遠野はまだ朝もやの中 第3回

 ふんどし姿。徳利と白い箱を携えた、あの天狗だった。太い眉にごつごつした鼻。ぷーんと酒の匂いをさせ、目をぎょろつかせている。

「なんです?」

「くえすちょんだ。なぜ馬は死ななかったのか」

 ざんだ坊主の問いを飲み込むようながらがら声。くえすちょんという謎の言葉の意味を花子は知らなかった。

「馬もまた太助と同じく、ガスの回りが遅かったのでしょう。体の大きい馬のことです。人よりもずっと強くできているのでは」

「体が大きいからこそより多くのおきしじぇんを要するのではないか」

 また変な言葉を使う。ざんだ坊主は天狗の言ったことを解したようで、ふうむと腕を組んでしまった。

「くえすちょんのの二。遠野に温泉があるか」

「先ほども言った通り、花巻や盛岡には」

「私はしらはまの温泉をよく知っておる。ここ遠野にはしらはまのようないおうの香りがせん」

 しらはまというのは、天狗の住む里だろうか。どことなくこの世とあの世のあいだにありそうな響きだ。

「くえすちょんの其の三」

 ざんだ坊主の答えを待たず、天狗は次の問いに移る。

「なぜ兄弟は離れ離れで倒れていたか。有毒ガスによる死ならば、二人近くにいたまま倒れとったはずだ」

「……たしかに」

 天狗の畳みかけるような言い草に、ざんだ坊主は折れた。

「いやはや、あなたの話を聞けば聞くほど、火山ガスというのはありえない気になってまいりました。ところで、あなたはちゃんとした真相を見つけたとお見受けします。お話しいただけますか」

 天狗は徳利からぐぴりと酒を一口あおると、ふうと酒臭い息を吐いた。口元から垂れるのは白いしずく。遠野のどぶろくだ。大人たちはうまそうに飲むが、もちろん花子はその味を知らない。

「兄弟の死体は、黒目が満月のごとく見開いていたと言ったな?」

 ぎょろりとした目が花子をとらえていた。

「は、はい」

「これぞ大いなる指標。古来、欧州で胃けいれんぜんそく、神経痛を鎮めるために薬用とされてきた、あとろぱ・べらどんなという植物がある。通常はただ『べらどんな』と呼ばれておるこの植物は目の筋肉をかんせしめ、瞳孔を大きく見せる。目を美しく見せるため、羅馬ローマでは女どもがわざわざ少量服用したほどだ。だがもちろん、量を逸すればたちまち死に至る毒薬でもある」

「ええ、ええ」ざんだ坊主がうなずいた。「本で読んだことがあります。つまりあなたは、兄弟はべらどんなを飲んで死んだとおっしゃるのですね。しかし……べらどんなが日本にありますか。欧州から運ばれたものだとしても、遠野にあるかどうか」

「早合点するな。べらどんなに効果の似た植物が日本にあることは、しいぼるとが指摘し、鳴滝なるたき塾の門下生にこれをもって代用せよと指導しておる。すこぽりあ・じゃぽにか。『はしりどころ』と呼ばれてきた植物だ」

「はしりどころ……」

「べらどんなと同じく胃痙攣、喘息、神経痛に効ありといえども、逸すれば毒が全身に回り、そこらじゅうを走り回った挙句、もっとも悪い場合は死に至ってしまう。たしか、兄弟の足は泥まみれで擦り傷だらけだったな」

 花子には天狗の言っていることは半分もわからない。だが、妙な毒を飲んだ清三郎と庄五郎が藪の中を走り回っている図だけは頭に浮かんだ。

「しかし、兄弟はいつ、はしりどころを摂取したというのです?」

「んだ」

 ざんだ坊主の言葉に、思わず花子はうなずいた。

「山芋の漬物しか食べてねがった」

「それが極めつきの証左だ」天狗はぐっと徳利を握る手に力を籠め、花子とざんだ坊主をにらみつける。「はしりどころという名は〝ところ〟に根の形が似ていることに由来する。ところはヤマノイモ科。つまり、はしりどころの根など、刻んでしまえば、山芋と区別がつかんのだ」

 なんということだ。太助が兄弟にふるまった山芋の漬物。あれがその、はしりどころとかいう毒だというのだ。

「太助は自分の漬物が毒だと知っていたのでしょうか」

 ざんだ坊主が問うた。

「そんなことはわからん。だが、ひょっとしたら盗みの手伝いをさせたうえで兄弟を殺し、盗んだものを独り占めするつもりだったかもしらん。いずれにせよこれで、河童の名誉は守られたということだろう」

 ぐぴり。徳利の中のどぶろくはもう、残り少ないようだった。

 この化け物たちが一体なんなのかという疑問はまだ花子の中にある。言っていることは難しいことばかり。だが花子の中には、妙にすっきりした感情も生まれていた。隠し事が暴かれて一つの答えが出るのを見せられる快感というものも確かにある。

「おや、だいぶ明るくなってきましたね」

 ざんだ坊主はやけにのどかだった。天狗もあたりを見る。朝もやはまだ漂っているが、日が上ってきているのが明らかだった。

「ああ、これは失礼。すっかり引き留めてしまった」

 急に慌てた様子で、ざんだ坊主は花子に謝る。

「どこかへ行く予定があったのでは」

「ああ、ええです別に。急ぐ用事でもなし。ただ、今まで住んでた家がもう嫌になったもんで」

「はあ……何か事情があるようだが」

 ミチばあの話のざんだ坊主と違い、やはり優しい感じだった。天狗のほうも今やまったく怖くない。

「聞かせてくれるかね」

 彼らになら別に話してもいい、と花子は思った。今までどこに住んでいたのか。そして、どうしてあの家を出ていくのか。

「私は──」

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