第2話
翌日、一同は揃って居徳房の李喬の屋敷にいた。
案内をしているのは弟の李順だ。
李喬の屋敷はなかなかの豪奢だった。
煌びやかな装飾が数々施され、きらきらと輝いている。
調度品もあまり品が良いとは言えないが、物としては高価なものが多かった。
金吾衛の給金だけではこの屋敷は建つまい。
おそらく、何がしかの金……賄賂などが李喬の懐に入っていたのだろう。
李順は五人を伴い、李喬の亡くなった部屋の前でたちどまった。
その部屋は今まで見てきたこの屋敷の部屋の中でも最も豪奢に作られていて、ここが主人の部屋だと言外に語っている。
少し躊躇ったのち李順が部屋の扉を開けると、不意に錆びた鉄のような匂いがユースィフの鼻腔をついた。
ーー血の匂いだ。
ユースィフはその目に興味を溢れさせ、その視線を部屋の中へとやった。
李喬は、心の臓が止まって死んだはずだ。
血の匂いがするのはどう言うことか?
それとも、この匂いは自分にしか感じない物なのか?
チラリと李順を盗み見ると、気味悪そうな顔をしてはいるものの、血の匂いのような物を感じている気配はない。
この男であれば、鼻を押さえたりしそうなものだ。
ふふん、とユースィフは部屋へ視線を戻した。
「ここでございます」
この部屋が怖いのか、はたまた薄気味悪いのか、李順は部屋の中へ入ろうとせず、扉を開けたままユースィフたちを部屋へ促す。
構わず、ユースィフはその部屋へと足を踏み入れた。
「うん」
部屋中を見渡し、ユースィフは小さくつぶやく。
部屋はわずかに乱れており、屍体こそ片付けられて居るものの、酒が入っていたと思われる器がそこかしこに転がっていた。
李喬が持っていたと思しき刀も、鞘に入ったまま捨て置かれている。
「調査があったもので…部屋の片付けが済んでおりません」
言い訳がましく李順はいうが、おそらく『怪異』で人の死んだこの部屋に入りたいと申し出る者が居なかったのだろう。
ユースィフはそうですか、と形式的に返事をすると、その鋭い視線であちこちを観察する。
そして、さらに視線の先、奥の壁には件の絵。
悲しそうな顔をした男女の絵が、壁にかけられたままとなっていた。
「これがーーーははあ。確かに見事な絵だ」
ユースィフはその顔に微笑をたたえ、ゆっくりと絵に近づいていく。
彼の言う通り、それは本当に見事な絵だった。
男女の悲しみが真に迫ってくる、逸品。
怪異騒ぎさえなければ、相当の高値がつけられるだろう。
絵の銘は「
有名な絵師の名ではない。
まだ新進気鋭なのだろう。
ユースィフはしばらく思案した後、その絵から視線を外し、部屋の外の李順を振り返った。
「この絵ですが、少しの間お借りしても良いだろうか」
「勿論ですとも。むしろ、差し上げてもよろしゅうございますよ…」
ユースィフの問いに、李順はそんな奇妙な絵は要らないとばかりに、そう即答する。
「本当ですか?」
「ええ、勿論差し上げます…」
「それはありがたい」
ユースィフはそういうと、ジュードへ絵を回収するよう指示する。
「ジュード、頼む」
「かしこまりました」
ジュードは一つ頷くと、丁寧に絵を外し布で包み込むと袋へとしまう。
「それから」
ユースィフは部屋を見回し、いくつかのものを借り受けることが出来るか李順へと問う。
「ええ。ええ。なんでも、いくらでも。この怪異騒ぎが収まるのであれば、なんでもお持ちください」
李順は大きく頷きながらそう請け負った。
「それにしても、見事な絵でしたね」
李喬の屋敷を後にし、自分たちの屋敷のある房へと帰る道すがら、ジュードは手に持った絵に対して不意にそんな感想を漏らした。
「ああ、そうだな」
ユースィフはその言葉に賛同すると、ふっと微笑う。
「しかし、この絵が本当に怪異を起こすのでしょうか…」
アスアドは、いまいち信じられないといった風に眉を顰めた。
「そりゃあ、その絵を壁にかけておけば、今夜わかるんじゃないか」
「おい、ハーシム…」
相変わらず他人事な風のハーシムに、アスアドが再び口を開こうとした時、ユースィフが心底楽しそうにその言葉を遮る。
「ああ、そのつもりだ」
人の心の臓を止めた怪異を見るつもりだとユースィフは言うのだ。
「えっ!」
アスアドは思わず大声をあげると、ユースィフに向き直った。
「危険です!」
その意思の強そうな眉が、心配そうに歪められる。
ユースィフはそんなアスアドに小さく笑った。
「ん?アスアドはこの絵の怪異が人を取り殺すと信じてるのか?」
「い、いえ、そう言うわけでは…しかし…」
思わず口籠もるアスアドに、士英はやれやれといった体で助け舟を出す。
「その時は、あなたの出番じゃないですか、アスアドさん。あなたはユースィフ殿の護衛なんですから」
「そ、そうか…そうだな。ユースィフ様はおれがお守りする!!」
ぐっと拳を握るアスアドを横目に、ハーシムはため息をついた。
「その自慢の剣で切れる相手だといいけどな」
「な……!」
「二人とも、その辺で。大の大人が真昼間に通りで喧嘩しないでください」
ジュードはそう言って眉を顰めると、ユースィフの方へ向く。
「ユースィフ様、今日はこのまま屋敷へお戻りですか?」
「いや、一箇所寄りたいところがある」
「どちらへ?」
「それは、行ってからのお楽しみだ」
ジュードの言葉にそう返すと、ユースィフは楽しげに屋敷とは反対方面へと歩き出した。
ユースィフ達一行が着いた先は、永泰の中でも貧民街と言われる永平房だった。
永泰と言う街は、北に一番の要である皇帝の城、宮城がある。
宮城の南門である朱雀門から、永泰の南の端の明德門まで延びる、百五十メートルもの幅を持つ大通り、朱雀大街を軸として東西対称の碁盤の目状に造られた、豪華絢爛な都市である。
勿論、全てが豪華絢爛なわけではない。
先にも書いたように、平民街、貧民街というのも存在する。
具体的に言えば延平門より南の坊は郊外と言われており、その辺りはあまり治安の良い地域ではないと言われていた。
永平房内は永泰の北側と違い、活気のないがらんとした印象を受ける。
あたりを歩く人々の服装も質素で、また薄汚れていた。
この房内では、身なりの良い西方の服装を着た彼ら一行はとても目立っている。
痩せた五十過ぎの男がギョロリとした目でユースィフを見た。
その視線に、アスアドが威嚇するように睨むと、男はヒッと声をあげて走り去る。
「ユースィフ様、お気をつけを」
アスアドはそう言うと、他にも害のある気配がないか、周りを見渡し気を張る。
「うん」
そう言いながら、ユースィフはゆるりと通りを歩いた。
「ああ、この先ですね」
士英は地図から目を離してそう言うと、ユースィフを振り返る。
ユースィフたち一行が訪れたのは、房内のある質素な家屋だった。
質素ではあるがそれなりに清潔に保たれている。
この家には健全な空気が流れているようだ。
「すまないな、誰かいるだろうか?」
ユースィフは臆しもせず、家屋の扉を控えめに叩く。
しばらくすると、中から歳の頃十二、三の少年が家から顔を出した。
「はい」
家から出迎えた少年は、戸口に立っていたユースィフの姿に驚くと、思わずその口をぽかんとあけた。
いくら人種の坩堝である永泰とはいえ、こんな郊外の房で西方の人間を見ることは稀である。
ましてや、一度に四人も。
少年は驚きのあまり、ただユースィフたちを見上げた。
ユースィフはその顔に微笑をのせると、沈黙を破るように口を開く。
「急にすまないな。明明というのは、君のことだろうか」
明明と呼ばれた少年はコクコクと首を動かすと、ハッと気を取り直したように口を開いた。
「は…はい。明明はぼくです…」
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