大正謎百景

青柳碧人/小説 野性時代

遠野はまだ朝もやの中 第1回

 むかしあったずもな。

 松崎村まつさきむらまつもんが、牛が逃げたで捜しに行ったと。まだ朝早くてよ、そこらじゅうまーっしろなもやが出てて、足元も見えねえくれえだったと。

 さるいしがわの丸木橋の近くで、黒い人、立ってだと。

 近所の誰かだっぺ、牛見ねかったか聞いてみるべとおもで近づいてっと、真っ黒いみのさ着て、おかしな黒いずきんを被った、知らねえ男だったと。

「おめ、おもしれえ話、聞かせろー」

 男、聞いたこどもねえ、おっそろしい声で言ったで、松左衛門、耳ん奥さ、ぐわらぐわらって震えてよ。腰抜かしたと。

「おもしれえ話、聞かせろー。でねば、どって食うぞー」

 男はそう言って近づいて来たと。

「ま、ま、待ってけろ。お、お、おもしれえ話……」

 松左衛門、わらすのころにバッチャに聞いた、きつねが鶏にだまくらかされた話があっだべな。それ聞がせたら、男、「ぐわははあーっ」て、おどげったみてに笑ってよ、いなぐなったと。

 松左衛門、うちさ帰ってジッチャに話したら、

「そらおめ、ざんだ坊主だべ」

 って言ったど。濃い朝もやが出る日に現れる化けもんだっでな。

「もし何も話さねば、おめ、頭から食われて死んでだべ」

 松左衛門、おっがなくて、それから朝は外さ、歩かねようになったんだって。

 どんどはれ。


 一、


 あたり一面、米のとぎ汁を流したような白い朝もやだった。

 普段なら見慣れている道も、先が見えないと不安である。先が見えない──今のはなの心境をまるまる表しているようであった。

 別に、今朝でなければならないことはない。しかし、思い立ったら行かねばならぬ。花子はそう思い、不安を抱えながらも早朝の道を歩いていくのだった。

 どこかで犬の鳴く声がする。きちどんのところで飼っているシンだろうか。あの犬は花子を見るとえてしょうがないので、八十吉どんの家は避けて通ることにしている。今朝もそうするつもりだ。

 猿ケ石川に架かる丸木橋が見えてきた。この川を下っていったところに支流があって、くぼの中にはふちがある。その淵にはかつが住んでいると、ミチばあが話していたっけ。

 それを端緒として、いろいろな話を思い出す。とおの年寄りはたくさんむかしばなしを知っている。それも、家によって伝わる話が違うので、無限にむかしばなしがあるのだった。笑い話もあるようだけれど、たいていは怖かったり不思議な話だったりが多い。河童に山男に亡霊……この遠野には不思議なものがたくさん潜んでいるという。

 こんな朝もやの中なら、そういう怪異が潜んでいてもおかしくない。花子はぞっとしたが足は止めなかった。立ち止まったらさらに怖くなる。丸木橋を一気に、それでも落ちないように渡り切った。

 渡った先は松崎村だ。

 心配が膨らんでいく。

 自分の足音さえも、何かがついてくる足音に聞こえて……。

 おや?

 花子は立ち止まった。耳を澄ます。

 ……何かが聞こえる。

「くらすとでるま、でばーやなむ」

 低い、男の声。

 きょろきょろとあたりを見回す。どこを見ても真っ白で、人の姿など見えない。姿がないのに、声だけ聞こえる……。

 かさり、とすぐそばで音がしたので振り向いた。

 あっ、と思った。道端に生えている大きな松の木。その根元に、何かがうごめいている。目を凝らすと、その者の周りだけもやがはれるようだった。

 老人だった。ふんどし一丁の裸だ。花子のほうは見向きもせず、木の根元で手を動かし、ぶつぶつとしゃべっている。すぐわきの切り株に置かれているのは酒の入った徳利のようだった。

「くりぶらりあ、きゃんせらあた」

 聞いたことのない言葉だ。その顔を見て花子はわかった。真っ赤な顔に、太い眉、ぎょろりとした目、ごつごつした大きな鼻。

 てんには、里の言葉とはかけはなれた言葉があっだな──前にミチばあが、そんなことを話していた。

 そういえばここ、松崎村には天狗森と呼ばれる森があった。天狗に見つかるとひどい目に遭わされるという話も聞いたことがある。

「これも、くりぶらりあ、きゃんせらあた」

 花子はとっさに耳をふさいだ。この老人がぶつぶつと口にしているのは、聞いてはいけない呪いの言葉だ。気づかれないうちにこの場を立ち去ろうと走りだしたとき、どん、と何者かにぶつかった。

「ひゃっ」

「おはようございます」

 相手は挨拶をしてきた。花子は恐る恐る相手を見上げる。大人にしては背は高くない。しかし、妙なかつこうだ。見たこともない黒いずきんに、見たこともない黒い蓑をまとっている。

 黒ずきんに、黒い蓑……。

「あっ」

 飛び上がらんばかりの気持ちになった。生前、ミチばあが話していたいくつものむかしばなし。その中の一つ、ざんだ坊主のことを思い出したからだ。

 こういう濃いもやが出ている朝に外を歩いていると現れる化け物だ。黒いずきんに黒い蓑を着ていて、「面白い話を聞かせろ」と言うのではなかったか。

「お嬢さんは、遠野の子かね」

 男は言った。遠野の話し言葉とは少し違った。

「そ、そうだども……」

「お急ぎかね」

「急ぎ……でも……ねえですけど」

 逃げたかった。だが、足がすくんで動けなかった。

「だったらぶしつけだが、お願いを聞いてもらえないかね」

「お……お願い?」

「お嬢さんの知ってる、面白い話を聞かせてもらえないかね」

 やっぱり! 花子の背筋がぴんとする。黒いずきんに黒い蓑。面白い話を聞かせろと迫る。ざんだ坊主だ。花子が思い描いていたのよりだいぶ若い男の姿だったが、間違いないだろう。たしかこの化け物に出会ったら、面白い話を聞かせなければ頭から食われてしまうはずだ。

 花子は必死で思い出す。ミチばあの話の主人公は、ざんだ坊主に何かを聞かせて助かったのではなかったか。なんの話だったか。たしか……狐が……そうだ、鶏が狐をだまくらかした話だ。

 だが、その内容を花子は知らない。鶏が狐をだまくらかした話……それをでっちあげるだけの技量もない。そもそもざんだ坊主はその話は前に聞いたはずだ。同じ話を聞かせたら怒るのでは……困った。

「遠野には面白い話がたくさんあって、どんな子どもでも二つ、三つ話せると聞いたのだけどね」

「ん、んだ、ちょっと待っでくだせえ」

「いくらでも待たせてもらうよ。立っていても疲れるし、ここに座らんかね」

 ざんだ坊主はそばの杉の根元にあった岩に腰かけると、風変わりな蓑のたもとから白い布を出し、隣に広げた。花子のためらしい。

「ありがとうごじぇます」

 花子はその布の上に腰を下ろしたが、気が気ではない。これでもう逃げられない。面白い話……必死で、ミチばあの話を思い出す。

「いやあ、歩いているときはなんでもないが、こうして座ると足の疲れを感じるものだね。昨晩、宮守みやもりとう宿しゆくしたのだが、夜、あまりにも夜空がきれいだったので出歩いてしまってね。綾織あやおりをすぎたのは午前二時ぐらいだったかなあ」

 ざんだ坊主は話し続けているが、花子の耳には届いていない。何か面白い話、何か……

「だめだ、思いつかねえ」

 花子はつぶやいた。絶望で目の前が真っ暗になりそうだった。ざんだ坊主はじっと花子を見つめている。

「助けてくだせえ。話はいくつか知ってるだども、おめえさまを笑わせられるような話など」

 するとざんだ坊主は目を細め、くすくす笑った。

「いやこれはすまないことをした。妹にもよく、兄さは言葉足らずでいけねえと注意されたもんだ。何もゲラゲラおなかを抱えて笑えるような話でなくてもいいのだよ。山や川や空や星がそっとささやいたような、少し不思議な話。私にとって面白い話というのはそういうもののことでね」

 その口調があまりに優しいので、花子は意外に思った。

 不思議な話……それならいくつも思い出せる。ここ遠野は、不思議であふれている。ミチばあの口から語られた、どの話をしようか。

 川のせせらぎが聞こえる。そうだ。さっき思い出していた話をしよう。

「ちっとこえぇ話でもえがっただか。河童の話だども」

「河童!」

 ざんだ坊主の顔がみるみる嬉しそうになったのが、朝もやの中でもはっきりわかった。花子は話をはじめる。遠野の語り手がむかしばなしをするときの決まり文句から。

「むかしあったずもな──」

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