第7話
その日の夜、景興は書斎の目立つ場所に借り受けた絵をかけて眺めた。
昼に見た時にも思ったが、部屋に持ち帰りゆっくり眺めてみれば相変わらず素晴らしい。
男女の恋慕や悲しみが溢れて自分の胸にまで押し寄せてくる。
恋愛経験の乏しい景興にさえ、この男女がいかに惹かれあい、愛しあい、そして別れを悲しんでいたかを訴えかけてくる。
景興はため息をつくと、思わずその男女の姿をやんわりと指でなぞった。
ぴりっ
その時、指先に何か小さな雷が走ったかのような違和感を感じて、景興は思わず絵から指を離した。
「ーーなんだ?!」
景興は、確かめるように再び男女の絵を触れる。
ぴりりっ
やはり、小さな雷が指先に走ったような違和感があった。
景興は、まさかと思いながら三度、絵に触れる。
ぴりり
今度は小さな雷を感じても指を離さず、じっとその男女の絵に深く集中した。
突如、まるで記憶の奔流のような映像が、景興を襲う。
轟々と流れ出る記憶に思わず押し流されそうになるのを必死で押し留めながら、景興はしかと目を開いた。
宴…煌びやかな舞、豪華な料理、酒…
景興は荒い息を吐きながら、絵から指を離す。
ーー今の映像はなんだ?
ドクドクと脈打つ胸を押さえながら、景興は額の汗を拭うと、自らの震える指先を見つめた。
この絵に残るのは『魔力』の残滓。
間違いなくそうだ。
自分も『魔力』をもつ物として、確信する。
しかも、この魔力は、何者かによって『封じ』られていた。
それを、『精神感応能力』のある自分が無理矢理開いてしまったーー。
景興は迷った。
四度絵に触れ『絵の記憶』の海へ身を投げるか。
このまま何も見なかったことにして絵を返すか。
何度も手を伸ばし、引く。
興味はある。
もしかしたら、詩の助けになるような事がわかるかもしれない。
しかし、もしかしたらそれは、引き返せない沼に足を踏み入れることになるかもしれなくもあった。
ーー頼まれた詩の一つくらい、書けなくても良いではないか。
ーーいや、この景興ともあろうものが、そんな事でどうする。
相反する二つの意識がせめぎ合う。
しばらくの後深い息をつくと、景興は四度その絵に手を伸ばした。
結局、絵に対する興味が何よりも勝ったのであるーー。
ほろほろと美しい楽の音があちこちから溢れている。
弦楽器、笛、太鼓ーー。
様々な国の、様々な楽器が、まるで天国のように鳴り響いていた。
その周りでは、美しい女官達がたおやかな舞を披露する。
彼女達が回れば、ふうわりとその絹から芳しい香りがあたりを舞った。
詩人が朗々と歌を読み上げ、貴人たちは池を模した器に注がれた酒を飲んでいる。
宮のあちこちにきらきらした宝石や金、真珠で飾られ光が揺らめいている。
肉の焼ける良い匂いが漂い、その横では魚が炊かれていた。
ここにない物はないのではないか。
そう錯覚させられてしまうほどだ。
まるで、ここは幻想郷のようだった。
「わたくし、茘枝が食べたいわーー」
美しい貴妃の1人がそう言えば、宦官が恭しくそれを献上する。
ほほほ、と笑いながら美しい指先でそれを受け取ると、その色気のある口元に運ぶ。
それを見て、煌びやかな衣装を着た大層威厳のある男が口を開いた。
「呂貴妃や。私は其方の舞が見たい」
「まあ、陛下。勿論でございます」
そう言うと、その美しい貴妃が舞を始める。
薄衣が揺れ、なんとも美しい。
「李範よ!呂貴妃の舞を絵にせよ!」
「ははあ」
「あら、陛下。ならばわたくしは歌を歌いましょう」
そろそろと歩み出た淑妃に、皇帝は破顔して頷く。
「そうか!それは楽しみじゃ!何をしておる!高淑妃のために楽を鳴らせ!」
命を受けた楽団は高淑妃のための楽を奏で始めた。
絢爛な宴はつづく。
夜も更け、酔い潰れる者がで始める頃ーー
ある美しい女官が、離宮の隅で涙を流していた。
歳の頃は18、9。
派手さはないが、清楚な雰囲気をもつ女官だった。
彼女が後宮に参内して、一年。
後ろ盾のない小貴族出身の彼女に、後宮の暮らしは辛かった。
それだけではない。
彼女には、ある心残りがあった。
女官ーー
彼女の家には男児がおらず、また周りに有力な官人も居ない。
このまま彼女の家は中央にも出ず、出世もないように思われた。
しかし、彼女が不幸せだったかと言えば、そうではない。
彼女には許嫁がいた。
彼の名は
同じく小さな貴族の家の次男だ。
彼らは幼馴染であり、愛し合う恋人同士でもあった。
陸曄は、これと言って学問が優れているわけでも、武力に優れているわけでもない。
しかし、優しい、人柄のよい好青年だった。
桂英はそんな彼と一緒になれる日を、長いこと夢見ていた。
「おや、どうしたんだい桂英、ずいぶんとご機嫌じゃないか」
上機嫌の桂英に、陸曄が優しげに話しかける。
「
夢見るようにそういう桂英に、陸曄は微笑む。
「君ならどんな衣も似合うと思うよ」
「まあ、阿曄ったら」
2人はそう言って笑い、手を握りあう。
「ああ、きみの花嫁姿…ぼくもとても楽しみだよ」
「嬉しい、私も早くあなたと一緒になりたいわ…」
幸せそうに微笑む二人。
しかし、二人の幸せもそう長くは続かなかった。
「桂英!どういうことだい!後宮に上がるだなんて…!!」
「阿曄…!!」
目にいっぱいの涙を浮かべながら、桂英は陸曄に抱きつく。
桂英の美しさを聞きつけた宦官が皇帝に進言し、皇帝は桂英の後宮入りを所望したのだ。
低い身分の貴族である羊家は、皇帝の命令には背けない。
両親は、桂英と陸曄が愛し合っているのを重々承知していたが、それでも書状を持ってきた宦官に泣く泣く首を縦に振った。
「いやよ、行きたくないわ!」
「ぼくだって行かせたくない…!!」
陸曄は桂英をきつく抱きしめながらそう言う。
しかし、後宮入りは既に決まった事。
これを翻意することは、皇帝に逆らうことに他ならない。
下手をすればお家取り潰しの上、一族郎党全て処刑されてもおかしくなかった。
桂英は家族から頼むからと泣いて懇願され、仕方なく、心を陸曄へ渡したまま後宮へ上がることとなったのである。
後宮での生活は厳しかった。
女官同士の腹の探り合い、足の引っ張り合い。
皆、皇帝の寵愛を得ようと必死だった。
なにより、ここには陸曄がいない…。
美しい絹の衣があっても、豪華な食事があっても満たされない。
桂英は、毎日後宮の隅で泣いて暮らしていた。
そんなある日、皇帝主催の大きな宴が開かれることになった。
それは永泰から少し離れた離宮で行われる。
その宴のために、多くの宦官や官人たちが必死で準備をしていた。
それは、現在皇帝の寵愛を得ている呂貴妃と高淑妃の意地の張り合いでもあったからである。
豊満で奔放、踊りの名手な呂貴妃と、華奢で貞淑、歌の名手の高淑妃は、至る所で火花を散らしていた。
桂英は、どちらの派閥にも属せず、ただ奔流に流されるがままに後宮で暮らしていたが、一年がたった今、そうも行かなくなりつつある。
桂英は小さくため息をつくと、腫れた目をしょぼつかせて立ち上がった。
自分も女官である以上、宴の準備の仕事をせねばならない。
「阿曄…あなたは元気かしら…」
呟いてから、桂英は自嘲気味に笑う。
もしかしたら、もう既に別の相手と結婚が決まっているかもしれない。
陸曄は良い人だから、きっと誰とでも幸せになれるだろう。
自分のことなど既に忘れたはずだ。
自分を裏切った相手など、愛おしく思うはずがないのだから。
鼻を啜り衣の裾を簡単に払うと、桂英はゆっくりと人混みに消えていった。
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