第4話

その日の夜、永泰の屋敷に戻ったユースィフは、件の絵を自室の壁にかけ優雅に眺めていた。

物悲しい、しかし美しい絵だ。

さて、今夜はどのような怪異が起こるのだろう。

ユースィフは踊る心を止めもせず、薄く淹れられた茶を飲んだ。

李喬に倣って酒でも飲んで待てば良いのかもしれないが、生憎戒律で禁止されている。

それに、そもそも一度も酔ったことがなければ、酒にさほど魅力も感じない物なのである。

ユースィフは椅子に腰を沈めると、窓の外を眺める。

良い月夜だ。

茶の杯を卓に置くと、ユースィフは笑みを隠さずに絵に視線を戻す。


不意に、生暖かい風が、ユースィフの頬を撫でた。

ーー来たか。

ユースィフは早る心を抑えようともせず、凝っと絵を見つめる。

突如一度強い風が巻き起こり、部屋の蝋燭が消えた。

月夜とは言え、あたりは薄暗闇に囲まれる。

相変わらず、生暖かい空気が部屋の中をゆるゆると動いていた。


ぽたり


ユースィフの背に、生暖かいような、それでいて冷たいような何かが伝い落ちる。


ふふん。


ユースィフが臆せずに振り返ると、更にその美しい顔にもぽたり何かがと伝った。

李喬の邸で嗅いだのと同じ、生臭い血の匂いだ。

ユースィフは頬をぬぐいもせずに、暗闇に目を凝らす。

視線の先には、ぼんやりと件の男女の姿が浮き上がっていた。

暗闇の中、輪郭はぼやけていながらも、なぜかその表情だけが鮮明に見える。

その目からは涙。

その口からは血が、滴り落ちている。

なるほど、とユースィフはひとりごち、じっくりと二人を眺めた。

何も言わず、なにも語らず、二人はそこでただ静かに涙を流している。

しばらくそれを眺めた後、ユースィフは静かに立てた二本の指を唇に当て、低く呪を唱えた。

その視線は男女を捉えて離さない。


ゆらり。


ユースィフが低く呪を唱えるたびに、男女の姿は陽炎のように揺れる。


ゆらり、ゆらり。


相変わらず、涙と血を流したまま、そこに立って揺れている。

やがて、ユースィフの呪と共にその揺れが最高潮に達した時、男女の姿は「パチン」という破裂音と共に消えた。

男女の姿が消えると、ユースィフの頬に伝っていたはずの血も、全てさっぱり消えている。

先ほどまで部屋の中を漂っていた生温い空気も、あっという間に霧散した。

ふむ、とユースィフは一つ呟き、絵に近づきかけたその時。


ガシャン!!


激しく窓が破壊される音がし、何者かの殺気を伴う気配がピリリと肌をつく。

「……おっと!」

ユースィフは瞬間的に身構えると、闇の中にわだかまった殺気に意識を向けた。

瞬間、ヒュッと鋭い風切り音がすると、反射的に身を捩ったユースィフの背後の壁に、ドンと何かが突き刺さる音がする。

逃げ遅れた髪が数本、闇夜に舞った。

殺気を発する侵入者の人影が更に一歩ユースィフに近づこうとした時、その人物の足は何者かによって強く薙ぎ払われる。

「……っ?!」

「ご無事ですか、ユースィフ様!」

言いながら、アスアドは素早くユースィフと侵入者の間に身体を割り込ませ、バランスを立て直して躙り寄る相手を威嚇した。

侵入者は切りつけられた足を庇う素振りもなく、アスアドに向かって短い剣を閃かせる。

アスアドはそれを自らの剣で弾くと、一部の隙もない構えを見せた。

一般家屋よりはずっと広いユースィフの屋敷ではあるが、大剣を無闇に振り回す事ができるほどの広さはない。

侵入者の男は自分の有利を確信したのか、ゆっくりとアスアドに対峙する。

アスアドは最小限の動きで相手を牽制すると、隙を窺う。

先に仕掛けたのは、再び侵入者のほうだった。

短剣を持つ手首を返して、素早くアスアドの脇を切りつける。

それを弾き返して、アスアドも反撃に出た。

二合三合と剣同士のぶつかる音が響き渡る。

侵入者の男はそれなりの腕の持ち主だった。

素早く短剣を突き出す。

音もないその動きに、アスアドは容赦なく相手の手首をはたき落とそうと大剣を軽々と片手で振り下ろした。

ごつん、と肉が切れ骨に達する音を聞き、アスアドは更に腕に力を込める。

「ぐっ……」

手首を切り落とされる衝撃に、思わず男がうめいた。

鮮血が壁に散る。

男は反対の手で腕を押さえ唇を噛み締めると、素早く後ろへ後ずさった。

反対に、アスアドは一歩前へ出る。

一瞬の睨み合い。

「……チッ」

男は小さく舌打ちをする。

この狭い空間で自在に剣を操るアスアドとの実力差を鑑みるに、侵入者の男はこれ以上の長居は無用だと判断した。

一瞬の隙をつき、額に脂汗を浮かせた男は素早く踵を返し、先ほど自分が侵入した窓から飛び出す。

「待て!」

「いい、アスアド追うな!」

「…しかし!」

ユースィフの声に、アスアドは足を止めて息を一つつく。

後には、短剣を持った男の腕だけが落ちていた。

アスアドは落ちているそれを一瞥すると、ユースィフを振り返る。

「お怪我は、ございませんか」

「ああ、大丈夫だ」

ユースィフの無事を確認すると、アスアドは漸く安堵の表情を浮かべた。

剣についた血をぬぐい、鞘へとしまう。

「……しかし、良いのですか?」

「ん?」

「あの程度の侵入者なら、おれは捕らえることもできました」

「ああ……」

ユースィフは事前に『もし、侵入者があっても殺したり捕らえたりするな』とアスアドに命じていたのである。

不満げなアスアドにユースィフは微かに笑った。

「いいんだ。というか、あいつには無事にアジトへ戻ってもらわなくちゃ困る」

「はあ……」

腑に落ちない様子のアスアドだったが、反論することはしない。

ユースィフは腕を組むと、再び件の絵に向かい合う。

「まあ、その辺りはミシュアルがうまくやるだろう」

ユースィフの言葉に、一瞬アスアドは口を開きかけたが結局何も言わずに黙った。

「いくつか、解った事もあるしな」

ユースィフはそういうと、その端正な顎を撫でた。



あくる日、ユースィフたちは再び永平房にいた。

永平房の中では一番活気のある通りを、一行は歩いている。

五人は粗末な服を身につけ、まるで貧民のような格好をしていた。

そろそろ陽も傾く頃、ジュードはおずおずとユースィフに質す。

「本当に、今夜はこの格好で、この房で一夜を明かすのですか?」

ジュードはそう言うと、小さくため息をついた。

その端正な顔を隠すために、顔に泥を塗ったユースィフが楽しそうに頷く。

「ああ、そのつもりだ」

「というか、すでに暮鼓が鳴り始めてますから、今から我々の房へ戻るのも無理ですからね……」

ジュードの言葉に、士英はほつれた髪を手櫛で梳かしながらそう言った。

「まあ、そうなんですけど」

ジュードはそう言いながら、腕を組む。

「で。今日はどこに行くんだ。それくらい教えてくれても良いだろうが」

ジュードの言葉を引き継いで、ハーシムがそう問うた。

「うん?そうだなあ、オレにも判らん!」

からからと笑いながら、ハーシムの問いにユースィフはそうあっけらかんと答える。

「はあ?!おいユースィフ、それはいったいどう言うことだ?!」

普段ならハーシムのユースィフに対する乱暴な言葉を咎めるアスアドすらも、驚きのあまり思わずユースィフを見つめた。

ユースィフが奔放なのは今に始まった事ではないが、決して考え無しな人間ではない。

むしろ、その優秀な頭脳は一見なんの関係のないように見える行動でも、必ずほぼ全ての行動になんらかの意味を持たせているのだ。

むろん、今回もそうなのだろうが……。

「それは、本当ですか?ユースィフ殿」

士英の言葉に、ユースィフはひとつ頷く。

「ではなぜ一体このような所にこのような格好をしてまで…」

ジュードの言葉に、ユースィフは通りを歩く足を止めずに皆を振り返った。

「次に行く『場所』はオレも知らない。たけど、『』は解ってるさ」

そろそろ暮鼓が鳴り終わり、夜道に闇が降り始めた頃。

ユースィフは顔を振ってある場所を指した。

「ここは…」

そこは、つい先日訪れた明明の家の裏手だった。

「なんだって、こんな場所に…」

ハーシムの言葉に、ユースィフはシィ、と唇の前に人差し指を立てる。

「皆の知りたいことは、彼が教えてくれるさ」

ユースィフがそう言った矢先、カラカラと戸口が開き、明明が姿を表した。

そして、絵を描く道具を一式持ち、フラフラと出かけてゆく。


「さあ、次にどこに行くかを彼に案内してもらおうじゃないか」

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