第8話
陸曄は、縁談を断り続けていた。
それはひとえに桂英への思いからだけだったが、周りはそれを大層心配した。
いくら待っても、桂英は帰ってはこない。
後宮に上がった女官は、皇帝のものだからだ。
周りの人々は口々に桂英を忘れなさいと言ったが、陸曄にはそんな事は考えられなかった。
もし今、桂英が皇帝に召されているかもと考えただけで頭が沸騰しそうになる。
陸曄は三度の食事も取らなくなり、日に日に痩せていった。
外にも出なくなり、仕事も休みがちにっていく。
人々は、陸曄が
「もしかしたら、剃髪をしてしまうのではないかーー更には命をたってしまうのではないか…」
そんな事を噂し始めていた。
しかし、その噂とは裏腹に、陸曄の目は炯々と光り、何か執念のようなものすら感じるようになっていったのである。
家族や友人はそんな彼の姿を見て薄ら寒さを感じ、次第に彼に縁談を勧めなくなった。
そして、徐々にそんな彼を遠巻きにするようになっていく。
それからしばらくして、桂英が後宮へ上がって一年がすぎた頃。
陸曄は、皇帝が離宮で大々的な宴を開くという事を聞いた。
この宴には多くの貴賓が参加する事となっているらしい。
陸曄は、己の思考が冴え冴えとしてくるのを感じた。
この機を逃す手はない。
陸曄は、そう心を決める。
ーー桂英を、攫いに行くーー。
それから陸曄は、ほとんど取らなかった食事を取り始めた。
休みがちだった仕事も真面目に取り組むようになり、それを見た家族や友人たちは安堵の吐息を吐いた。
徐々に陸曄の顔にも笑顔が戻り、絶っていた周りとの連絡も取り始めている。
桂英が去り、一年がたった今やっと失恋の傷が癒えたのだろうと、周りの誰もがそう思っていた。
周りは陸曄を気遣い、仕事を斡旋したり、宴があればそれに誘ったりする。
陸曄は笑顔でそれに応じ、与えられた仕事をこなし、宴にも顔を出すようになった。
そんなある日。
仕事の上司である男が、陸曄へある宴の話を持ってきた。
離宮で行われる皇帝の宴だ。
上司の男は陸曄の為、あらゆるツテを使い、豪華絢爛と名高い皇帝の宴へ参加できるよう取り計らっていたのだ。
「若い者は、一度は豪華な宴を体験しなさい。皇帝の宴は、我々の宴とは規模が違う。全く違う世界が体感できるであろう」
そう言って微笑む上司に、陸曄は深々と頭を下げた。
「お心遣い、ありがとうございます」
「よいよい。楽しんでおいで」
上司が去った後、陸曄の瞳には再び炯々とした光が灯っていた。
ーー計画通りだ。
陸曄は、その生来柔和な顔に、今まで見たこの事のないほど壮絶な笑みを浮かべていた。
まだ少し暑さの残る季節に、皇帝の宴は絢爛に飾り付けられた離宮で行われていた。
離宮は飾られた宝石や金できらきらと輝き、目も眩みそうであった。
あちこちで楽団が楽を奏で、美しい女官が舞を踊る。
卓には肉や野菜など、次々と美しく飾られた料理が運ばれて、まるで湯水のように多くの酒が振る舞われた。
「ほうれ、芽が出るぞ!芽が出たぞ!」
広場では、方士が植瓜の術を披露している。
「次は花が咲く!花が咲いた!」
あれよあれよといううちに、土から瓜の芽から蔓が伸び、花が咲く。
「瓜がなる、瓜がなる…瓜がなった!」
気がつけば、方士の手には大振りの立派な瓜が握られていた。
「おおお」
人々はどよめき、驚嘆して、方士の周りへ押し寄せる。
中には受け取った瓜を叩いたりして、確かめる者もあった。
しかし、瓜は「本物」で消えない。
再び人々からどよめきが起こる。
桂英も、その人の輪の中に居た。
暑さからか驚きからか、額に浮いた玉の汗を布で拭う。
「とっても不思議だわ…」
久しぶりに心が躍るものを見て、少しだけ心が軽くなったように感じると、桂英はその人の輪を離れようとした。
「そんなに、植瓜の術が珍しかったかい?」
不意に、桂英の耳に懐かしい声が響く。
その、聞き覚えのある声に膝から崩れ落ちそうなほど驚いて、桂英は恐る恐る振り返った。
「……あ…阿曄…?」
そんな、まさか。
「あんな物はまやかしだよ」
その顔に柔和な笑顔を貼り付けて、陸曄はそう続ける。
「で…でも、瓜は消えなかったわ…」
違う、言いたいのはそんな事じゃない…。
桂英は、唇がわななくのを感じながら、そう呟く。
「あれは、最後の瓜だけは本物だからさ」
笑顔を貼り付けたまま、陸曄は言う。
「あ…阿曄…」
「桂英、元気そうで良かった」
陸曄は穏やかにそう言うと、そっと桂英の手を握る。
桂英は驚いたように目を見開くと、手の中に握らされた物に視線を落とした。
小さな紙切れに、何かが書かれている。
桂英は、眩暈がするほど心臓がドクドクと跳ねるのを感じた。
「……二刻後、書いてある場所に」
陸曄は低くそう言うと、桂英の手を離し再び微笑んだ。
「ーーそれでは、宴を楽しんで」
陸曄は、そう言うと、ゆっくりと桂英の横を歩き去る。
桂英は、渡されたそれをしっかり握りしめると、震える肩をその手で抱き締めた。
久しぶり見た桂英の姿は、くらくらと目眩を起こしそうなほど美しかった。
薄衣をつけ、顔には薄く白粉を施している。
その唇には赤い紅が引かれ、肌の白さを強調していた。
この一年見ない間に更に美しくなったようだと、陸曄は悔しさとも興奮ともつかない複雑な気持ちを胸に抱く。
ーーあと少し。
あと少しで、桂英を攫う事ができる。
陸曄はその顔ににんまりと笑顔を貼り付け、宴にざわめく人々の波に飲まれていった。
「ーー阿曄!!」
夜通し行われている宴がひと段落し、ちらほらと酔い潰れる者も出だした頃。
件の場所に、桂英はいた。
「ーー阿曄!!」
桂英はわずかに声を上げると、腕を掻き抱く。
言われた時刻、指定された場所。
間違いないはずなのに、陸曄は居なかった。
「……阿曄……」
桂英は、震える自らの身体を抱くと、ジワリと目頭が熱くなる感覚に襲われる。
まさか、陸曄に揶揄われたのだろうか。
陸曄を置いて後宮に行った仕返しをしにきたのかもしれない…。
今、陸曄を探している自分を、どこかで見て笑っている?
いや、そんなはずはない。
陸曄はそんな人間ではないーー。
ではなぜ。
会いたい気持ちが強すぎて、自分は幻を見たのだろうか。
そうかもしれない……。
桂英は流れ落ちる涙を拭いもせずに、月夜を見上げた。
月の明かりがあるとはいえ、離宮に飾られた宝石とと同じくらい、輝く星空が見える。
ーー瞬間。
何者かが、後ろから桂英を抱きしめた。
「ーー桂英ーー」
驚きと衝撃で、桂英の華奢な身体が震える。
「あ…阿曄…!!」
「ーー会いたかった……!!」
「わたしも…わたしも会いたかった……!!」
陸曄は、ゆっくりと桂英を自分の方へ向き直させると、しっかりと抱き寄せた。
しばらくそうした後、桂英はポツリと陸曄へ問う。
「なぜ、会いにきたの」
こんな所を誰かに見られでもしたら、陸曄は捕まってしまう。下手をすれば打首だ。
「あなたは、他の誰かと結婚して、幸せになっていると思った……」
言葉とは裏腹に、陸曄の胸に顔を埋めながら桂英はそう言葉をこぼす。
「君以外の人と幸せになんてなれないーー」
「阿曄……」
陸曄は、抱き寄せていた桂英を離すと、その顔をしっかりと見つめる。
「ーー桂英。僕とここから逃げよう」
「えっ?!」
「ぼくは、君を攫いにきたーー」
「あ、阿曄……」
「君のいない人生なんて考えられない。もし、そんな人生なら捨ててやる」
陸曄の見たことも無いほど強い視線に、桂英は狼狽えた。
陸曄の気持ちは嬉しい。
桂英とて、このまま逃げてしまいたい。
しかしーーそれをしてしまえば、家族や親族にも罪が及ぶのだ。
そうであるから、泣く泣く後宮に上がったのだから。
それに。
なによりも……もし、逃げきれなかった時、間違いなく陸曄は処刑される。
それだけは、どうしても避けたかった。
どんなに離れていても、幸せに生きていていてくれる方が良い、そう思うのだ。
「……あのね、阿曄…わたしは…」
そう言いかけた時、桂英はなぜか自分の思いとは別のことを口走っていることに気がつく。
「わたしは、あなたと行くわ」
桂英は、自分でもなぜそんな風に答えてるのかがわからなかった。
「桂英…!!」
しかし、この上なく喜んだ顔をした陸曄に掻き抱かれた時、桂英はその瞳を閉じて覚悟を決めた。
ーー全てを捨ててでも、陸曄と共にあることを。
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