遠野はまだ朝もやの中 第4回


 二、


 たいしよう十三年、七月二十三日、朝六時。

 岩手縣、遠野。

 朝もやの中を、やなぎくにはきょろきょろしながら歩いていた。

「せんせーい!」

 手をらつのような形にして口に添え、呼びかけるが、返事はない。無理もない。あの人は一度物事に集中すると、周りのことなど何も見えなくなるのだから。

 柳田は民俗学者である。名もなき普通の人々が、生活の中で育んできた風俗、慣習、そういうものを拾い集め、あるときは掘り下げ、あるときは比較し、風土と人の在り方について考察する。そういう学問をライフワークとしている。

 そんな柳田がもっとも興味をひかれたのが、ここ、遠野であった。

 花巻から東に十三里、なん家一万石の城下として山間に栄えたこの里には、家々に不思議な話が伝わっている。ひょんなことから知己となった遠野出身の青年、ぜんからそういった話を聞き集め、『遠野物語』と題して出版したのはめい四十三年、かれこれ十四年前になる。以来、柳田は何度もこの遠野へ足を運び、佐々木との旧交を温めつつ、魅力あるむかしばなしをさらに採集しているのである。

 今回の遠野への旅行は、一人ではなかった。変わった知り合いを連れてきたのである。

 南方熊楠みなかたくまぐすという一風変わった名前のその男は、やまの出身だ。幼少時より親戚の家にあった『かんさんさい』を記憶・書写するほど知識への好奇心が高く、東京帝国大学の前身たる大学予備門に合格。しかしすぐにこれを中退し、アメリカ、イギリスと十四年にわたって留学。学校などは堅苦しいと常にどこにも属さず自由にフィールドワークを繰り広げ、それでいながら世界一の知の宝庫といわれる大英博物館の図書館に出入りする許可を得て、ここでも蔵書を片っ端から暗記・書写したという。

 記憶力抜群、まさに歩く百科事典と言ってもいいほどの彼は帰国後、和歌山のにこもり、粘菌の研究に従事した。森の中の朽ちた木などにべったりと張り付いているこけのようなかびのような存在。とどまることなくゆっくりと動き、季節や周囲の状況によって時に色を変えたりする種もあるこの生物に、熊楠は異様な関心を示し、いくつか新種を発見するほどにのめり込んでいたのだった。

 そんな熊楠に大変なショックを与える出来事が起こったのは明治四十四年のことであった。神社ごう政策。一町村に神社は原則一つしか残さず、それ以外の神社はすべて取り壊すという政府の方策である。かつて粘菌の新種を発見した鎮守ちんじゆの森の伐採が決定されたことに怒り狂った熊楠は反対運動をおこし、投獄され、そこで前年に刊行されたばかりの『遠野物語』を読んだという。

 熊楠のことを知っていた柳田はこの話を聞いてすぐさま手紙を送り、交流が始まった。初めて柳田が熊楠に会ったのはそれから二年の後だった。この博覧強記の才人を驚かせようと事前に予告せずに和歌山へ行った。熊楠はたいそう驚き、とりあえず旅館で待っていてほしいと柳田に告げ、どこかへ消えた。三時間ばかりして現れた熊楠はべろんべろんに酔っていた。

 知の巨人として名高いこの男は極度の人見知りで、酒を飲まないことには初対面の相手とまともに口をきけないのだった。というわけで初対面ではまったく学問的な話をすることができなかった柳田だが、そののち、対面や書面で様々な論議をするようになり、激しく対立するときもあるものの、交流は長らく続いていた。

 ぜひ一度、熊楠を遠野に連れていきたい。その思いがこの度ついにかなったが……さっき目が覚めてみると、隣の布団に寝ていたはずの熊楠の姿が消えていたというわけだ。


「せーんせーい!」

 もう一度朝もやの中に向かって叫ぶが、ただ川のせせらぎと、どこかの家で飼っている犬の遠吠えが聞こえるばかりである。

 丸木橋が見えてきた。その橋の中央で立ち止まり、柳田は大きくため息をつく。

 気が向いたらふらりと家を出て三、四日戻らんこともあります──熊楠の家族がそう言っていたのを思い出す。遠野の自然が熊楠を誘ったと言えば詩的ではあるが、もしものことがあったらと焦ってしまう。昨晩も、今日の佐々木との会食に緊張すると言ってかなりどぶろくを飲んでいたし、さっき宿を出るときに女中に訊けば、台所からどぶろくの徳利が一本消えていたという。

 柳田は丸木橋の下の川を眺め下ろす。岩にあたった水が白い玉のようにはじけている。

「よもやここから足を滑らせたのではあるまいな」

 つぶやいた、そのときだった。

 どこからか、笑い声が聞こえた気がした。

「……ふふ、ふふふ」

「……はあ、ははは」

 一つは明らかに熊楠の声だ。あんを覚えるとともに、もう一つの若い声の主が気になった。

 遠野に熊楠の知り合いなどいるわけがない。妙なことがあるものだ。ひどい人見知りの熊楠が、誰かと談笑など。

 声のほうへ、速足で近づいていく。朝もやの中に、二人の男の影がぼんやりと浮かび上がってくる。道沿いの岩に並んで腰かけているようだった。

「南方先生」

 声をかけると、手前のほうの男が振り向いた。真っ赤な顔、ぎょろりとした目。そして、ふんどし一丁の裸姿。

 熊楠は子どものころから、裸で野山に入って植物の採集をするくせがあったという。山林から突然登場するこの彫りの深い顔を見て、天狗と勘違いする村人が後を絶たず、「てんぎゃん」とあだ名されたとも聞く。初めて聞いたときにはそんな大げさなと柳田も笑ったものだが、朝もやの中に浮かぶこの姿は天狗ならずとも妖怪そのものだ。朝から酒を飲んで真っ赤ならば、その怪異さもひとしおというものだ。

「おお、柳田さん、おはよう」

「勝手に宿を出て行かれては困ります。川にはまったらどうするおつもりですか」

「川の植物を採取するまでだ。朝だからこそ雑念なく自然と向き合えるということもあるのだよ。ほら見たまえ、こんなに立派なCribraria cancellataクリブラリア・キヤンセラータだ」

 差し出してきた標本箱の中には、木の皮ごと採集された粘菌があった。柳田のような門外漢には、ラテン語の学名など何かの呪文のように聞こえて仕方がない。

「とにかく見つかってよかった。ところでどなたです、そちらの方は」

 熊楠の隣に腰かけている男性に柳田は目をやる。フロックコートにつば広帽。熊楠よりいくぶん常識的な身なりではあるが、朝もやの中、熊楠と談笑していたのだから変わった男に違いなかった。

「これは申し遅れました」男は立ち上がった。「私は花巻で中学校の教員をしております、みやざわけんというものです」

「はて、どこかで聞いたような……あっ。ひょっとして佐々木喜善くんの知り合いかね」

「佐々木くんをご存じですか。このたび、あらたな童話の案を練ろうと思い、佐々木くんを頼って来たんですよ」

 前に佐々木に会ったときに、花巻で面白い男に出会ったと柳田は聞いていた。中学校で教師をしているが、鉱物や植物、天体や気象などにやたら詳しく、そうかと思うと突然、にちれんの教えを説きだし、とにかく知性が豊かだがユーモアにあふれているのだという。いつか出版したいのだと書きめた童話を見せてくれたが、とにかく他では読んだことがないくらいに珍妙で知的で、優しくもあり警句的でもあり、大人が読んでも十分不思議な気持ちを味わえる作品群だったと絶賛していた。

「私は柳田国男と言います。宮沢さん、いつか機会があったら会ってみたいと思っていたんですよ。私たちの宿へおいでなさい。あとで佐々木くんも来る予定だから」

「そうですか。ではお言葉に甘えましょう」

「ところで……、二人は知り合いではないでしょう。ここで何を話していたんです?」

 柳田の問いに答えたのは宮沢青年だった。

「ここで出会った女の子に、河童の話を聞いていたんですよ」

「河童?」柳田は思わず身を乗り出した。そういう話なら自分の得意とする分野である。むしろまだ聞いていない遠野の話なら、聞いておかなければならない。

「いったいどんな話なんですか」

 宮沢の話は初め興味深かったが──後半、柳田はあきれてしまった。

「なんですかあなたがたは。そうやって、不思議な話を無理に分析して」

 怪異や不思議の話を理詰めで押さえ込もうという態度を、柳田は好かない。

「何も遠野の不思議な話を台無しにしようとしたわけではないのだ、柳田さん」

 徳利に残った最後のしずくをぺろりとなめ、熊楠が言った。

「科学の目を持つことは必要だ」

「私もそう思います」

 宮沢がすぐに同意した。

「私も不思議な童話が好きですが、そういう話を書くときでも、科学の目をふんだんに取り入れることにしているんです。特に、農業に必要な目、農民に必要な科学の目を。科学は不作から人を守ってくれます。町で売れる作物の作り方を教えてくれます。科学は、まじめに働く人を等しく幸せにしてくれます」

 柳田は二人の顔を交互に見た。

 民俗学は科学ではない。だがこの二人を見ていると、科学は今の世に大事なのだと確実に思えてくる。

 鉄道も自動車も今や当たり前のものとなり、科学において世界で活躍している日本人も多い。かつては死を待つしかなかった病気も、薬で治せるようになっているという。宮沢の言うとおり、農業の面でも科学は大いに人の幸せのためになっているのだろう。この大正という時代はたしかに、科学の目をもって社会を見つめ、発展していく時代なのかもしれない。

「ときに……」

 柳田は周囲を見回す。

「その女の子というのはどこにいるんです?」

「ん?」「おや?」

 二人は思い出したかのように、柳田と同じくきょろきょろとあたりを見回している。いつしか朝もやは薄くなり、川の向こうまで見えるようになっていた。

「いつの間にか、いなくなってしまった」

「どういう子だったのです?」

「年は七歳か八歳。髪の毛はくびのあたりまでの長さだったでしょうか」

 宮沢の答えに、柳田はよもや──と思った。

「どこから来たと言っていましたか?」

「土淵村のやまはつもんの家と言っていました。大好きなミチばあが死んで、欲張りなとと様かか様しか残らねかったから、別の村に行って新しい家を探すんだとかなんとか……」

 山田初左衛門。柳田はその名を、佐々木から聞き知っていた。

 五年ほど前から材木業で一気に財を成した男だが金を持ったとたんに態度が傲慢になり、村人からも嫌われている。年老いたミチというばばだけがなんとか周りの者との関係を取り持ってきたが、そのミチも数日前に亡くなってしまったのだという。

「そうでしたか」

 柳田はどちらにともなく、ぽつりと言った。

「山田初左衛門の家も、もう長くないかもしれませんね」

 自動車が走り、ガス灯も電気にとって代わられ、コンクリート造りのホテルやデパートも建てられている。しかしやはり……それは都会の話。

 花巻から東へ十三里、山奥には珍しき繁華の地、遠野。

 大正の時代がいくら科学に裏付けられた華やかな文化の絵を描いても、ここにはまだやはりがあるのだ。

「行きましょう」

 不思議そうな顔をしている二人を促し、柳田は旅館への道を歩きはじめる。朝の光に消えゆく朝もやが、なんともいとおしかった。


(了)

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