り上げた。すなわち、平井に「中村屋にボース氏はいなかった」と、警視庁の刑事の前で報告させることである。そうすれば二度と、中村屋が疑われることはあるまい──自分も一部始終を奥で聞いていたいという黒光の希望を聞き入れ、今日という日を迎えたのだった。

「ボース氏の様子はどうです」

 計画が成功した安堵をおぼえつつ、三郎は黒光に訊ねた。

「異国で身を隠して暮らすのはつらいと思いますが」

「ええ。でも、最近は簡単な日本語も覚えてきましたし、着物も気に入っています。味噌汁も好きなようだわ」

「ほう、インド人が味噌汁を」

「ええ。でも相変わらず、日本のカリーだけはいって嘆いています」

「カリーですか、カレーではなく」

「正確な英語ではcurryって発音するのよ」

 女学校出身のインテリらしく、黒光は舌を巻いて発音した。

「岩井さん、ボースさんはいつまで今の生活を強いられるのかしら」

「わかりませんが、今しばらくの辛抱ではないですか」

「もし状況が好転して、ボースさんが表に出られるようになったら、正式なインドカリーをうちで出してもいいかと思っているのよね」

「パン屋が、カレー……ではなくカリーを?」

「主人に相談しなければわかりませんけど、いつか実現したら、食べに来てくださいね」

 そう言うと黒光は入り口のドアに目をやった。

「それにしてもあの早稲田の学生さん、すごいわね。警察も世間の人も誰もわからないボースさんの本当の居場所を、つきとめてしまうなんて──帰してしまってよかったの、岩井さん。ああいう人こそ、探偵に向くんじゃないかしら」

「いいや」三郎は笑って否定した。

「本物の探偵にしとくには、もったいない想像力ですよ、ありゃ」

 黒光はしばらく考えていたが、「そういうものかしらね」とほほ笑んだ。新宿一のサロンの女主人として様々な才能を目にしてきた彼女の笑顔を、三郎はなぜか頼もしく感じたのだった。



 探偵になれなかった平井太郎はこの七年後の大正十二年、探偵小説作家「がわらん」としてデビューすることとなる。

 さらに四年後の昭和二年、新宿中村屋は、ボースのレシピを基にした印度カリーを看板メニューとして喫茶部レストランを開業した。乱歩となった平井太郎が再び中村屋を訪れ、その味を堪能したかどうか、知る者はいない。

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