第6話
一同が自分たちの屋敷に戻ると、丁度ユースィフの指示を受けて調査に出ていたミシュアルが戻ってきていた。
「な…なんて格好をしているんだ!あなた達は!」
綺麗好きで几帳面なミシュアルは、貧民の格好をしていたユースィフ達を見て面食らう。
特に、泥だらけの顔をしたユースィフの姿を見て、一瞬気が遠くなるのを感じながら、首を振った。
「おお、ミシュアル。戻ったか。首尾はどうだ?」
自らの格好を気にせずそうのんびり問うユースィフに、ミシュアルはその神経質そうな眉を釣り上げて叫ぶ。
「そんな事は後でお話しします!まずは湯に浸かってください!今!すぐ!!」
「ん?はは、お前は本当に綺麗好きだな」
ユースィフはミシュアルにグイグイと背中を押されながら、湯屋に押し込まれる。
「あなた方も!さっさと身体を拭いて着替えてくる!」
すごい剣幕で指を指すミシュアルに一同は苦笑いをすると、着替えをするべくすごすごと各自の部屋に引き上げた。
ミシュアルの言う通り、いつまでもこんな格好をしている必要はない。
「で、どうだった?」
半刻ほどして一同が朝食のために集まった席で、ユースィフは再びミシュアルにそう質す。
「はい。あの男は、
もちろん、尾行を警戒して様々な場所を迂回しているので、「最終的には」と言うことになる。
ミシュアルは果実水で喉を潤すと、ことの詳細を話し出した。
「王羽は死亡した李喬の同僚です。仲は決して良くなかったそうですね…」
「ふうん」
ユースィフは一口魚を口にすると、興味深そうにミシュアルを見据えた。
ユースィフ達イーマン教徒は『穢れ』があるとして食してはならないものがある。
特に禁止されているのは豚、犬、血、酒。
他の肉は食べても良いが、そこにも厳格な取り決めがあった。
食用の獣を屠殺する時には、同じイーマン教徒である者が祈りを捧げながら行うこと。
これが為されなかった獣の肉は『穢れ』として食することはできなかった。
この永泰では、なかなかそれらの食材を揃えるのは難しい。
そこでユースィフ達の屋敷では、イスハーク出身者の多い街…堯の言葉で
そもそも、堯におけるユースィフの本邸も洋州にある。
あくまでもこの永泰の邸宅は別邸なのだ。
「その王羽とか言う奴が何故ユースィフ様を狙ったんだ」
アスアドの言葉に、ミシュアルは言葉を続ける。
「王羽と李喬は同じ金吾衛。そして出世を争う競争相手であり、尚且つ『裏金』をめぐる縄張り争いもしていました」
つまり、と士英は言葉を引き継いだ。
「王羽には、李喬を殺害する動機があったということですね?」
「そういう事になる」
「それはわかった。だが、それでどうしてユースィフ様が狙われるんだ」
「そこなんだ」
ミシュアルはトントンと指で机を叩くと、思案げな表情をする。
「素直に考えれば、この件を調べているユースィフ様が邪魔だったろうと考えるんだが…それにしてもやり方がお粗末すぎる」
これでは『オレを捕まえろ』と言っているようなものだ、とミシュアルは思う。
こんな事さえなければ、李喬の死に関係するものとして、王羽の名が上がることもなかったはずなのだ。
「正直に申し上げて…」
ミシュアルは再びユースィフに向き直ると、報告を続けた。
「もし仮に、王羽が李喬を殺害したとしたのなら、いったいどうやって殺したのか…」
「怪異を使ったんじゃないのか?」
ハーシムの言葉に、ミシュアルは首を振る。
「あなたが王羽なら、心底殺したい相手にそんな不確かな方法をとるか?」
「……違いないないな」
ミシュアルの言葉に、素直にハーシムも頷いた。
しかも、とミシュアルは続ける。
「こと、怪異の件については王羽は全くと言って良いほど接点がないのです……」
ミシュアルが調べたところ、李喬が件の絵を手に入れたのは
その呉曹も、また別の人物から絵を手に入れている。
王羽は、件の絵画については李喬になんの接触もしていないのだ。
言うなれば、『棚からぼたもち』で出世街道を手に入れたことになる。
では、なぜ王羽はユースィフの命を狙ったのか…。
「そこが分からないのです」
ミシュアルはそういうと、机の上で指を組んだ。
「……おい、そもそも本当に王羽がユースィフを狙ったのか?」
ハーシムの言葉に、ミシュアルが眉を顰める。
「どういう事だ」
「お前、尾行の途中でわざと別の所へ案内させられたんじゃないのか?」
「何?!」
ミシュアルが椅子から腰を浮かせようとした時、それまで黙って聴いていたユースィフがトンと食器を置いた。
ただそれだけだったが、ハッとしたミシュアルは咳払いをして椅子に腰掛け、ハーシムは口を継ぐむ。
双方が黙ったのを見届けて、ユースィフは口を開いた。
「ミシュアルの隠密技術は、そんなにお粗末じゃないさ」
机の上で腕を組み、にっと笑いながらそうユースィフが言う。
「は……ありがとうございます」
ミシュアルはそう言って首を垂れると、ハーシムはちっと舌打ちをした。
では、なぜ。
「何かまだ、オレ達が知らない事がありそうだなぁ」
ユースィフはそう言いながら頭の上で手を組むと、楽しげに笑う。
「……そのようですね」
ジュードはそう言うと、窓から差し込む陽の光に眩しそうに目を細めた。
約束の日まで、後六日ーー。
ジュードはそっとため息をついた。
その書物には、およそ百年ほど前の悲恋の話が書かれている。
世が周宗皇帝の時代のことだった。
周宗皇帝は、その政治的手腕から「幻の大賢帝」と呼ばれているが、その一方で「英雄色を好む」の言葉通り、色恋にも派手な皇帝として有名だった。
後宮には数多く美女が揃い、皇后、四夫人、九嬪にはじまり、女官達を全て数えれば実に千人は超えていたという。
そんな中で起こった悲恋の話を、景興は読んでいた。
いや、話だけならもうすでに何度も読んでいる。
物語はすでに頭の中に記憶されているが、それでも景興はその書物を手に、部屋の中を行き来していた。
ーー詩が、出来ない。
景興は久々に産みの苦しみを味わっていた。
既に詩人として名を馳せはじめていた景興であるが、ある人物から頼まれた、悲恋の歌がどうしても出来ない。
景興は書物を卓に置くと、その理知的な目を閉じてため息をついた。
景興は、そもそも今まで「恋」というものをしたことが無い。
もう三十も半ばになるが、今までずっと詩や仕事に生きてきたからだ。
そして、それで良いと思っていた。
が、ここにきて、それが仇となった。
恋の詩が、書けないのだ。
景興は眉間を軽く押し揉むと、窓の外を見つめる。
徹夜明けの朝日は眩しい。
そういえば、と景興はぼんやり昨日友人から聞いた話を思い出していた。
詩のことで手一杯で「怪異が出る」という絵の話をおざなりに聴いていたが、よくよく考えてみればその絵に書かれていたのは悲恋の男女だと言う。
ーーその絵画が見てみたい
何か、詩を書く上で手がかりになることがあるかもしれない。
藁をも掴む気持ちで、景興はそう思った。
「そういえば、知人の
思うが早いか、景興は簡単な身支度をし、文も出さず足早に邸を出た。
「ーー景興、全く…来るなら来るで文くらいよこさんか」
差し出された茶を飲みながら、景興は頭をかいた。
「すまん。どうにも気が早ってしまってな…」
「まあいい。で、今日はあれの件か」
絶乾は壁にかけられた絵を顎でしゃくると、にやりと笑った。
「ああ、そうだ」
「ふふん、珍しいな。お前がこういう俗な事に興味を持つとは」
「そう、かもしれんな」
景興は肯定して頷くと、件の絵に視線をやる。
その絵はぞくりとするほど素晴らしく、男女の悲しみが自分の胸にまで溢れてくるような絵だった。
「だがな、景興。残念ながら怪異の話は眉唾だったぞ」
「なに?」
絶乾は自分の袖に手を差し込むと、少々悔しそうに言う。
「この絵を手に入れて既に5日経つが、私のところには一向に怪異は現れん」
ふん、と鼻で息を吐くと、絶乾は景興へ視線をやった。
「他に、この絵師の絵を手に入れた者たちもそうだったようだ。まあ、確かに夢に出てきそうな程素晴らしい出来の絵ではあるがーー」
まあ、怪異の噂は噂でしかなかった、と言う事だな、と絶乾は苦笑した。
「だからな、景興。済まないが無駄足だったようだぞ」
絶乾は差し入れた手を出し、茶を啜りながらそう言う。
「なんなら景興。二、三日この絵を持っていくか?私のところには怪異は出なかったが、もしかしたらお前のところなら、あるいは怪異も出るかもしれん」
「ーーいいのか?」
怪異が出ようとでまいと、この絵のあふれる情感が素晴らしいことに変わりはない。
景興は、もしかしたら、この絵を見ながらであれば良い詩が浮かぶかもしれないと思っていたのだ。
「いいとも。どのみちここにあってもただの絵だ。そのかわりもし、怪異が出たら一番に私に教えてくれよ」
絶乾の興味の対象は、絵そのものではなく怪異にあったらしい。
景興は、絶乾に何かあれば報告する事を約束すると、少し浮かれながらその絵を持って帰ることにした。
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